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17 娘は幸せそうだった、最期まで

 離婚して以来、疎遠になっていた娘が、ある日突然この世を去った。

 その衝撃は、自覚していたよりもずっと深く、身体の奥底にまで根を張っていたようだ。


 俺は仕事の合間を縫い、一年という月日を費やして取材を重ねてきた。花南に関する記事を片っ端からプリントアウトし、彼女の友人たちを訪ね歩く日々。

 そして事故の瞬間に居合わせた二人――藤田天音に会い、篠原涼雅と対峙することで、あの雨の夜の断片を一つひとつ拾い集めていった。


 そうしてようやく、自分なりに事件の輪郭が形を成し始めた。だからこそ、俺はこれを記事として書き起こそうと決めた。


 娘の魂を弔うだとか、浮かばれるだとか、そんな高尚な目的ではない。


 離婚して以来、俺はただ機械的に養育費を振り込み続けてきた。それで父親としての義務は果たしているつもりだった。

 年々連絡が途絶え、疎遠になっていくことにも、「年頃の娘なんて父親を避けるものだ」という友人たちの言葉を都合よく借りて、自分を納得させてきた。

 育児放棄にも等しい己の怠慢を、そうやって必死に誤魔化し続けてきたのだ。


 だからこそ、娘が突然亡くなったと告げられたとき、まるで現実味を感じられなかった。

 毎日顔を合わせていなかったことが、皮肉にも「どこかでまだ元気に生きている」という身勝手な思い込みを長引かせたからだ。


 いまさら事件の真相を暴こうとしているのも、結局は自己満足でしかない。

 真実を白日の下に晒し、娘への罪滅ぼしをすることで、俺自身が楽になりたいだけだ。


 その汚い自覚は、確かにあった。


 揃ったのは状況証拠ばかりだが、少なくとも『交通事故』という公式発表の陰に隠された歪みを暴く根拠はある。それだけでも、この指を動かす価値はあるはずだ。


 *


 原稿を書き始めたその夜。

 皮肉にも、花南が所属していた『Baby☆U』が日本武道館で公演をしていた。


 休憩がてらニュース記事を眺めていた。

 さぞかし無念だろう娘を思い、一人悪態をついていたとき。


「お父さん」


 その明るい呼びかけに、俺はゆっくりと振り向く。


 部屋の隅に、花南が現れた。

 輪郭はぼやけ、背後の本棚が透けて見えるほど淡い。


 動揺しなかった。

 ここだけは、自分でもおかしいと思う。


 死んだはずの娘が、幽霊となって目の前に立っている。それなのに、俺はさして驚かなかった。

 まるで、最初からこうなることを知っていたかのように、自然にその存在を受け入れていた。


 なぜそう感じたのか、後から考えてみても、うまく説明できない。

 ただ、花南がそこにいた。

 冷え切った部屋に、懐かしい声が響いた。


 それは疑いようのない事実で、あまりに俺に都合のよすぎる現実だった。


 *


【私的メモ】


 花南が消えてから、二週間が経つ。


 記事は書かなかった。

 花南がそう言ったからだ。


「もういいよ」


 そう言って、あいつは笑った。

 生きていた頃と同じ、少し困ったような笑い方だった。


 だから書かなかった。


 ここまで書いてから、俺はペンを置いた。


 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めている。


 静かな雨だ。

 アスファルトを叩く音が、遠くで柔らかく続いている。


 ふと思う。


 花南の口から聞いた話は、俺の調べた事実と、いくつも食い違っていた。


 タクシー運転手の証言。

 スマートフォンの断片的なデータ。

 篠原涼雅の供述。

 藤田天音の証言。


 それぞれの話は、どれも微妙に噛み合わない。


 誰かが嘘をついているのか。

 それとも、全員が本当のことを言っているのか。


 ルポライターとして二十数年、俺は『真実』という得体の知れないものを捕まえるために生きてきた。

 証拠を疑い、証言を疑い、現場の土を踏み、一次資料の海に沈む。

 そうして積み上げた客観的な事実だけが、唯一の正解だと信じて疑わなかった。


 だが、ペンを置き、降り出した雨の音を聞きながら、俺は深い徒労感の中にいた。


 今回、俺の前に並んだ証言は奇妙だった。


 幽霊になった花南。

 篠原涼雅。

 藤田天音。


 三人とも、同じ夜の出来事を語っているのに、

 語られる世界は、まるで違っている。


 花南は言った。


「みやびくんが追いかけてきた」


 篠原は言った。


「彼女が勝手に飛び出した」


 天音は言った。


「花南ちゃんを助けようとした」


 三つの話は、互いに重なりながら、決して一つにはならない。


 誰もが、自分の見た世界を語っている。

 そしてその世界は、どれも少しずつ歪んでいる。


 花南は、自分が愛されていた物語を語る。

 篠原は、自分が悪くない物語を語る。

 天音は、自分が止めようとした物語を語る。


 人間は、自分に都合のいい形で記憶を並べ替える。

 それは取材を続ける中で、何度も見てきた光景だった。


 だが、今回は誰も本当のことを言っていない。いや、言えないのだ。


 人は死に際してさえ、あるいは死んでからもなお、自分を守るために記憶を改竄し、都合のいい解釈という衣を纏う。

 幽霊になった娘の言葉さえ、彼女が自分自身を納得させるための『自己物語』に過ぎなかったのではないか。


 俺がルポライターとして書き上げようとした真実もまた、俺が楽になりたいがために繋ぎ合わせた、勝手な推測の集積でしかない。


 この世には、誰の手にも触れられない『空白』がある。

 当事者の数だけ真実があり、そのどれもが矛盾したまま、雨の中に溶けていく。


 俺は、書きかけの原稿をゴミ箱へ放り込んだ。


 彼女たちが抱えていた本当の闇も、あの夜の本当の叫びも、もう誰にも暴くことはできない。

 この先もまた、優しい嘘を吐きながら生きていくしかない。


 ふたたびペンを取り、一行だけ書き足す。


【娘は幸せそうだった、最期まで】


 机の上のノートを閉じる。


 それが娘の語った物語であり、同時に、俺が信じることに決めた物語だ。

 客観的な事実がどうあれ、今の俺にはそれだけが唯一、守り抜かなければならない真実のように思えた。


 雨音は、いつしか激しさを増していた。

 窓ガラスを滑り落ちる滴が、すべてを洗い流していく。


 ゴミ箱に沈んだ原稿。

 書き残されなかった真実。

 そして、完璧な笑顔の裏側にあったはずの絶望。


 それらはすべて、この雨の中に置いていこうと思う。

 誰の目にも触れることのない、親子の、赤の他人たちの、ひどく個人的で孤独な叙事詩として。


 深く椅子に身を預け、ゆっくりと目を閉じた。


 瞼の裏に浮かぶのは、あの桜を背にしてはにかむ、まだアイドルでも幽霊でもなかった頃の、ただの娘の姿だった。


 部屋にはもう、彼女の気配はない。

 それどころか、あの夜、ここに本当に娘がいたのかどうか、今の俺には確かめる術がない。


 ただ、静まり返った暗がりに、雨の匂いだけが立ち込めていた。



 了

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