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16 お天気お兄さんの嘘

 花南との交際を公に認め、目の前で愛する女性を交通事故で亡くすという『悲劇の恋人』を演じた篠原涼雅は、当時こう宣言した。


『彼女を守れなかった責任を取ります。それに今は……皆様の前に立って活動を続けることは、到底できそうにありません』


 その後、彼はアイドル活動を引退し、表舞台から潔く姿を消した。世間は彼の純愛と潔さに涙し、花南の事件は悲しい事故として風化していくはずだった。


 だが、花南が亡くなってから十ヶ月後。

 彼は、思いも寄らぬ場所でその顔を晒した。


 民放が運営するネットニュース番組。爽やかな青いネクタイを締め、指示棒を手に空模様を解説する気象予報士として、篠原涼雅は再出発を果たしていたのだ。


 元来のルックスの良さに加え、地下アイドルの痴話喧嘩など知らない層にとって、彼は『清潔感のある知的なお兄さん』でしかなかった。さらに、SNSで彼の解説動画が『分かりやすくてイケメンすぎる』とバズり、人気は急上昇。

 皮肉なことに、彼は娘の死を踏み台にするかのように、地下アイドル時代よりも華やかな表舞台へとカムバックしていた。


 俺は、込み上げるどす黒い感情を飲み込み、記者仲間のツテを辿った。芸能界の裏側に精通した知人に頭を下げ、執念深く食い下がった結果、ようやく彼とアポを取り付けることができた。


 場所は、テレビ局近くにあるホテルのラウンジ。

 定刻より数分早く現れた男は、かつての派手な騎士服ではなく、体にフィットした上質なスーツを纏っていた。



 *



 ラウンジの奥の席で、篠原涼雅はアイスコーヒーに刺したストローをくるくると回していた。


 テレビで見るより、ずっと普通の青年だった。

 柔らかい髪。整った顔。笑うと、たしかに女性が惹かれる理由が分かる。


 俺はレコーダーを机の中央に置いた。


「録音しても?」


「どうぞ」


 篠原はあっさり頷いた。どこか余裕さえ感じさせる態度だ。

 ノートを開き、ペンを持つ。すると彼が口元を緩めた。


「何か?」


「いえ、今どきの記者さんって、大抵パソコンでメモを取るじゃないですか。あえてペンを走らせる姿が、なんだか新鮮で」


 篠原はそう言うと、悪戯っぽく目を細めた。

 その仕草一つひとつが、計算なのか、天性のものなのか。

 目の前の男から放たれる「好青年」のオーラは、ラウンジの落ち着いた照明の下で、いっそう輝きを増しているように見えた。


「古い人間なもので。自分の手で書かないと、言葉の裏側まで聞き取れない気がして」


 努めて事務的なトーンで返し、最初の一行を書き留めた。


 【篠原涼雅:落ち着いている。敵対心は見せていない】


「さて、本題に入りましょう。まずは確認させてください。あなたは会見で、娘……花南と交際していたと話しましたね」


「ええ」


「事実ですか?」


 彼はストローを回す手を止め、アイスコーヒーのグラスに結露した滴を指先でなぞった。


「難しい質問ですね」


「難しい?」


「花南ちゃんは、僕と付き合っている。そう思っていたでしょうね」


 ノートから視線を外し、顔を上げた。


「あなたは違うと?」


「……地下アイドルって、分かります?」


 質問に質問で返す。

 俺は黙って続きを促した。


「ファンとの距離がすごく近いんです。握手もハグもするし、DMもある。そもそも、会えるイベントも多い」


 篠原はグラスの縁を、愛おしむような手つきでなぞった。


「だから、線引きが難しい」


「線引き?」


「どこまでがビジネスで、どこからが私情か、っていう」


 動かしていたペンを止めた。


「あなたは、娘に対して『色恋営業』を行っていたと認めるんですか?」


 篠原は、くすりと小さく笑った。


「そんな露骨な言葉を使うんですね、記者さんは」


「認めると?」


「……まあ、否定はしません」


 あまりにもあっさりした肯定だ。


「花南ちゃんは、いわゆる『太客』でしたから」


 その響きに、俺の眉はぴくりと跳ねる。


「ライブもイベントもほぼ皆勤賞。プレゼントだって、いつも一番高価なものをくれる子でした」


「だから、関係を持ったと?」


「……向こうが求めてきたんです」


 篠原は、困った子供のような顔を作り、言葉を継いだ。


「正直、無碍にはできないんですよ。僕の活動をわりと支えてくれている子だったから」


「断れないから、寝た。そう言うんですか」


「そういう言い方をされると、僕がひどく悪い男に見えますね」


「違うんですか」


 篠原は一瞬だけ、その完璧な微笑を消す。


「僕は、ただ『アイドル』という職務を全うしただけです」


 その声は、驚くほど無機質で乾いていた。

 静かにノートのページをめくる。


「あなたは、花南を愛していなかった?」


「随分ストレートな質問ですね」


 はぐらかされる。


「娘とは、恋愛関係になかった?」


「ないです」


 食い気味に、即座に否定した。


「僕、恋愛にのめり込むと仕事が疎かになるタイプなんですよ」


「それでも、会見では『交際していた』と明言しましたね」


 彼は、やれやれといった風に吐息を漏らす。


「だって、そうでも言わないと世間が納得しないでしょう?」


「どういう意味ですか」


「アイドルとファンの間にトラブルがあったなんてなれば、世の中は面白がって叩き潰しに来る。炎上商法の餌食になる気はないんで。それに――」


 篠原は水の入ったコップを見つめる。


「『ただの熱心なファンでした』なんて突き放したら、死んだ花南ちゃんが可哀想すぎるじゃないですか」


「……可哀想?」


「ええ。もう亡くなっているんですから」


 さらりと言ってのけた。


「でも、正直に言わせてもらえば」


 彼は俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「僕はまだ、生きてるんですよ」


 その響きには、冷徹なほどの現実感が宿っている。


「これからも仕事をして、この世界で生きていかなきゃいけない」


 あまりにも潔すぎる言い分に、言葉を失う。


「だから、あの会見での発表は」


 彼は水を一口含み、喉を潤した。


「一番波風が立たず、綺麗に収まる形を選んだだけです」


「ただのマスコミ対策だったと」


「まあ、そういうことになりますね」


 彼は、微塵の躊躇もなく認めた。


「花南ちゃんは……」


 篠原は、記憶の引き出しを適当に探るような素振りを見せた。


「いい子でしたよ、本当に」


「それでも、恋人ではなかったと?」


「違います」


「彼女は、あなたを愛していたはずだ」


「そうかもしれませんね」


「……あなたは?」


 問いかけると、彼は沈黙した。数秒の後、困ったような、それでいて他人事のような薄い笑みを浮かべる。


「俺、そういう重いの、無理なんで」


 会話が途切れ、重い沈黙がテーブルに居座った。


 店の奥から、コーヒー豆を挽く乾いた音が響いてくる。その無機質な音が、今の彼の言葉と妙に共鳴している気がした。


 俺はノートに、ペン先を押し付けるように一行書き加える。


 【被取材者:感情の欠落、極めて希薄】


 ゆっくりと顔を上げた。


「最後に、あと何点かよろしいですか?」


「はい」


「事故の夜、あなたは花南から、妊娠したと告げられましたか?」


 篠原は少しだけ目を細めた。


「いいえ」


「その件で、花南と口論しましたか?」


「いいえ」


「では、もしそのようなことを告げられた場合。あなたはどう答えますか?」


「もし、仮にそうなっていたら……という話ですか?」


 篠原は、まるで明日の天気でも予想するかのような、ひどく平板な声で聞き返した。

 彼は組んでいた足を組み替え、細長い指先で顎をなでる。その動作一つひとつが、カメラの前で鍛えられた「見栄えのいい」仕草だった。


「僕なら、病院を勧めますね。ちゃんと信頼できるところを」


「責任を取る、という選択肢は?」


「責任……」


 篠原はその言葉を口の中で転がし、おかしそうに肩を揺らした。


「記者さん、さっきも言いましたけど、僕は彼女と付き合っていたわけじゃない。アイドルとファン、あるいは提供者と消費者の関係です。その関係性において、僕が取れる最大の責任は、彼女の『夢』を壊さないことだった。……それ以上の責任なんて、どこに発生するんですか?」


 悪びれる様子すらない。

 彼の瞳にあるのは、冷徹なまでの合理的思考だ。そこに命や愛といった、形の定まらない感情が入り込む余地は一ミリも残されていないように見えた。


「花南ちゃんがどう思い込んでいたかは知りません。でも、もし彼女がその『可能性』を盾に僕の人生を縛ろうとしたのなら、それは……」


 篠原は言葉を切り、アイスコーヒーのグラスを指先で弾いた。カラン、と氷が乾いた音を立てる。


「……それはもう、営業の域を超えてますよね。マナー違反ですよ」


 喉の奥が、熱い砂を流し込まれたように乾いて張り付く。

 俺は震えそうになる右手を、机の下で、自分の膝に強く押し付けた。


 脳裏に、あの復元された動画の声が蘇る。


『やめて』

『……消せよ』


 雨の音に混じった、あの剥き出しの敵意。

 今、目の前で「マナー違反」とのたまう男の、仮面の裏側に潜んでいるはずの醜悪な本性。


「……そうですか。よく分かりました」


 俺はあえて、それ以上は追及せずにノートを閉じて、レコーダーを止めた。

 今、ここで奴の喉元に動画を突きつけるのは得策ではない。この男は、証拠を突きつけられた瞬間にどう振る舞えば「一番丸く収まるか」を、瞬時に計算できる怪物だ。


「今日はありがとうございました。……新鮮でしたよ、あなたの考え方は」


 俺が立ち上がると、彼もまた、完璧な微笑を浮かべて会釈した。


「お役に立てたなら光栄です。お父様も、あまり根を詰めないでくださいね。花南ちゃんも、きっと空の上で心配してますから」


 白々しい言葉を吐いた篠原は、俺に背中を向けて颯爽と歩き出す。


 皺ひとつないピンとしたスーツ。迷いのない足取り。

 その背中を、俺はただ複雑な沈黙で見送っていた。怒りか、あるいはあまりの価値観の乖離に対する呆れか。自分でも正体のつかめない感情が、澱のように胸の底に溜まっていく。


「花南も厄介な男に惚れたもんだ」


 つい愚痴っぽく呟き、彼の後を追うように席を立つ。


 ラウンジを出てロビーへ踏み出すと、高級ホテル特有の、静かな喧騒に包まれていた。大理石の床は磨き上げられ、暖かな照明が降り注いでいる。


 彼の姿は、すでに数メートル先、回転ドアの手前にあった。


 そこへ、待ち構えていたかのように数人の若い女性たちが駆け寄る。出待ちのファンだろう。彼女たちは控えめに、けれど必死な様子で彼に声をかけ、小さなプレゼントや手紙を差し出していた。


 篠原は嫌な顔一つ見せなかった。

 むしろ、一人ひとりの目を見て、優しく語りかけ、求められれば足を止めてサインに応じる。その丁寧で誠実な振る舞いは、どこからどう見ても、ファンを大切にする理想的なスターそのものだった。


 俺はそれらを視界の端に追いやり、足早に彼の横を通り過ぎようとした。


 その時だった。


「記者さん」


 不意に、右肩に温かい手が置かれた。

 ぐっと引き寄せられ、耳元に熱い吐息が触れる。ファンたちの黄色い歓声に紛れて、彼にしか出せない、低く、湿り気を帯びた声が鼓膜を震わせた。


「俺が花南ちゃんを殺したって記事、書かないでくださいね」


 不意を突かれた。俺は答えなかった。いや、答えられなかった。

 喉の奥に、乾いた砂が張り付いたような不快感が残る。


 篠原は俺の反応を愉しむように少しだけ顔を離すと、肩からぱっと手を離した。そして、何事もなかったかのように口元を緩める。


「だってあれは、事故ですから」


 彼は笑った。

 テレビで見せる、あの完璧な笑顔だった。

 周囲にいたファンたちが、その微笑みにうっとりと吐息を漏らす。誰も、たった今この男が放った、心臓を素手で掴むような冷徹な響きに気づいていない。


「お疲れ様でした」


 篠原は軽やかな足取りで回転ドアの向こう側、冷たい雨の降る世界へと消えていった。


 残されたのは、煌びやかなロビーの静寂と、肩に残る不快な感触だけだった。

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