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11 三十万人の価値と罪悪感

 連絡が来たのは、十月の火曜日だった。


 俺は代々木の事務所で、地方議員の汚職に関する原稿を書いていた。

 締め切りまであと三日。依頼元の編集者からは、すでに二度リマインドが届いている。


 知らない番号から着信があった。


 出るかどうか迷って、出た。


「お嬢様、赤瀬花南さんのことで」


 女性の声だった。

 警察、と名乗った気がする。

 あとでこの通話の録音を探したが、スマートフォンには残っていなかった。


 交通事故。


 即死。


 到底、自分の娘と結びつかない言葉が、いくつも耳を通り抜けていく。


 しばらく受話器を持ったまま、モニターに映る書きかけの原稿を見ていた。


 涙は出なかった。


 それが、罪悪感の始まりだった。



 *



 花南とは、疎遠だった。


 元妻の久美子と別れたのが、花南が八歳のときだ。

 理由は、よくある理由のひとつ、性格の不一致によるもの。


 最初は、ほんの些細なことだった。


 風呂を使ったあと水切りをしておいてほしい。

 脱いだ靴下を裏返しのまま洗濯機に入れない。

 エアコンをつけたらレースのカーテンを閉める。


 そんな生活の端々にある『正しさ』を、互いに押しつけ合った。その結果、会話はいつしか、検察官と被告人のやり取りのようになっていた。


 最後は、俺の仕事だった。


『あなたの仕事は不吉だから、あの子の人生に近寄らないで』


 そう言って久美子が娘から俺を遠ざけたとき、心のどこかでホッとした自分もいた。

 血の通った家族を愛するよりも、血の流れた事件現場を這いずり回る方が、俺という人間にはお似合いだと思い込んでいたからだ。


 親権は久美子が持ち、花南とは月に一度会う約束をしていた。

 実際は娘に面会する日が年に数回に減り、花南の中学入学を境に関係はさらに希薄になった。年に一度会えれば良い方、という状況。ただ、誕生日に送る短いメッセージと現金。それだけは一度も欠かしたことはない。


 養育費は支払っている。月に五万。最初は娘のためだと思っていた。だが会わない時間が長くなるにつれて、その金はだんだん別の意味を持ち始めた。


 過去の失敗に対する罰金。

 父親であることから逃げるための免罪符。


 そんな響きに変わっていった。


 疎遠になりかけていた娘から連絡が来たのは、その頃だ。

 俺が義務感で送った「高校入学おめでとう」というメッセージの数ヶ月後だった。


 《明日、暇なら会いたい》


 《お金をせびるわけじゃないよ》


 すぐあとに、スタンプが送られてきた。


 《なにとぞ》


 可愛いのか不気味なのか。犬なのか猫なのか、よくわからない生き物だった。

 どうしてこれが好きなのか、俺にはさっぱりわからない。


 ただ、妙に必死な顔をしていた。


 次の日、俺は花南に会いに行った。


 あの日のことは、今でも妙に鮮明に思い出せる。



 *



 待ち合わせ場所は渋谷。

 若者の喧騒が、色彩の洪水となって流れている街。


 店は指定された。地図アプリを頼りに辿り着いたその店に足を踏み入れた瞬間、場違いな脂汗が滲むのを感じた。

 パステルカラーの壁紙に、ドライフラワーのシャンデリア。視界に入るものすべてが、俺の日常とは対極にあったからだ。


「こっち」


 声をかけられた方に顔を向ける。


 そこにいたのは、俺の記憶にある幼い彼女ではなかった。


 ゆるく巻かれた髪、繊細に引かれたアイライン。

 すっかり垢抜けた娘の姿に、心臓の奥がちくりと疼く。


 これが、俺が五万円という免罪符を払い続けてきた月日の正体かと。


「お父さん、入ってくる人の邪魔だから、はやくこっちにきてよ」


「ああ」


 硬い動きで椅子に腰を下ろす。


 周囲の視線が痛い。くたびれたジャケットを着た中年男と、全ての光を集めて輝くような女子高生。

 客観的に見れば、パパ活か何かの不謹慎な密会にしか見えないだろう。


 職業病か、つい無意識に周囲を観察してしまう。


 すると、三つ隣のテーブルにも、俺たちと似たような、妙に距離感の歪な男女のペアがいることに気づく。

 あちらも父親と娘だろうか。だが、男の顔には俺とは違う類の、隠しきれない欲望が張り付いていた。


「ジロジロ見ないの」


 厳しい声が飛んできて、意識を切り替える。


「……久しぶりだな。元気そうでよかった」


「別に普通だよ。お父さんも、相変わらず……その、不吉な顔してるね」


 花南が小さく笑う。

 久美子の呪詛のような言葉を、娘は冗談として投げ返してきた。

 それが救いなのか、それともさらなる突き放しなのか、俺には判別がつかない。


「あのね、ずっと食べたいなって思ってたのがあるの。頼んでいい?」


 渾身の笑みを向けられた。メニューに視線を落とすと、たかだかパンケーキにいちごが乗っているだけで三千円もしている。別に金が惜しいわけじゃない。

 ただ、このパンケーキにどうしたら三千円もの価値がつくのか、ふと考えてしまった。


「そっか、前にお財布も買ってもらったもんね」


 娘の声がトーンダウンする。

 中学卒業祝いで娘にねだられた財布は、当たり前のようにブランド物で、今の子はませているなと思ったことを思い出す。


「まあ、お父さんの懐事情によっては我慢するよ」


 少し上目遣いでこちらの顔色を窺う仕草。そこには、かつての幼い面影が混じっていて、俺は胸の奥を掻き毟られるような感覚に陥る。


「……好きなものを頼んでいいよ」


 花南は「やった」と小さく声を弾ませ、迷いなく店員を呼んだ。注文を済ませたあと、花南がジッと、それこそ毛穴を見つめるくらい真っ直ぐな視線を俺に向けてきた。たまらず、彼女から視線を逸らし、水を飲む。


「なんか、なんかさ。お父さん老けた?」


 花南は遠慮もなく言い放つ。その屈託のない声が、かえって俺の胸の奥にある、『娘の成長の場面を見ていなかった』という罪悪感を含む空白を際立たせる。


「お前こそ、その髪。染めたのか」


「これ? インナーカラー。JKっぽいでしょ? 撮影があるから、あんまり派手にはできないんだけどね」


「撮影?」


 聞き返すと、花南は少しだけ得意げに、けれどどこか照れ臭そうに唇を尖らせた。


「あのね、わたしアイドルになることになったんだ。これから地上波とかも出ちゃうし、絶対、有名になるから。フォロワーだって、もう三百人超えたんだよ」


 その時の花南の目は、まだ見たことのない光を追う、幼い好奇心と野心に満ちていた。


「今の時代、フォロワー数がその人の価値なんだって」


「誰かそんなことを言ったんだよ」


「みんな。事務所の人も友達も、SNSの人も。だからわたしは、有名になってフォロワーを沢山増やして、『花南ちゃん、生まれてきてくれてありがとう』って、みんなに言われたい」


 その言葉の危うさを指摘するべきだったのかもしれない。ルポライターとして生計を立てている者として、数字や虚像に群がる大衆の醜さを、誰よりも知っていたのだから。

 だが、その時の俺は、ただ明るく未来を語る無垢な娘を眩しく思い、目を細めることしかできなかった。


 ほどなくして、頼んだコーヒーと共にパンケーキが運ばれてきた。山盛りのホイップクリームが雪崩のように押し寄せ、鮮血を思わせるほど濃密な苺のソースが滴るパンケーキだった。


 花南は手慣れた手つきでスマートフォンを構え、数枚の写真を撮る。それからフォークを手に取り、二、三口ほど大切そうに口に運ぶと、すぐに皿を俺の方へ押しやった。


「はい、お父さん食べて。わたし、もういいから」


「まだ、ほとんど残っているじゃないか」


「だって、もう写真は撮ったし。それに……もう少し痩せないとって、事務所から言われてるから。これ以上太ったら、商品価値が下がるんだって」


『商品価値』という言葉が、甘ったるいクリームの香りと混ざって胸を突く。


「それでね。お父さんにお願いがあるの」


 花南はカバンから一枚の紙を取り出し、テーブルに滑らせた。


「これ。アイドル事務所の承諾書。お父さんのサインが必要なんだって」


 承諾書の文字が、パステルカラーの店内で白々しく光る。


「……お母さんは何て言ってるんだ」


「『もう高校生なんだから、自分の好きにしなさい』って。でも、『お父さんがダメって言ったら諦めなさい』らしいよ。だから、お父さんのサインが必要なんだよね」


 つい眉間に皺を寄せてしまう。


「お母さんと、うまく言ってないのか?」


「そんなことないよ」


 花南はサラリと答えて、ペンを差し出した。


「お願い、お父さん」


 俺は黙ってペンを受け取る。


 久美子は花南の芸能活動に反対している。そして俺も反対すると考え、「父親にサインをしてもらえ」と花南をけしかけたことは明らかだ。

 万が一俺がサインした場合、そこに付随する責任を全て俺に押し付けようとしているのだろう。


 正直、数字や見栄えや、他者の欲望にさらされる世界へ飛び込もうとしている娘を後押しする気にはなれない。

 だが、目の前の娘は、ずっと食べたかったパンケーキを我慢してでもその道に進みたいと願っている。


(結局、俺は何も言えないんだな)


 不吉な現場を這いずり回って稼いだ五万円を送り続け、娘の成長をレンズ越しにすら追わなかった男に、娘の選択を止める権利など毛頭ない。

 それに、娘はまだ若い。だからこそ失敗しても、まだ挽回が効く。


 自分の選択を正当化する理由をいくつか足して、俺は無言で署名した。


「ありがとう。お父さん」


 書類を受け取り、満面の笑みを浮かべる娘。


「気にするな」


 返された皿の上で、少しずつ溶けていくクリーム。それを、かつての過ちを無理やり腹に収めるような心地で、黙々と口に運ぶ。


「お父さん、わたしが一番になれるように、応援してね」


「……ま、頑張れよ。それと、あんまり無理すんな」


 それが、俺が娘にかけた、まともな最後の言葉だった。


 その日から数年後。

 娘は『三十万人の価値』を背負ったまま、冷たい雨のアスファルトの上で、ただの『遺体』として俺の前に戻ってきた。



 *



 娘が『Baby☆U』というグループでデビューしたことは知っている。てっきり大きなオーディションに受かったのかと思っていたが、蓋を開けたら地下アイドルだった。


 紅白やゴールデンタイムのテレビ番組とは縁のないアイドルだ。

 俺が本業で書いているルポルタージュのネタにしても、読者は「誰それ?」と首を傾げるだろう。


 あの日、三千円のパンケーキを数口で押し付けてきた花南の言葉が蘇る。


『商品価値が下がるんだって』


 その『価値』を品定めするのは、あのカフェの片隅で、卑猥な欲望を隠そうともせずに若い娘を眺めていた男たちと同類の、顔の見えない観客たちだ。


 仕事の合間に、ノートパソコンで『Baby☆U』と検索をかける。


 ヒットしたのは、画質の粗いライブ映像と、お世辞にも洗練されているとは言い難い公式ホームページだった。


 メンバーのプロフィール欄を確認すると、作り物のような笑顔を浮かべる花南がいた。

 かつて久美子が『不吉だから』と俺から遠ざけた自慢の娘は、光の中に身を投じている。しかしその光は、ステージを照らすスポットライトというより、蛾を誘い寄せる街灯のような危うさを帯びていた。


 アイドルというのは、要するに夢を売る仕事であり、夢は必ず終わる。ましてや地下アイドルなんてものは、夢の残骸を切り売りしているようなものではないか。


 煌びやかな衣装を纏い、狭いライブハウスで汗を流す。その対価として得られるのは、熱狂という名の刹那的な承認と、数千円のチェキ代だけ。社会の澱みや人間の業を散々見てきた俺からすれば、それはあまりにも脆く、そして残酷な搾取の構造に見えた。


 だから娘の葬儀に出たとき、参列した若い男女の数に驚いた。白いペンライトを握りしめて泣いている若者たちを見て、初めて自分の知らない娘がいたことを知った。


 取材を始めたのは、葬儀が終わってから二週間後だった。


 理由は単純だ。

 娘の死に納得ができなかったからだ。

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