08 あの子じゃない
わたしは殺された。たぶん、そうに違いない。
そう思った瞬間、胸の奥の霧が少し晴れた気がした。
さっきまで断片だった記憶が、一本の線になって繋がっていく。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
信号の赤い光。
そして、みやびくんの隣にいた、細い影。
「……花南」
お父さんが、抑えた声で名前を呼んだ。何かを慎重に確かめるような、探るような空気がそこにはあった。
「お前が言っている細い指の誰か。その人物に心当たりはないのか?」
「うーん……」
こめかみに指をあてるふりをして考えてみる。記憶は相変わらず霧の中だ。そもそも、顔が見えないし、声も思い出せない。でも、確かなこともある。
「女の子だったと思う」
「女?」
お父さんの眉がぴくりと動いた。
「うん。多分」
目を閉じて、あの日の雨の音に意識を集中させる。
ザーッという音。
タイヤが水を切る音。
みやびくんの怖い顔。
ぼんやりした感じだけど、女の子の輪郭が見えてきた。
「髪が、長かった気がする」
ぽつりと呟く。
「背も、わたしより少し低かったかな」
「……」
お父さんは何も言わないで、乱雑な書類の中から抜き取った、一枚の紙を静かに机に置いた。
「このアカウントに心当たりは?」
わたしは身を乗り出し、その文字列を覗き込む。
【@Justice_for_K】
「知らない……見たこともない」
透けた指先で、その冷たいアルファベットをなぞってみる。
ジャスティス・フォー・K。
Kのための正義。
その『K』が私のイニシャルであることは、わざわざ考えなくてもわかった。でも、そのあとに続く『正義』という言葉が、今の透けているわたしには、酷く不釣り合いな気がした。
「なに、これ?」
「事故現場に篠原がいたと暴露したアカウントだ。ほら」
お父さんが慣れた手つきでマウスを操作し、デスクトップ上のフォルダを開く。
『Baby☆U_事故関連調査メモ』
『LEVELZ_篠原雅周辺相関図』
『SNS拡散経路特定データ_20××』
並んでいるドキュメントのタイトルを見て、「ここまで調べるなんて、やっぱプロってすごいな」なんて、どこか他人事のように感心してしまう。
お父さんはその中の一つを、迷いなくクリックした。
画面に映し出されたのは、ある投稿のスクリーンショット。
《Baby☆Uの白色担当、赤瀬花南の事故現場に、LEVELZのみやびがいたらしいよ。証拠もある》
その短い一文を見つめているうちに、思考が急速に熱を帯びる。
あの雨の夜。事故現場には、みやびくんともう一人。謎の女の子がいた。
「わかった! このアカウントは現場にいた謎の女の子のものだ。それで、みやびくんに全ての罪を被せようとしてるんだよ。つまり、この投稿主こそが、わたしを突き飛ばした犯人!」
名探偵にでもなった気分で、透き通った人差し指をピシッと虚空に突き立てた。
「どうしてそう思うんだ?」
「そんなの勘だよ、あとはみやびくんへの愛」
「……」
お父さんは何も言わず、ただ静かに、そして深いため息を吐き出した。
わたしを見つめる視線は、もはや哀れみを超えて、未知の生物の理解不能な言動を目の当たりにした学者のような、深い絶望と呆れに満ちている。
「お父さんのその目はなに?」
「いや……。お前が透けても変わらず、直感だけで突っ走るタイプで安心したというか、頭が痛いというか……」
お父さんはゆっくりと顔を上げると、重く、どこか切なさを孕んだ声で告げた。
「いいか、花南。この世界に『愛』や『勘』で解決できる事件なんて一つもない。あるのは事実と、それを裏付ける証拠だけだ。お前のその『みやびくんを信じたいから、悪いのは謎の女』という願望混じりの推論は、ただの現実逃避というんだよ」
凍りつくような言葉が、透けた私の胸に深く沈んでいく。
「現実逃避じゃないもん。実際、現場に女の子がいたのは本当だし。そもそも、お父さんはこのアカウントが犯人じゃない証拠を持ってるの?」
「ないな」
さらりと返してきたお父さんは、椅子に深く背を預け首を振った。
「え、なんで? お父さん、プロの記者でしょ? こういうのって、パパッと開示請求とかして、住所とか名前とか特定しちゃうもんじゃないの?」
身を乗り出して食い下がった。ドラマなら、ここから犯人の自宅に突入するくらいの急展開があってもおかしくない。けれどお父さんは、疲れた手つきで目頭を押さえた。
「花南。法という秩序の壁を忘れるな。開示請求は魔法じゃない」
「でも、わたしを殺した犯人かもしれないんだよ?」
「……法的に開示が認められるのは、名誉毀損やプライバシー侵害、あるいは執拗な誹謗中傷などがあった場合だ。だがこのアカウントは、あくまで『目撃情報の投稿』という形を取っている。真偽はともかく、これだけで裁判所が個人のプライバシーを暴く許可を出すことは、難しいだろうな」
お父さんの言葉は、相変わらず冷静で、そして残酷なほど現実的だった。
「そんな……。じゃあ、犯人がすぐそこにいるかもしれないのに、指をくわえて見てるしかないの?」
透けた指先を握りしめる。もどかしさで胸が熱くなるのに、涙の一粒も出ない。
幽霊というのは、つくづく不便な存在だ。
お父さんは無言で机の上の資料を一枚、そっと引き寄せた。それは、Baby☆Uのアーティスト写真を印刷したものだった。
中央に写るのは、眩しいほどのスポットライトを浴びて、誰よりも不敵に、それでいて無邪気に笑うわたし。白色担当でキャッチコピーは、『白さえ飲み込む、絶対的プリズム』。
左右を固めるメンバーたちも、それぞれの個性を象徴するパステルカラーの衣装に身を包み、完璧なアイドルスマイルをカメラに向けている。
「みんなキラキラしてる。なんか、懐かしいな」
笑顔の裏で喧嘩もしたし、センターの座を巡ってギスギスしたこともあった。でも、ステージに立てば私たちは、『地下アイドルのトップに立つ』という目標に向かって一つになれた。
生きているうちは、詰まったスケジュールにうんざりして、マネージャーの村瀬さんに愚痴ったり、機嫌悪く対応しちゃったこともある。でも、わたしはメンバーのみんなも、アイドルという仕事も好きだった。
そっか、幽霊のわたしは、もうみんなと一緒にステージに立てないし、夢を追うことも叶わないんだ。
透けた手を見つめて、しょんぼりと肩を落とす。
「花南」
お父さんがわたしを呼んだ。
「どうしたの?」
落ち込む娘を励ましてくれるわけ?
なんてちょっと浮かれたのに。
「お前が最後に見た女の子は」
お父さんの指が、Baby☆Uのアーティスト写真の上をなぞって、ある人物の上で止まる。
「この子か?」
身を乗り出して確認する。
「……え?」
目が落ちるんじゃないかってくらい、大きく目を見開いて驚く。だって、お父さんがタバコの灰で汚れた指を置いたのは、わたしのすぐ隣にいる子だったから。
「それ、天音ちゃんだけど」
わたしと対になるような、黒い衣装。キャッチコピーは、『夜を統べる、静寂のモノクローム』。
間違いない、しっかり覚えている。
「まさか、お父さん、それはないよ」
笑ってしまった。だって、そんなわけないし。
天音ちゃんは、わたしの一個上の二十歳。あ、今はもう二十一歳か。
彼女は自由奔放なわたしのブレーキ役で、ファンの間でも『白黒コンビ』として絶大な人気があった。プライベートでも、お互いの家を行き来して、朝まで将来の夢や誰にも言えない悩みを語り合った本当の親友。
運営は、静寂のモノクロームなんて天音ちゃんにつけたけど、実際の彼女は情に脆くて熱血漢。いつだって、まるで自分のことのようにわたしの悩みを受け止めてくれるような優しい子だった。
「天音ちゃんは違うよ」
ありえないからと、手をひらひら振る。でもお父さんは、まだ天音ちゃんの写真を見つめている。しかも険しい顔で。
意味わかんない。
「天音ちゃんは、わたしの一番の親友だったの」
お父さんが大切な親友を疑うようなことを言うから、つい、語気が強くなってしまった。
でも、お父さんは険しい顔を崩さないまま、写真の中の天音ちゃんを、射抜くような視線で見つめ続けている。
写真の中の彼女は、いつも通り営業用のクールな笑みを浮かべているだけなのに。
彼女と、練習帰りにコンビニで並んでアイスを食べたこともある。
夜中に通話して、終わりの見えない恋バナをした。
自分では手の届かない、衣装の背中のファスナーを互いに締めあった。
センター争奪戦でガチでぶつかって、しばらくギスギスして、でも結局は笑って仲直りできた。
それから、食が細いわたしを心配して、よく手作りのお弁当を作ってくれた。「花南はすぐフラフラするんだから、ちゃんと食べて」って、少し怒りながら卵焼きを口に押し込んでくれた、あの不器用な優しさ。
そんな温かい、小さな思い出が次々と浮かんできて、胸の奥がぎゅっとなる。
「……お父さん、天音ちゃんはね、わたしのために泣いてくれる子だよ。そんな子が、わたしを突き飛ばすなんて、絶対にありえない」
あまりに馬鹿馬鹿しくて、くすっと笑った。
「それに、天音ちゃんは髪が長くないし。わたしは、髪の長い女性に車道に押されたんだよ?」
「それは間違いないのか?」
「うん……たぶん」
「たぶんじゃあてにならないな」
お父さんはため息をつきながら、別の資料を差し出した。Baby☆Uの新しいアーティスト写真みたいだ。日付を見ると、わたしの事故から数ヶ月後に撮影されたものらしい。
当たり前のように、そこにわたしの姿はない。
センターに立っているのは、かつてわたしの隣で笑っていた天音ちゃんだ。
でも、その姿に違和感を覚えて、次の瞬間、凍りつく。
「……えっ?」
写真の中の彼女は、見慣れた肩で揃えたボブ姿の天音ちゃんじゃなかった。
腰まで届くような、艶やかで、どこか重苦しいほどに長い黒髪。
天使の輪っかができるストレートロングは、わたしのトレードマークだったはずなのに。
「嘘……ウィッグ? それともエクステ?」
「事故の直後から、彼女はこのスタイルに変えたそうだ。ファンは『亡くなった親友、花南のことを忘れないようにって意味だ』なんて、勝手に感動していたけどな」
お父さんの言葉で透けているはずの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「き、きっと、運営がそうさせたんだよ。売れるためなら何でもする運営だし」
お父さんが、何かをこらえるような、物言いたげな視線をわたしに向ける。その目が何を語ろうとしているのか、察した瞬間に先手を打った。
「だから、わたしを押したのは天音ちゃんじゃないから! 絶対に違うもん」
お父さんが変な疑いを口にする前に、精一杯の力でそれを否定した。
「だったら、これはどう説明するんだ?」
お父さんは突き放すように言って、一枚の領収書のコピーを新たに机に置いた。
それは事故の二日前。天音ちゃんが都内の有名ヘアサロンで「最高級人毛エクステ・80cm」を施術した記録だった。




