02 彼を探してふわふわと
飛べることに気づいたのは、武道館を出てすぐだった。もうやだと思ったら、ふわっと体が浮いて、気がつけば夜の空に飛び出していた。
東京の夜景が、足の下に広がっている。まるでピーターパンになったみたいだ。
「最強じゃん、これ」
思わず声が出た。誰にも聞こえない声が。
笑いたいのか泣きたいのか、よくわからないまま空を飛ぶ。
「目指すは、みやびくんのいる場所へ!」
みやびくん。本名、篠原涼雅くん。
一緒に住んでいたのは、東中野の『ラリュール』というマンション。六階の角部屋。表札にわたしの名前は書いてなかったけど、みやびくんが『LEVELZ』という地下アイドルの活動をしているから仕方がない。
わたしもアイドル、彼もアイドル。二人の関係は、誰にも言えない秘密だっただけ。
表札にわたしの名前がなくたって、愛の重さは変わらない。
「みやびくん、待ってて!!」
東中野の駅を越えると、オレンジ色の街灯が続く。見慣れた商店街の屋根を飛び越え、細い路地へと急いだ。
足元には、深夜でも絶え間なく流れる車のヘッドライト。かつて色々なことを気にしながら走ったこの道も、今なら信号一つ気にせず、真っ直ぐ彼の元へ向かうことができる。
「最強すぎる。……まぁ、幽霊になっちゃったけど」
強がりの言葉が、夜風にさらわれて消えた。
心臓の鼓動はないのに、胸の奥が締め付けられるように熱い。
見えてきた。築十五年の、外壁を塗り直したばかりのマンション。エレベーターのボタンを押す必要すらなかった。一気に六階まで浮上。ベランダから吸い込まれるように窓をすり抜けた。
「みやびくん……!」
もぬけの殻だ。家具がない。カーテンもない。わたしが選んだ小さなテーブルも、みやびくんの配信用の机も、何もない。
「あ」
さっき武道館で、天音ちゃんが一年がどうとか言っていたことを思い出す。
「そっか。さすがに一年も経ったら、引っ越すか」
わたしが死んで、思い出が詰まるこのマンションに一人きりでいるのが辛かったから、彼はこの部屋にいられなくなったんだ。
「だって、わたしたち、愛し合ってたから」
自分の言葉に、なんとなく違和感を覚えた。でもすぐに、「ま、いっか」と流す。昔からそうだった。都合の悪いことは、いつも「ま、いっか」で片づけてきた。
わたしはふわふわ浮いたまま、あぐらをかく。
その時はじめて透けている自分が、十枚目のシングル『Snow Magic』の衣装を着ていることに気づいた。Baby☆Uにはピンク担当がいないから、白のわたしがセンターで、一番目立つように、誰よりも豪華なフリルとレースをあしらってもらっていた。
自慢の衣装をまじまじと眺める。
そこにあるのは、一年前に必死で着倒した、少し毛羽立ちの目立つ古い衣装。白というよりは、何度も洗濯してくすんでしまった、生活感の漂うオフホワイト。生地は薄くて、リボンは安っぽくテカっている。
それに比べて、さっきわたしをすり抜けて行ったみくるちゃんが着ていた衣装は、予算ギリギリなんかじゃなかった。
スポットライトを反射して七色に光る上質なスパンコール。重なり合ったオーガンジーの裾には、クリスタルが散りばめられていた。
ヘッドドレスだって、わたしがつけていた手作りのカチューシャとは比べものにならないくらい、繊細で、高価そうな刺繍が施されていたし。
「……ずるいよ」
独り言が漏れた。
ずっと夢見ていた武道館。そこで着るはずだった「とびきり可愛い」の定義が、わたしがいなくなった一年の間に、あんなに残酷に更新されちゃうなんて。
「でも、ま、わたしは死んじゃったっぽいし」
嫌なことがあっても「ま、いっか」と思えるのは、昔からわたしの長所だ。
「とりあえず、みやびくんに会わないと」
スマホがないのが、本当に不便だった。検索もできない。時間もすぐわからない。みやびくんをGPSで追うこともできない。
「あ」
突如記憶が蘇る。
わたしの愛するみやびくんがバイトしていたのは、新宿のメンズコンカフェ。『シャングリラ』という名前のお店。彼はかなり人気があったから、もしかしたらまだいるかもしれない。
思いついたら即実行。
わたしはするりと窓を抜け、新宿に向かった。
*
中野から新宿にそびえ立つ高層ビル群を目指して空を移動した。いくら飛んでも、寒さとか、暑さとか、疲労感みたいなものは感じない。
「やっぱ最強じゃん。幽霊って」
わたしはうきうきしながら、新宿を目指す。
ショートカットして到着した夜の新宿は、地上に降りた銀河みたいに騒がしい。
歌舞伎町の入り口。巨大なビジョンの前をすり抜ける。生きていた頃なら、人に当たらないよう、いつも気をつけて歩かなくてはならなかった。でも、今のわたしは自由だ。客引きのお兄さんも、泥酔して千鳥足のサラリーマンも、わたしの体を音もなく通り過ぎていく。
「あった、シャングリラ」
雑居ビルの四階。派手なネオンサインが、古めかしいエレベーターの扉を毒々しいピンク色に染めている。
「かくなるうえは!」
エレベーターを待つもどかしさに耐えきれず、そのままコンクリートの床を突き抜けて上へと昇った。
「べんりー」
店内に足を踏み入れた瞬間、安っぽいトランスミュージックが鼓膜を震わせた。タバコの煙と甘ったるい香水の匂いが混じり合い、店内に充満している。
うん、匂いは感じる。それとも記憶がそう思わせているだけなのかな。
店内をウロウロ浮遊しながらみやびくんを探す。でも見つからない。いるのは、みやびくんじゃない、知らない男の子たちばかり。
みんな同じようなマッシュヘアに、細いネクタイ。
一年前、みやびくんがこの店で一番人気だった頃は、もっと王子様系というか、キラキラした雰囲気だったはずなのに。
今の店内はどこか殺伐としていて、あちこちのテーブルでグラスが乱暴に置かれる音が響いている。
「あれ……? みやびくん、お休みかな」
カウンターの端、伝票を整理している店員さんの手元を覗き込んでみる。
スタッフのシフト表があった。そこには、わたしの愛する人の本名『りょうが』の名前も、源氏名の『みやび』の名前も、どこにもなかった。
代わりに目に飛び込んできたのは、壁に大きく貼られた「今月のナンバー」のポスター。そこに写っていたのは、見覚えのある顔だった。
「え……嘘、うそでしょ?」
ポスターのセンターに、自信満々の笑顔で収まっているのは、みやびくんじゃなかった。LEVELZでみやびくんの後ろで踊っていた、一番地味だったはずのメンバー。名前は覚えている。
でも、思い出したくないから、わたしは思い出さないことにした。
その時、近くの席の女の子たちが、シャンパンを飲みながら楽しそうに話している声が聞こえてきた。
「ねえ、そういえばシャングリラの元エースって、今何してるか知ってる?」
「みやびくん? なんか一年前、付き合ってたアイドルの女の子が事故った時に、一緒にいたとかで話題になってたよね」
「そうそう! 結局、運営に解雇されて、夜の街からも消えたって聞いたけど。自業自得だよね。あ、でもみやびくんって今――」
彼女たちの声が遠のく。身体が、内側から凍りつくような感覚に襲われた。
「……一緒に、いた?」
あの日。雨の日。
わたしは一人で、彼に会いに行こうとしていたはずだ。でも、そのあとの記憶が、ノイズの混じった映像みたいに激しく揺れ始める。
フリーフォールの、あの浮遊感。
衝撃の直前、わたしの隣に誰かいたっけ。
「……ま、いっか。わたしとみやびくんは愛し合ってたし」
無理やり口角を上げてみる。でも、わたしの薄汚れた白い衣装が、店の安っぽいネオンに照らされて、一瞬だけ真っ赤な返り血を浴びたように見えた。




