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私を食べて

 会社につき、タイムカードを押すと、後ろに快人がきた。

 匂いで分かる。女物のシャンプーとひげそりの混ざった偽物の清潔感。

「おはようございます」

 私は自分のカードを入れ物にねじこんだ。

 ギギッと苦い音を響かせて時間を刻んだ。

 一瞬でも近くにいたくない。

「おはよう」

 後ろから声が追う。

 やたらと高い快人の声。

 顔を見たい感情を笑い、頭を小さく下げるだけで返した。

 シャンプーはまだアレだ。

 私はもう捨てた。

 まだシャンプーを捨てたのは生まれて初めて。

 排水溝に流れる白濁した液体を見ながら思った。

 さあ、今すぐ消えろ。

 白い液体はどくどくと流れた。

 ゆっくりと、でも確実に、匂いだけを残して目の前から消えた。

 私はそこに漂白剤をかけた。

 真っ白にする。全部真っ白に。


 ずっとずっと信じていた。


 一緒に長く過ごした時間が多ければ多いほど、恋人になるのだと信じていた。

 恋人という関係を作るのは時間だと信じていた。三年。三年も一緒に居たのだ。

 三回一緒に桜を見た。

 三回一緒に「暑い」と水浴びをして、三回一緒にガスストーブの掃除をした。

 その先にある永遠を、何度も口にしたじゃないか。

 あれは何だったんだ。

 私には時間は沢山あったはずだ。



 ――――先月入社してきた新人の美崎さんよりずっと。




 快人が

「彼女になりました」

 と私の目の前で紹介した美崎さんより。

 あの時の私はどんな表情をしていたのだろう。

 驚きすぎると人間はきっと表情を失う。

 理解が時間に追いつかない。

 あまりにも普通に恋人として付き合い始めたので、私と一緒にいた時間は夢か蜃気楼か、時空の隙間に飛ばされたか、存在しない時間軸か。

 本気で思ったが、玄関に転がる二つの鍵も、置きっ放しのユニクロで買った毛玉だらけのパジャマも、しわだらけになって閉まわれてる夏のパジャマも、ひげそりの充電器も、全てが時間と暮らしとそれが恋人になるはずだった、その後の家族さえ想像される愛に満ちた物であることは間違いなかった。


 一ヶ月前まで。


「おはよう」

 美崎さんが快人に声をかける。

「今日は早かったじゃん」

 快人が頭をこずく。

 今日は。

 今日も。

 今日からも。

 明日も明日からも、ずっと。

 二人には未来があって、私は無い。

 それがどうしても理解できないし、それを快人に聞くべきなのか、それを一ヶ月前、彼女だと紹介された時に聞きそびれたから、記憶怪獣に出会えたのか、正解が分からない。

 そしてたぶん、私の明日に、過去に、正解はなくて、今だけがある。

 問い詰めるべきだった。

 私たち付き合ってたよね? いつ別れた? そのタイミングは完璧に失われた。

 じゃあいつ聞けば良かったのだろう。

「今日も行くね」

 と言われたのに来なかった夜、自宅に行くべきだったのか。

 何度電話してもでなかった夜。

 五分ごとに私が携帯を見てる時、二人は恋人になったのだ。

 私と付き合い始めたと思われる三年前、そしてその後に続く三年間、一度も快人は私を「恋人」だと誰かに紹介しなかった。

 それで察するべきだったのか。


「これお願い」

 声に顔を上げると議事録を持った快人さんが居た。

 記憶と現実が理解できなくて、動けない。

「はい、おまかせあれーー」

 その議事録を、隣の席の祐子が持って行く。

「……祐子さん、間違えないでよ」

「私がいつミスをしましたかー?」

「いいけどさ」

 快人が去って行く。

 あのシャンプーの香りをさせて。

 私はまだ動けない。

「どこまで無神経なの、あの男」

 祐子が机に議事録を投げつける。

 パシンと軽い音がして、私は我に返る。

「……ううん、大丈夫」

「クソ男、マジで腹がたつ」

 祐子は、唯一事情をしる友達だ。

 祐子が居なかったら、今頃私は会社を辞めている。

 昨日から引き続きしている仕事を再開する。

 ミミズのような文字で書かれた会議議事録を、一気に文字に起こす。

 これを書いたのは制作の新垣さんなら、ここはこういう意味で書いたのだろう。

 自分でも気持ち良いくらい速度でキーボードを叩いた。仕事は好きだ。

 ただ淡々と時間がすぎて、それがお金になる。

 とりあえず今日を終えないと明日が来ない。

 今日を終えて来る明日に快人も希望も無くても。



 仕事終えて駅に下りると改札に深雪が居た。

「おかえり」

「ただいま」

 その当然の言葉に、ただ、泣いた。

 この世界が現実なのか、別の時空ではまだ私は快人と付き合ってるのか、何も分からない。

 深雪は私の手を両手で包んだ。

 細い子供の指と、小さな掌。

 体温を感じないのに、なぜか温かい。

「ごめん。もっと、ちゃんと記憶食べるね」

 辛いね、辛いから、私がいるからね。

 深雪は繰り返し言った。

 深雪と私は手を繋いで帰った。

 小さな子供の手を引いているのは私だけど、手を引かれてるのは私だった。

 世界の全てが私の邪魔をする。

 駅のホームも商店街も、いつものビデオレンタルも。

 全てに快人との記憶がある。信号の変わるタイミングも、駅前に止まる車も、古びたポスターも、全てに。

 何も見たくないのでずっと泣いていた。お菓子を買ってもらえない子供のように、ずっと泣いた。

 帰宅して深雪は私を部屋の真ん中に座らせた。



「じゃあ、食べるね。頂きます」



 それを聞いて私は、また泣いた。

 どれほどこの瞬間を望んだか分からない。

 どれほど記憶怪獣に出会いたかったか分からない。

 毎日探してた。

 会いたくて探してた。

 噂だと知っていた。

 でも存在すると信じていた。

 記憶を食べてくれる怪獣。

 快人が私のことを無かったように扱うのに、私には有ったことが耐えられない。

 すべては有ったのに、この部屋に有ったのに。

 それを口で吐き出せない私には、居場所がない。


 ふわりと頭部が温かくなり、目から上の感覚が消えた。長くお湯に浸かっているような温かさ。

 お湯と自分の境界線が消えるような広がり。

 私の頭部は今、世界と繋がった。

 ありがとう、本当に、私の前に現れてくれてありがとう。

 涙が止まらなくて、服の襟首が濡れていく。

 追い炊きのボタンを押したように、お湯より温かい部分が私の頭の中に入ってくる感触に震えた。

 そこから広がり、満たされる。

 なんて優しい。

 頭の中に枝がはり、それが広がってゆく。

 炎天下の庭で水を待ちわびる花のように、しみこんでゆく。

 きっと今わたしの頭には花が咲いている。

 咲き誇る香り。

 きっと血管。

 それが引きちぎられて抜き去られる。

 雑草のように、刈り取られていく。

 根が繋がるタチが悪い雑草のように。

 ブチブチと引きちぎる音がする。

 夏の雑草を引き抜く昼下がりのような匂いがする。

 濡れていないのに、濡れているような草の匂い。

 そして虫をつぶした生臭さ。

 なんだったけ、この虫。そうだカメムシ。あれをつぶした匂いがする。

 ふわりと深雪に抱きしめられた。


「ちゃんと食べたよ、どうかな」


 視界が消えた。ここで倒れても良いという安堵感。

 一日中炎天下の動物園を歩き回った夜のように深く考える隙もなく、時間という観念が消えた夜に眠った。

 なんて暖かい夜。



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