07 すり替えられた恋人
「花南?」
お父さんが、怪訝そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「どうした。急にノイズが走ったみたいに薄くなってるぞ。……おい、大丈夫か?」
「え」
慌てて自分の体を確認する。透き通った指先が、まるでお風呂上がりの鏡が曇るみたいに、白く、ぼやけていた。
「あ、ホントだ……。なんか、気持ち悪いくらい体が軽いかも」
幽霊なんだから「気持ち悪い」も何もないんだけど、感情の揺れが、そのまま存在の不安定さに直結しているみたいだ。
もし期間限定で彷徨えているのだとしたら、お父さんには早く真実を伝えなくちゃ。
「お父さん、今の、全部嘘だよ」
声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「わたし、オムライスなんて作ったことない。……だって、みやびくんに包丁を向けられてから、もう二度とそんなことが起きないようにって、家から刃物を全部捨てたんだもん」
声が震える。
「それなのに、オムライス? いったい誰の記憶を喋ってるの? わたしが一度も作ったことのないものを、さも食べたみたいにさ。気持ち悪いよ、お父さん。みやびくん、なんか変」
画面の中にいる『悲劇のヒーロー』は、潤んだ瞳で全国の視聴者に語りかけている。見た目はみやびくんなのに、なんか違う。
「……なるほどな。DV加害者の典型的な自己正当化というわけか」
お父さんは、モニターを指先で弾いた。
「お前を神格化して祀り上げることで、こいつは『愛する女性を失った悲劇の聖人』にすり替わったわけだ。オムライスのエピソードは、世間の涙を誘うための、安っぽい台本の一部に過ぎない」
「……」
「花南。こいつはお前の死を悲しんでなんかない。お前の死を『最高の舞台装置』にして、お天気お兄さんというクリーンな座を手に入れたんだ。……あの日、お前が道路に飛び出した本当の理由も、そこに隠れてるんじゃないのか?」
お父さんの言葉が、バラバラだった記憶のピースを無理やり繋ぎ合わせていく。
あの日。雨の中。
みやびくんがいた。
わたしは、何をしてたんだっけ。
お父さんの肩越しに机の上を覗き込む。
付箋だらけのノート。
走り書きがされたメモ。
わざわざコピーしてある記事。
プリントアウトされたSNSのスクリーンショット。
全部、わたしの死に関するものだ。こうして並べられていると、なんだか自分が事件の主人公になったみたいで、妙な気分になる。しかも当の本人は幽霊になって、のんきにそれを見学しているんだから、まったくおかしな状況だ。
「花南、事故現場に、篠原はいたのか?」
お父さんが真面目な声でたずねてきた。その声は、いつもの低くて落ち着いた声だったけれど、ほんの少しだけ、固い。
「みやびくんが、いた」
名前を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと痛んだ。不思議だ。体はもうないのに、こういう感覚だけは、やっぱりちゃんと残っている。
「実は、事故の十分ほど前に、花南が男と口論していたという証言がある」
お父さんがボイスレコーダーを再生した。
すぐに、ノイズ混じりの声が流れる。
――ええ、見ましたよ。若い男女が言い合いしてて……女の子、かなり興奮してましたね。男性のほうは、なんていうか……困ってる感じ? 雨だったから足元危なかったんですよね。そしたら急に
そこで、お父さんが録音を止めた。
部屋の中には、加湿器の「シュー……」という頼りない排気音と、パソコンの冷却ファンが回る乾いた音だけが響いている。その無機質な音が、さっきの証言者の声を余計に生々しく際立たせた。
「……これ、わたしのことだ」
お父さんの手元にあるボイスレコーダーを見つめたまま、ぽつりと呟く。記憶の断片が、雨粒みたいに次々と脳裏に跳ねる。
「興奮してたのは、わたしの方だった」
認めたら、しゅるりとリボンがほどけるように、あの日の記憶がわたしの頭の中に流れ込んできた。
「……だって、怖かったんだもん。あの日のみやびくん、目が、いつもの王子様じゃなかった。笑ってるのに、全然笑ってなくて。手に、何か持ってた」
「刃物か?」
お父さんが鋭く聞き返す。
わたしは首を横に振った。
「ううん、違う。もっと薄くて、黒いもの……あ、スマホ。そうだ。みやびくん、わたしのスマホを奪おうとしてたんだ」
「……スマホだと?」
お父さんの目が、記者としての獲物を追う光に変わる。
「『消せよ!』って。彼、叫んでた。わたしが隠し撮りした、彼の……寝顔? よく覚えてないけど、とにかくわたしからそれを取り上げようとして。逃げるわたしを追いかけてきて……」
そこから先の記憶は、また霧の中に消えてしまった。でも確かなのは、画面の中で「オムライスが食べられない」なんて泣いている彼は、わたしのスマホに入っていた『何か』を、死ぬほど恐れていたということだ。
「花南が、あいつの寝顔を晒そうとした原因は覚えていないのか?」
「……原因」
わたしはぽつりと繰り返す。目を閉じて、記憶の底を、ゆっくり探る。
雨。
夜の交差点。
濡れたアスファルト。
信号の光が、にじんでいた。
みやびくんが怒ってて、怖かった。
わたしは、そうだ。
「みやびくんに……別れようって言ったんだ」
自分で言いながら、胸が少しきゅっとした。
あのとき、わたしは本当に驚いた。だってそんなこと言うと思っていなかったから。さっきの会見で、彼が言ってたみたいに、わたしも彼と結婚すると思ってた。なのに、あの日みやびくんに、「わたしたち、別れよう」って、言ったんだ。
「花南から言ったのか?」
お父さんの眉間に皺が寄っている。どうやら信じてないようだ。我が子なのに。
「うん、わたしから言った」
「別れようとした理由は?」
「理由……」
一生懸命記憶を辿ってみるけど、靄がかかったみたいでよくわからない。すごく大事なことだと思うのに。
「覚えてるのは、みやびくんに別れようって言ったあと、すごく悲しかったことくらい」
「お前からフッたのに?」
「うん。お父さんだって、お母さんと別れる時、少しくらいは寂しかったりしたでしょ?」
わたしの素朴な疑問を受け取ったお父さんは、「どうだったかな」と、遠くを見る目をして誤魔化した。大人って、ずるい。
「あいつに別れを切り出されたから、花南が突発的に車に飛び込んだ、って方が自然なんだけどな」
お父さんは実に失礼な憶測を口にした。
「それだけで、わたしが道路に飛び出すわけないじゃん」
軽く流したのに、お父さんは笑いもせずに黙っている。その沈黙は、まるで自殺願望があるメンヘラだと思われているみたいで、ちょっと嫌だ。
人生は色々あるのが当たり前。でもわたしは、自分から死にたいなんて思ったことは一度もない。
「ねえ、お父さん」
わたしは真面目な顔になって、ちょっとくたびれた服を着たお父さんを見つめる。
「わたし、フォロワーが三十万人いるアイドルなんだよ? Baby☆Uでも一番人気だったし、女の子がわたしの髪型やコーデを真似したりしてた。いいねもいっぱいもらって、リアルも充実してて、何よりまだ十九歳なんだけど」
わたしは机の上に並べられた写真に視線を移す。
事故現場の写真。
横断歩道。
濡れた路面。
白線の上に、チョークの跡で、わたしが倒れていた場所が記されている。
わたしが死んだ場所なのに、どうしても、現実味がない写真に思えてしまう。だって、透けた体になっても、わたしはちゃんと息をしてるし、悲しかったり、笑えたり、そういう感情だって普通にあるから。
「ねえ、お父さんから見て、わたしは自分から飛び出すタイプに見える?」
お父さんはすぐに答えなかった。
しばらくしてから、ゆっくり首を振る。
「見えない」
「でしょ?」
少し得意げに胸を張る。
「わたし、そんなドラマチックな子じゃないもん」
むしろ逆。面倒なことは嫌い。大げさなことも嫌い。誰かを困らせるのも嫌い。
確かにみやびくんを愛しすぎたところはあるけど、恋愛なんてみんなそんな感じだ。
SNSを開けば、「好きすぎて死にたい」とか、「彼がいなきゃ生きていけない」なんて言葉で溢れてる。でも、それってただ愛の大きさを表現してるだけで、本当に死ぬわけじゃない。
わたしだって、アイドルとして「みんなのことが死ぬほど大好き」って歌ってたけど、それはあくまでファンサービスだったし。
あ、でも死んじゃったから、リアルになっちゃったけど。
わたしは、ふわふわ浮かびながら父に本音を漏らす。
「みやびくんを好きだったのは本当。でも、自分を壊してまで彼に執着するほど、わたしは馬鹿じゃない。だってお父さんの子どもだもん」
お父さんは椅子を軋ませ、深く背もたれに体を預けた。わたしのリップサービスに喜ぶでもなく、照れるでもなく、ただ、手元にある『現場見取図』を指でなぞっている。
そういうとこなんだよ、お父さんは。
わたしは女心を全く理解できないお父さんに「終わってる」と、わざとらしく肩をすくめる。
「警察の記録では、お前は信号が赤に変わった瞬間に、自ら車道に躍り出たとされている。ブレーキ痕はほとんどなかった。運転手は急な飛び出しに対応できなかったと供述している」
「赤信号で飛び出した……?」
信じられない思いで、机の上に置かれた現場写真をジッと見つめる。
雨に濡れた横断歩道に飛び出すなんて、そんなの、絶対にありえない。
わたし、信号無視なんて大嫌いだもん。お母さんに厳しく言われてたし、アイドルになってからは「いつ誰に見られてるかわからない」って、プライベートでも背筋を伸ばして歩いてたくらいなんだから。
なんだろう、胸のあたりがムカムカしてきた。
「お父さん。これ、やっぱりおかしいよ。わたし、そんなことしない。あの日のみやびくん、わたしのスマホを奪おうとしてた」
だからきっと。
「……押されたんじゃないかな」
その言葉は、思ったより自然に出てきた。思ったというより、勝手に口から飛び出した。だから自分でも驚いた。
お父さんの目が、わずかに動く。
「誰に?」
「……わかんない」
首を傾げた。でも、胸の奥に、うっすらとした像が浮かび上がってきた。
雨の中。
誰かの影。
細い腕。
オムライス。
あ、オムライス。
「そっか」
少し笑った。
「わたし、落ちるとき、誰かに触った気がするんだよね」
お父さんの視線が、机の上の資料に落ちる。
そこには、鑑識の報告書のコピーがあった。
《被害者右手指先より他者皮膚片検出》
わたしはそれを指さした。
「ほら。ちゃんと証拠もあるじゃん」
今までぼんやりしていたあの日のことが、少しずつ、鋭い輪郭を持って蘇ってくる。
「雨で手が滑った、なんてレベルじゃなかった。背中に感じたのは、突き飛ばすっていう明確な意志。……すごく、細い指だった気がする」
自分の透けた右手の指先をじっと見つめた。
そこに残っていた『皮膚片』の主。それが、みやびくんが会見で語った『オムライスを作ってくれる理想の彼女』の正体なんだ。
今はもう思い出せないけど、きっとわたしはみやびくんの浮気相手のことを知って、別れようと思った。だってどんなに愛していたって、浮気は許せないから。
「みやびくんが記者会見で嘘をついていたのは、『わたしとの思い出』じゃなくて、『わたしの存在そのもの』を別の誰かとすり替えていた部分だったんだ。その子は、わたしが死ぬ現場にいた。みやびくんの隣に。だからさ」
おおげさに、肩をすくめた。
「わたしが死んじゃったの、やっぱり事故じゃないと思う」
雨の夜。
別れ話からの口論。
押された感覚。
掴んだ誰かの腕。
その全部を繋げると、答えはひとつしかない。
「……ねえ、お父さん」
ふわりと浮いて、お父さんの耳元に口を近づける。
「これってさ」
少しだけ声を潜める。
「事件じゃない?」
お父さんはすぐには答えなかった。ただ、ゆっくりとボイスレコーダーを手にしたまま、机の上のメモを見つめている。
そこには、赤いペンでこう書かれている。
【事故直前、第三者の存在?】
その文字を見て、もう答えがあるじゃんと思う。
わたしは、ただの事故で死んだんじゃない。
誰かに殺されたんだ。
たぶん、そうに違いない。




