12 紫煙の向こう側
元妻の久美子から花南の遺品を受け取ったのは、十一月の冷たい雨の日だった。
段ボール箱は一つだけ。
「警察から戻ってきたもの。あとは……事務所が処分したって」
久美子はそれ以上説明しなかった。段ボールを封するガムテープがしっかりと貼られたままだ。たぶん箱の中身も確認していないのだろう。
「あなたが、サインなんかするから悪いのよ。わたしはアイドルなんて反対だったのに」
彼女は吐き捨てるように言った。
「これで全部だから」
玄関先で段ボールを押し付けるように渡されて、鼻先でドアが閉まる。
段ボールを抱えて車に戻り、助手席に置く。しばらくエンジンをかける気になれなかった。
久美子の言葉が脳裏にこびりつき、花南の顔を思い出す。
雨粒がフロントガラスを叩く音だけが、狭い車内に響く。
ポケットから、使い古したジッポーと、箱の角が少し潰れたタバコを取り出した。
バックミラーに映った自分の顔は、ひどく生気がない。だが、それ以上に脳裏に焼き付いて離れないのは、さっきの久美子の姿だ。いつも完璧に整えられていた彼女の髪は、湿気を含んで力なく顔に張り付き、唇は青白く乾燥していた。
娘を亡くした母親として、彼女が正しく憔悴しきっていることに、どこか歪んだ安堵を覚えていた。彼女が平然としていたら、俺はきっと自分を保てなかっただろう。
震える指先でタバコをくわえ、ジッポーの蓋を跳ね上げる。
カチン、という硬質な音が、重苦しい空気をわずかに切り裂いた。親指でフリントを回すと、小さな火花と共に鈍いオレンジ色の炎が立ち上がる。その熱を鼻先で感じながら、ゆっくりと吸い込む。
肺の奥に熱い煙が流れ込み、重く沈んでいた思考を麻痺させていく。
「……サイン、か」
吐き出した紫煙が、冷え切った車内に白く淀む。
あの時、娘の人生を決定づけるペンを走らせた自分の右手が、急にひどく他人のもののように思えた。
煙の向こう側で、花南が屈託のない笑顔で笑っているような気がして、深く、もう一度煙を吸い込む。
娘の遺品を仕事の資料のように扱うのは本意じゃない。だが、俺は父親である前に記者だ。だから、真実を明かしたい。
フィルターの熱が指先に伝わるまで、最後の一服を深く吸い込む。
灰皿の縁で、燃え尽きかけた火種をゆっくりと押し潰す。じりじりと紙の焼ける小さな音がして、立ち上っていた細い煙が、逃げ場を失うようにして消えた。
助手席へ置いた段ボールへと手を伸ばす。
箱を開けて目に飛び込んできたのは、密封されたビニール袋。中に入っているのは、グレー地のチェック柄の布。花南が事故当時着用していたミニ丈のワンピースだろう。渇いた血がこびりついている。流石に直視できなかった。
後部座席に袋を置いて、段ボールの中を漁る。そこには、十九歳の少女が日常的に使っていたであろう小物が、無造作に詰め込まれていた。
使い古されたメイクポーチ、お気に入りだったらしい白い革のキーケース、猫だか犬だかよくわからないキャラクターが描かれているハンドミラーにピルケース。目薬にのど飴。
どれもこれも、持ち主を失ったせいで、ひどく色褪せて見えた。
ガラクタのような思い出の山をかき分け、箱の底から財布を取り出す。
ブランド物の革財布だった。花南にねだられて、中学の卒業祝いに買ってやった物。あいつはまだ使っていたらしい。
購入した時、花南はまるで花が咲いたように美しく笑い、「お父さん、大好き」と調子よく腕にしがみついてきた。その時は無邪気に喜ぶ娘を見て、悪い気はしなかった。むしろ娘を笑顔にできた自分に、どこか酔っていたかも知れない。
ただ後で久美子に「分不相応なものを与えないで」と叱られた。そのことを思い出し、苦い気持ちが込み上げる。
財布の中身を確認する。千円札が三枚と、いくらかの小銭。レシートもある。どこかのカフェのスタンプカードにポイントカードが数枚ほど。それからクレジットカードに免許証。
財布からカードを抜いて確認していたら、数枚のポラロイド写真が滑り落ちてきた。チェキと呼ばれるものだ。
どれも装飾の激しい騎士服を着た男と写っている。
男は、まだ幼さを残した甘えるような表情で、花南の肩を抱き寄せていた。花南はといえば、これ以上ないほど幸せそうに、男の胸元に頭を預けて笑っていた。
男の顔には見覚えがある。篠原涼雅。二十五歳。花南の死をうまく利用し、ショービジネスの世界でのし上がった男だ。
仲睦まじい写真は、一見すると恋人同士のようにも見える。実際、篠原自身も花南と交際していたと、全国民に向けて証言していた。
どのチェキにも、下手くそな男の字があった。
『かなんが一番』
『ずっと一緒。約束』
『あいしてる』
数多のファンにその日の気分で、呼吸するように吐き出してきたであろう手垢のついた定型句。一文字ずつに込められた熱量はあまりに希薄で、まるでスーパーのレジ打ちが打刻するレシートの印字と同じ、記号的な処理にしか見えなかった。
これは恋などではない。
キラキラとした装飾だらけの騎士服に、安っぽい愛の言葉を飾り立て、その裏側で、花南という一人の少女の純粋さを一滴残らず吸い尽くそうとする、巧妙な搾取の構図だ。
男がのし上がった舞台の下には、こうして使い捨てられた「一番」たちの残骸が、いくらでも転がっているのではないか。
「……いや、これはただの憶測だ」
メンズ地下アイドルだの、コンカフェだの、その界隈に漂う不透明な空気感が、俺に偏った色眼鏡をかけさせているだけかもしれない。たとえビジネスとしての「愛」が前提だったとしても、この男が花南を、花南がこの男を真実愛していた可能性はゼロではない。
何より、鼻につく。
育児のすべてを久美子に押し付け、家庭を顧みず、娘の成長すらまともに見届けてこなかった男が、今さら『娘を奪われた父親』のような顔をして、その恋人を悪者に仕立て上げようとしているその構図が。
「……滑稽だな」
乾いた笑いが漏れた。
自分の中にあるどす黒い独占欲と、身勝手な父親面。その醜悪さに気づき、俺は自嘲気味に口の端を歪めた。
車の窓を伝う雨粒が、不規則な筋を作っては消えていく。その頼りない軌跡を眺めていると、どうしても視線の先に娘の顔が重なってしまう。
「くそっ……」
やり場のない憤りが胸の奥からせり上がり、思わずハンドルを拳で叩いた。鈍い音が車内に響く。
苛立ちを逃がすように、手が勝手にポケットを探った。指先が馴染みのある感触――タバコの箱とジッポーを捉える。
健康に良くないことなど百も承知だ。だが今の俺には、大人だけに許されたこの『精神安定剤』が必要だった。
自分を甘やかすように火を灯し、吸い口から重たいニコチンを肺の深くまで吸い込む。
「……ふぅ」
ゆっくりと吐き出した白い煙が車内に解き放たれ、輪郭を失っていく。煙が薄れるのと反比例するように、乱れていた思考が静かに、冷静さを取り戻していくのが分かった。
吸い殻を始末すると、俺は目の前の現実に意識を戻した。
「さてと、調査の続きでもするか」
再び、財布の中身を精査する作業へと没頭し始めた。
目についたのは、カード入れの隙間に差し込まれた、一枚の白いプラスチックのカード。
病院の診察券だ。手に取った瞬間、少しだけ指が止まる。
「これは……」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
そこに記されていたのは、有名な総合病院の名称ではなく、レディースクリニックの名前。
患者名には「赤瀬花南」と記されている。発行日は一年半前。
俺はカードを財布に戻さず、そのままポケットに入れた。




