03 ひとりぼっち
「あそこなら、いるかも」
シャングリラでみやびくんに会えなかったわたしは、彼が所属していた地下アイドルグループLEVELZの事務所に向かった。
でも、そこにも彼はいなかった。それどころか、シャングリラに遊びにきていた女の子の言う通り、事務所の壁に貼ってあるLEVELZの新しいポスターに、みやびくんの姿は影も形もない。
まるで最初から存在していなかったみたいに、彼のいた場所には、わたしの知らない、もっと若くて顔の整った男の子が収まっている。
「ほんとに、いない……」
事務所のゴミ箱を漁ってみたけど、みやびくん関連のものは何も捨てられてなかった。
わたしが死んだ日。
雨のアスファルト。
ヘッドライトの眩しさ。
「……一緒に、いたっけ?」
思い出そうとすると、頭の奥がキリキリと痛む。
お得意の「ま、いっか」で済ませられないくらい、その空白が怖かった。
事務所を飛び出し、夜の街をふわふわと彷徨う。
そもそも、この世界はわたしの知っている世界とは違うのかもしれない。夢かもしれない。パラレルワールドかもしれない。何かの間違いかもしれない。
わたしは死んでなんかいない。
でも、それが逃げだってことも、なんとなくわかってた。普通の人は体が透けたり、自分の意志で自由に空を飛ぶことなんてできないだろうから。
「幽霊が彷徨う理由が、身に沁みてわかる日が来るとは……」
途方に暮れたわたしは、スカイツリーの天空回廊の縁に腰掛けた。
スカイツリーから見下ろす東京は、まるで光り輝く基盤のようで、温かみなんて少しも感じられなかった。
どうやら、夜景が綺麗だと感じるのは、生きている人の特権らしい。
「会いたい人って、いないもんだな」
みやびくんと付き合ってから、生活のすべてを彼中心に考えるようになって、友達が減った。
「ま、元々友達なんて、あんまりいなかったけど」
片手に収まる唯一の友達もいなくなった。だからさらにみやびくんに依存するようになった。それでも幸せだったから、別にいい。
時々、ぶたれたりもしたけど、でもいつもわたしが余計なことを言っちゃうからだし。
わたしにはみやびくんがいて、彼は友達百人くらいの価値があったから、全然平気。
「だったら、なんでわたしは死んでるんだろう?」
やっぱり、みやびくんと愛し合っていたはずのわたしが、幽霊になっている理由がよくわからない。
首都高を走る車のライトが、ファンが振るペンライトの残像みたいに、一本の光の筋となって流れていく。
あの中に、みやびくんはいないかな。
あの中に、わたしのことを思い出して泣いている人はいないかな。
そんなことを考えていると、視界がじんわりと滲んできた。
幽霊でも、涙って出るんだ。
「……あ、あそこって」
ふと、光の川の向こうに、ひときわ暗いエリアが目に入った。あの方角には、わたしとお母さんが住んでいた団地があるはずだ。
ふと、お母さんの顔が浮かんだ。
会いたいかと聞かれれば、きっと即座に首を横に振る。
お母さんのことを思い出すと、幽霊になって心臓なんて動いていないはずなのに、今でも胃のあたりがきゅっと縮こまるから。
恋愛結婚で結ばれた両親は、わたしが八歳の時に離婚した。それからは、お母さんに育てられた。
「お母さんの作るオムライスは大好きだったな」
たまごがふわふわで、具材はミックスベジタブルにウィンナー。赤いケチャップで、いつも決まってわたしの名前が書かれていた。
――かなん
ひらがなで書かれた自分の名前を、スプーンで崩すのがもったいなくて、端の方から少しずつ食べた。でも、そんな幸せな食卓の記憶は、最悪な記憶にすぐに上書きされてしまう。
『……二万、あったはずなんだけどな』
当時の記憶が、夜風に混じって蘇る。
コンカフェでバイトして、立ちっぱなしでパンパンになった足を引きずって帰宅した夜。やっとの思いで貯めた五万円というお金。それはわたしにとって、ただの数字じゃなかった。あの家から、あの閉塞感から抜け出すための、たった一つの命綱だった。
茶封筒に入れて、鍵がかかる机の引き出しに隠しておいたはずのお給料。なのに、朝起きて数えてみると、一万円札が二枚。忽然と消えていた。
家にいたのは、お母さんだけ。
だから、努めて冷静に聞いた。
『ねえ、ここに入れてたお金、お母さん知らない?』
お母さんは朝食の準備を止めることもなく、背中を向けたまま優しい声で言った。
『知らない』
それだけ。
何度も聞き返した。責めるつもりじゃなかった。ただ本当のことが知りたかった。でも、返ってくるのは壊れたレコーダーみたいな「知らない」という拒絶だけ。
あとでわかったことだけど、その二万円は結局、わたしの学費や生活費の補填に回されていた。
お母さんが自分の遊びに使ったわけじゃないのは分かっている。でも、だったらどうして、最初から言ってくれなかったんだろう。「花南、今月ピンチだからお金かして?」って。
「……泥棒みたいな真似してまで、いい親のフリしたかったのかな?」
「知らない」と嘘をつくお母さんの背中が、怖かった。
本当のことを言えば、わたしが許すとわかっていたはずなのに。喜んで二万円を渡したのに。
信じている相手に、目の前で平然と嘘をつかれることの絶望を、お母さんは最後までわかってくれなかった。
「……だからかな」
視線を、スカイツリーの鉄骨に這う冷たい光へと移す。
「みやびくんにぶたれた時も、わたし、お母さんの顔を思い出してた」
みやびくんが手を上げた後、泣きながらわたしを抱きしめて「ごめん、花南。愛してるから、つい感情的になっちゃって」と、耳元で囁くとき。
わたしは彼の背中越しに、あの日の団地の、暗いキッチンの匂いを思い出していた。
お母さんが嘘をついたのは、わたしの学費のため。
みやびくんが怒るのは、わたしを愛しているから。
どちらも『愛』という名前でコーティングされていたから、わたしはいつだって「ま、いっか」と飲み込んできた。
「でも、愛されてるなら、なんで一人でこんな高い場所にいるんだろ」
たくさんのペンライトが光る武道館にも、二人が愛を語り合った東中野のマンションにも、欲望が渦巻く新宿のシャングリラにも、わたしの居場所はもうなかった。
みんな、わたしがいない世界で、何食わぬ顔をして「知らない」って、生きている。
不意に、強い風が吹いた。
透けたわたしの体は、羽毛のように軽く浮き上がる。
「……行かなきゃ」
お母さんでも、Baby☆Uのメンバーでもない。やっぱり、わたしにはみやびくんしかいない。
あの日、雨のアスファルトで、わたしの隣に彼がいたのかどうか。
彼が今、どこでどんな顔をして「知らない」と嘘をついているのか。
それを確かめないと、永遠にこの空を彷徨う羽目になる。
「みやびくん、どこにいるの?」
その答えを探せるのは、たぶん一人しかいない。




