15 藤田天音の伸びゆく髪
二月の初旬。
街路樹の枝が冷たい風に鳴っている。
その日の午後、俺は藤田天音と向かい合っていた。
――警察にはすべて話しました。これ以上お伝えできることはありません。
事務所を通した取材の申し込みは、型通りの断り文句で四度断られていた。
五度目の打診でようやく突き崩し、こぎ着けた面会。提示された条件は「一時間だけ」という、猶予がないものだった。
喫茶店の奥まった席。天音は白い厚手のコートに身を包み、マスクの奥から刺すような視線をこちらに向けていた。細い肩は、今にも折れそうなほど硬く強張っている。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
あえて、記者の名刺ではなく、自分の財布に入れていた一枚の写真をテーブルに置く。
それは、花南が中学の入学式を迎えた日の写真だ。別居していた元妻の久美子から、珍しく送られてきたものだった。
満開の桜をバックに、新しい制服に身を包んだ花南が立っている。
後年、カメラのレンズを真っ直ぐ見据える『アイドル・赤瀬花南』の完璧な笑顔とは、まるで別物だ。
視線を少し逸らし、はにかんだような、内側から滲む幸福を湛えた表情。それは、記号としての笑顔を知る前の、ただ一人の少女として、カメラに収められた花南だった。
天音の視線が、吸い寄せられるように写真へと落ちた。
ほんの一瞬、彼女の唇が微かに震える。
「今日は記者としてではなく、一人の父親として聞きに来ました」
声を抑え、静かに告げた。
「あの子が最期に何を信じ、何に怯えていたのか……それを知りたいんです」
沈黙が二人の間に降り積もる。コーヒーカップから立ち上る湯気が、弱々しく揺れた。
やがて、天音が小さく重苦しい溜息を吐き出した。
「……お父さんは、花南が何を信じていたか知りたいって、おっしゃいましたよね」
「ええ」
「でも」
彼女は視線を伏せたまま、自嘲気味に呟いた。
「少なくとも、私は信じてもらえなかったと思います」
「どうして?」
「……タイミングが、悪すぎたから」
その言葉の真意を、急かさずに待った。
天音は冷めかけたコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、記憶の断片を手繰り寄せるように話し始める。
「花南ちゃん、普段から体型維持にはすごくストイックだったんです。食事制限もよくしていました。だから、食べない日があっても、最初は誰も気に留めなかった」
不意に、あの日の光景がよぎる。
花南に呼び出されて足を運んだ渋谷のカフェ。花南は注文したパンケーキを二口ほど食べて、皿を俺の前に差し出した。あの時も確か、娘は体型のことを気にしていた。
「でも」と、天音が言葉を継ぐ。
「事故の数日前くらいから、様子がおかしくなったんです。急に、食事が一切喉を通らなくなって」
数日前。産婦人科の診察券に記された日付と一致した。
「ちょうど大きなイベントが控えていた時期で、村瀬さんからも『花南をよろしくね』って言われていました。私と彼女、一緒に住んでいたんです。東中野の『ラリュール』というマンションの六階に」
事故現場から、歩いて十分ほどの距離。彼女が娘と同居していたことは裏が取れている。
「事件の夜、私は自宅に帰る途中でした。時間が遅かったから、人通りもほとんどなくて……。そしたら、聞こえてきたんです。争う声が」
店内のざわめきが急速に遠ざかる。全神経が、彼女の唇に集中した。
「角を曲がったら、花南ちゃんが走ってきました。私を見て、射抜かれたような驚いた顔をして……。その後ろから、みやびくんが追ってきたんです。彼は叫びました。『天音ちゃん、そいつを捕まえて!』って」
天音の声が、細く震え始める。
「花南ちゃんは、私からも逃げようとして、そのまま車道へ飛び出しました」
沈黙が落ちた。
「……ごめんなさい」
彼女は突然、堰を切ったように泣き出した。
「私があそこにいたから。きっと私のせいで、花南ちゃんは……」
俺は慰めの言葉をかけなかった。花南の父親としてここに座っていたら、励ましの言葉くらいは出たかもしれない。しかし今は、約束された時間内に一つでも多く情報を引き出すことを優先した。
「君と篠原涼雅の関係は?」
「知り合いです」
即答した。
それから彼女はバックからハンドタオルを取り出すと、目尻にあてた。
「花南と篠原涼雅は付き合っていたんですか?」
「それは……花南ちゃんはみやび君に夢中だったけど……わかりません」
天音はそれきり口を噤み、目尻にあてたタオルを離そうとはしなかった。彼女の顔には、これ以上踏み込ませないという強固な断絶の色が滲んでいる。
「そう言えば、君が髪を伸ばしたのは、運営の指示なのかな?」
さりげなさを装い優しく尋ねる。すると彼女は涙を拭い、ようやく俺と視線を合わせた。
「はい。花南ちゃんと私、二人でユニットを組む予定だったから」
彼女は、指先で自分の長い髪をゆっくりと、慈しむように撫でた。
「双子っぽい雰囲気を出そうって」
そう答えた彼女は、マスク越しでもわかるほど、口角を吊り上げた。
「そうだったんだ」
相槌を打ちながら、ノートに《ユニット計画》と書き込む。
「もう一つ」
さらに踏み込むため、俺は続けた。
「花南の右手の指先から、君の皮膚片が検出されている件は?」
天音は驚かなかった。
「……花南ちゃんが道路に飛び出したとき」
彼女は静かに話し始めた。
「咄嗟に手を掴んだんです」
「止めようと?」
「はい」
彼女の声は小さい。
「でも、振り払われました」
コーヒーは、すでに完全に冷え切っていた。俺は最後の、そして最も残酷な問いを口にする。
「君は」
乾ききった喉の奥に、舌が張り付く。
「娘の死は、自殺、他殺、どちらだと思う?」
天音はしばらくの間、虚空を見つめていた。
そして、ゆっくり言った。
「……私が、あそこに偶然いなかったら」
膝の上で握りしめた拳を、さらに強く、爪が食い込むほどに締め上げた。
「花南ちゃんは、今もステージに立っていたかもしれません」
俺は手帳を閉じず、視線を固定したまま尋ねた。
「『@Justice_for_K』……このアカウントに、見覚えはありますか?」
彼女に手帳の文字を見せると、動きが、一瞬だけ止まった。
それは本当に、意識しなければ見逃すほどの僅かな硬直。彼女は冷えたコーヒーを一口啜り、何でもないことのように首を横に振る。
「いいえ、全く。……ただ、その『K』って、やっぱり花南ちゃんのことですよね?」
天音は、何事もなかったかのようにカップをテーブルに置いた。その動作はあまりに淀みなく、先ほどの一瞬の硬直が、俺の期待による見間違いだったのかと思わせるほどだった。
「誰かが彼女の死を利用して、勝手な『正義』を振りかざしている……。悪趣味ですね」
彼女は淡々と、けれど軽蔑を込めたように言い切った。
「犯人探しをしたい気持ちはわかります。でも、憶測で周りを疑うのは、花南ちゃんも望んでいないはずです」
それは、拒絶の言葉だった。
これ以上自分を探るなという警告か、それとも親友を守れなかった自分への苛立ちか。
彼女はそのまま、椅子に掛けていたバッグを手に取った。
「予定の一時間が過ぎました」
指摘されて腕時計を確認すると、彼女の言う通り。一時間は残酷なほど、あっという間に過ぎ去っていた。
「……花南ちゃんって、昔はこんなふうに、無邪気に笑えてたんですね」
彼女は花南の中学の入学式の写真を、指先で滑らせるようにして俺の方へ戻した。
「失礼します」
席を立ち、踵を返したその背中に、最後の一撃を放つ。
「最後に一つだけ。子どものことは、知っていましたか?」
振り返った彼女の表情を、俺はうまく形容できなかった。
驚き、とも違うし、恐怖、とも違う。もっと複雑な何かで、だがその表情は、一瞬で消えてしまった。
顔から色を消した彼女は、能面のような無機質な表情で答えた。
「……あれは」
短い沈黙。
「思い込みだったはずです」
そう言って、天音は店を出て行った。
入り口のドアベルが、乾いた音を立てて余韻を打ち消す。
「思い込み、か」
一人呟き、冷めきったコーヒーを口に含む。
無性にタバコが恋しいと思った。




