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13 思い込み

 該当のレディースクリニックは、住宅街の中にある小さな産婦人科だった。

 午後の外来が終わる時間帯だったので、受付に診察券を見せる。


「亡くなった娘のことで、お聞きしたいことがあるのですが」


 受付は困った顔をしたが、少し待たされたあと、院長が出てきた。


 小柄な女医に事情を説明する。


 娘が亡くなったこと。

 遺品から診察券が出てきたこと。


 記者の性として、相手の懐に入るための最適解を、身体が覚えている。俺は一度深く瞬きをし、目にわずかな湿り気を持たせた。

 

「……身勝手な親だったんです。娘が、こういう場所に通っていたなんて、情けないことに何も知らなくて」


 声を一段落とし、視線を泳がせる。

 震える指先で診察券を握りしめ、言葉を詰まらせる。


「せめて、最期に娘が何を抱えていたのか……それだけを知りたくて、伺いました」


 絞り出すような掠れた声。

 それは半分が演技で、もう半分は、自分への嫌悪からくる本物の苦みだった。


 小柄な女医は、眉をひそめて俺を見つめていた。


「お願いします」


 頭を下げる。


「お気持ちは理解しました。どうぞこちらへ」


 女医は小さく息を吐き、静かに奥の診察室を指差した。


 診察室の空気は消毒液の匂いに混じって、どこか甘く、それでいて重苦しい特有の気配が漂っていた。


 スツールに腰を下ろすと、視界の端に超音波検査のモニターや、淡いピンク色の掲示物が映り込む。

 男である俺には生涯縁のない、女性たちの密やかな苦しみと歓喜が沈殿する場所。本来なら足を踏み入れるべきではない聖域に、土足で踏み込んでいるような居心地の悪さが背中を焼いた。


 女医はカルテを確認しているのだろうか。

 キーボードを叩く音だけが、静かな診察室に響く。


 ふと、記憶の底に眠っていた光景が、消毒液の匂いに誘われるように浮上する。


 かつて、一度だけ似たような場所に座ったことがあった。

 花南がまだ妻の腹の中にいた頃。俺たちは期待に胸を膨らませ、新しい命の鼓動を分かち合うために肩を並べていた。


 あの頃の俺には、守るべき確かな形があった。


「事件を追いかけるのが、あなたの誇りでしょう」と、俺の仕事に理解を示し、背中を押してくれた久美子の誇らしげな笑顔。

 三人で笑い合える未来を微塵も疑わず、何があってもこの家族を幸せにすると、青臭いほど純粋に誓っていた。


 だが、あの時の眩いばかりの夢も希望も、今のこの冷え切った診察室には欠片も残っていない。


「……お父様」


 女医の無機質な声が、かつての誓いを遠い過去へと追いやり、冷酷な現実を突きつける。


 彼女は、モニター画面を見たまま告げた。


「確かに、お嬢様はこちらに来院されています」


「妊娠ですか?」


 単刀直入に聞いた。

 女医は一瞬目を上げ、それからゆっくり首を振る。


「いいえ」


 少し間があったのが気になる。


「初診はピルの処方ですね。月経が重たいと相談がありました。アイドルという仕事柄、月経に左右されたくないとのことだったので、漢方とピルを処方しています」


「では、最近も同じ症状で?」


 女医は少し考え込む様子を見せた。

 口にするかどうか迷っているようだ。無意識なのだろう。短く切りそろえられた親指の爪を、人差し指の腹でなぞっている。


 やがて小さな息を漏らし、女医が口を開いた。


「お嬢様が来院されたのは、妊娠の可能性についての相談でした」


 ペンを持つ手が止まる。


「検査は?」


「しました」


「結果は?」


 女医はカルテを見直す。


「その時点では、陰性です」


 部屋の空気が静かに沈む。


「ただし」


 考える隙もなく、女医は続けた。


「初診のタイミングが早すぎる段階でしたから、確定ではありません。数日ほど様子を見て、月経が来ないようでしたら、翌週に再検査していただく予定でした」


「再検査は?」


「来院されていません」


 俺はメモを取った。


 妊娠検査。

 陰性。

 再診なし。


 女医が少し声を落とす。


「最近、若い子で多いんです。アプリで症状を見て、不安になって来るケース」


「アプリ?」


「排卵周期とか、妊娠の可能性を予測するものです」


 女医は少し考えてから俺を見た。


「妊娠していると思い込んでしまう子も、います」


 俺はペンを止めた。


「……思い込み?」


「珍しくありません」


 女医は事務的に続ける。


「強いストレスや恋愛関係で、体調が乱れることもありますから」


 それ以上は聞かなかった。


 診察室を出ると、外はもう暗くなっていた。


 雨がまた降り始めている。


 車に戻り、エンジンをかけた。

 しばらくフロントガラスの雨粒を見つめる。ダッシュボードの上には花南の財布。そこから診察券が少しだけ覗いている。


 俺は取材ノートを開いた。


 新しいページに、ゆっくり書く。


【取材メモ】


 花南

 10月3日 産婦人科来院


 ・妊娠相談

 ・検査結果 陰性

 ・再診なし


 ペン先が止まる。


 少し考えてから、書き足した。


【花南は妊娠していると思っていた可能性あり。だが、警察の死体検案報告書には、彼女が妊娠していた事実はない】


 雨が強くなっていた。

 ワイパーが一定のリズムで動く。


 その音を聞きながら、ふと思った。


 もし花南が本当に、妊娠していると思い込んでいたとしたら。

 あの日、篠原と何を話していたのか。


 俺はノートを閉じた。

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