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09 あの日、雨の中

 天音ちゃんがエクステをつけた美容院まで突き止めちゃうなんて。

 お父さん、それもうストーカーじゃん。


 いつもの調子で軽口を叩いて、この凍りついた空気を溶かしてしまいたい。

 でも、喉の奥に言葉がべったりと張り付いたみたいに、声ひとつ出すことすらままならない。


 笑えない。

 全然、笑えない。


 頭の奥で、ざあ、と音がした。

 テレビの砂嵐みたいな、白いノイズ。


 その向こうから、映像が流れ込んでくる。


 あの日。雨の中。


 みやびくんにスマホを奪われそうになって逃げた。角を曲がった先で待っていたのは、傘も差さず、ずぶ濡れになった天音ちゃんだった。


 濡れて顔に張り付いた長い髪が、まるで毒蛇みたいにうごめいて見えたのを思い出す。一瞬、誰だかわからなくて、仰け反った気がする。


『かなん。もうやめよ』


 そう言って、肩に手を置いた。

 そのとき、ふっと匂いがした。


 雨の匂いじゃない。


 たまごとケチャップが混ざった、甘い匂い。

 あれは、オムライスだ。


 天音ちゃんは料理がすごく上手だった。

 事故の日も、いつもそうしてくれたみたいに、楽屋でわたしに差し入れしてくれた。


『かなんの好きなオムライス。これ、夜にでも食べて』


 タッパーに入った、ふわふわのオムライス。ケチャップで『かなん』って書いてあった。


『メンタル落ち込んだ時はさ、大好物を食べないと』


 肩をぽん、と叩かれて、わたしは笑った。


『そうだね、ありがと』


 あの時の手の温度まで、思い出せる。


「メンタル、落ち込んだとき……」


 無意識に、その言葉が唇からこぼれ落ちた。


 優しい差し入れと、雨の中の毒蛇のような髪。

 矛盾する二つの像が、うまく重ならない。


 だから整理する。


 長い髪の天音ちゃん。

 怒ったみやびくん。

 オムライス。


 食べられないわたし。


「あ……」


 幽霊なのに、指先が冷える。


 天音ちゃんの手が、雨の中でわたしの肩に触れた。そのとき感じたあの匂い。卵とケチャップが混ざった、甘くて温かいはずの匂い。


 それが冷たい雨の中になぜ漂っていたのか。


 天音ちゃんはあの日、雨の中に出てくる前に、オムライスを作ったんだ。

 でもそれは、わたしのためじゃない。


 全部、繋がった。


 会見でみやびくんが言っていた。

 オムライスを作ってくれる、優しい彼女だって。

 あれは、わたしじゃない。


 わたしを道路に押し出して、スマホを奪って、死なせたあとで。

 彼と一緒にそのオムライスを食べた犯人への、熱烈なラブコールだったんだ。


 きっと、わたしが冷たくて暗い遺体安置所に一人で置かれている頃、みやびくんと天音ちゃんはオムライスを食べたに違いない。口元に真っ赤なケチャップを少しつけながら、二人で仲良く並んで。

 オムライスにケチャップで真っ赤な『かなん』ってわざわざ書いて、スプーンで撫でつけて消して、二人で半分こにして。


 わたしを食べた。


 視界がちらつく。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからない。


「お父さん……」


 声が、かすれた。


「わたし、天音ちゃんに突き飛ばされた」


 その瞬間、電球がジジッと鳴って、明かりが揺れる。


 喉がうまく動かない。


「天音ちゃんとみやびくん。二人で、わたしを……」


 わたしの感情に引きずられるみたいに、事務所の空気が冷えていく。


「思い出したよ。わたしはあの日、一番言っちゃいけないことを言ったんだ」


 雨の中、みやびくんは冷酷な目でわたしを見下ろしていた。


『……もう別れよう、かなん』


 信じられなかった。あんなに愛し合っていると思っていたのに。でも、わたしは食い下がった。


 だって、わたしのお腹の中には、彼との新しい命が宿っていたから。


『産みたい』


『無理だよ』


『なんで。わたしたちの子だよ?』


 みやびくんは少し黙ってから、言った。


『……俺の子って証拠は? それに、ピルを飲み忘れたお前の責任だろ』


 その言葉を投げつけられた瞬間、世界は音を立てて崩れた。

 みやびくんにとって、わたしは愛する人じゃなくて、ただの邪魔な障害物に成り下がったんだって。


 ぎゅっと手を握るけど、幽霊のわたしは、その手に怒りを込めることさえできない。


 すり抜ける指先。温度のない身体。

「わたし、死んじゃったんだ」って、妙に実感できて悲しくなる。


 あんなに優しかったみやびくんの口から出た言葉は、降りしきる雨よりも冷たく、わたしの心をズタズタに切り裂いた。


「確かにわたしの飲み忘れで、赤ちゃんができちゃったけど。でも、それって、わたしだけの責任なのかな」


 問いかけは、部屋の空気に溶けて、お父さんの耳には届かない。


「みやびくんがわたしのスマホを奪おうとしたのって、きっと赤ちゃんの写真が入っていたからだ。お父さん、知ってた? 産婦人科のエコー写真って、スマホのアプリと連動してて、データでもらえるんだよ」


「……なぁ、花南」


 お父さんが、絞り出すような声で言った。


「この件を書いた記事を、世に出すべきだと思うか?」


 その問いが放たれた瞬間、事務所の空気が一気に凍りついた。

 電球の点滅が止まり、しんとした静寂がわたしを包み込む。


「人は皆、自分に都合のいい物語を語る生き物だ。加害者は自己を正当化するために、被害者は自分を慰めるために」


「お父さんは、信じてくれないってこと?」


 信用されないのが悲しくて、ムッとした声になる。


「……俺がお前の言葉を信じるかどうかは、この際、重要じゃない。問題は、世間という怪物がそれをどう喰らうかだ」


 お父さんは、モニター画面をまるで凶器でも見るような目で見つめた。


「この記事を世に出せば、お前のすべてが娯楽として消費される。真実を暴くということは、お前の魂を土足で踏みにじる連中を招き入れるということだ」


 お父さんの視線が、透き通ったわたしの輪郭を真っ直ぐに捉える。


「花南、お前はどうしたい? お前の人生だ。……花南が決めなさい」


 事務所の時計が刻む音さえ聞こえないほど静かな中で、その問いだけが、意識の奥底にまで真っ直ぐに届いた。


 死んでいるはずで、もう動かない心臓が、どくん、と確かな熱を持って脈打つ。


 温度を失い、誰にも触れられなくなった今のわたしに、たった一つだけ残された権利。それは、わたしの物語に、自分自身でケリをつけることらしい。


 どうしたらいいんだろう。

 そんなの急に言われても、正解なんてわかんない。


 少し悩んで、お父さんを見つめた。


「お父さん、みやびくんと天音ちゃんって、今も付き合ってるのかな?」


 沈黙を破るように、わたしの声が事務所に響く。

 幽霊なのに、いまさらそこが気になるなんて、人間って、死んでまで自分勝手な生き物だ。でも、これはわたしがすっきり成仏できるかどうかに、深く関わる問題だから仕方ない。


「……いや」


 お父さんは苦々しく、一枚の写真を机の上に乱暴にすべらせた。

 そこには、天音ちゃんらしい人がみやびくんの頬を叩いている、まさにその瞬間が激写されていた。


「知り合いに二人を張らせていたんだが、たまたま撮れたのがこの一枚だ。この状況になった理由はわからない」


「わからないんだ」


 写真を見つめる。


 天音ちゃんが、みやびくんの頬を叩いている。とても仲睦まじそうには見えない。むしろ憎しみ合っているようにも見えてきた。もしかしたら、わたしを殺害したことで、二人の仲に亀裂が入ったのかもしれない。


 人に言えない秘密は、抱えると辛いから。


「そっか、やっぱりそうなっちゃうよね」


 わたしは力を抜いて宙に漂う。

 ふわふわと自由気ままに、お父さん臭さがぎゅっと詰まった事務所の中を。


「なんだ。わたしの死の上に築いた二人の関係なんて、結局その程度。砂の城だったんだね」


 二人には悪いけど、少しだけすっきりした。

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