10 まぁ、いっか
「そっか、二人はもう別れたんだ」
透き通った指で、自分の平らなお腹をそっと撫でた。
そこにはもう、痛みも、温もりも、未来も残っていない。
でも、ここに赤ちゃんがいて、その子が宿った瞬間。みやびくんは、わたしを世界で一番愛してくれていたはずだ。
「わたしとみやびくんは、愛しあってた」
おまじないみたいに口にすると、わたしの輪郭がふっと穏やかな光に包まれた。
お父さんを見つめる。
「書かないでいいよ。お父さん」
「花南、本当にそれで――」
「もういいって言ってるの」
強く返すと、お父さんは黙った。
「わかった。お前がいいなら、書かない」
お父さんが握りしめた拳が、乱雑な机の上で小さく震えている。
まるで、娘を傷つけた者たちへの行き場のない怒りを、必死に押し殺しているみたいに。
お父さんは、わたしのために怒ってくれていた。
不器用で、くたびれていて、いつも仕事ばかりしてるお父さんだけど。
この人は今、幽霊になった娘の誇りを守るために、怒りを堪えている。
震える拳を見ていたら、ぎゅっと固まっていた身体の力が、ゆっくり抜けていった。
生きてた時によく感じていた、怒りとか、絶望とか。不思議とそういう感情はもうどこにもなかった。心がすっと、なだらかに流れていく感じがする。
やっぱり、親子の愛が世界最強の愛なのかな。
だとしたら――やっぱりみやびくんの赤ちゃん、産みたかったな。でも、幽霊のわたしにはもう叶わない願い。だから、お父さんに聞いてみることにした。
ほらやっぱり、「あの時聞いておけば」って後悔したままあの世に行くのは嫌だし。
「あのさ、お父さん。わたしが生まれた時、嬉しかった?」
「……ああ。嬉しかった。これ以上の幸せなんて、この先一生ないと思うくらいには」
ぼそっとした声で告げられる。
中年男性のツンデレとか、誰も得しないんだけど。
そんなことを思って、つい頬が緩んだ。
耳まで赤くなるお父さんがおもしろくて、質問をもう一個追加した。
「じゃあさ、わたしのこと、ちゃんと愛してた?」
「……ああ」
お父さんは顔を上げた。
照れたような表情で。でも、不器用なくらい真っ直ぐな視線で、透明なわたしを射抜いた。
「花南が、俺の子で……本当に良かった。それだけが俺の真実だ」
言ったそばから視線を逸らすところが、お父さんらしくて少し笑える。
でも、お父さんのくれたその言葉は、わたしの『物語』の最後の一行を、静かに書き換えていく。通信環境の悪い画面みたいにガタついていたわたしの輪郭は、今は凪いだ水面みたいに穏やかだった。
滅多に口にしないであろう、わたしへの本音を漏らしたお父さんは、一仕事終えたみたいに椅子に体を預けている。でも、机の上に投げ出した指先が、やり場のない虚脱感に震えているように見えた。
そっか。
せっかく掴んだスクープ、逃すことになっちゃったもんね。
「ごめんね。こんなわがままな娘で」
お父さんが顔をしかめた。
たぶん悲しい顔。泣くのを我慢してる。
「……お前は、あいつらを許せるのか」
低く、かすれた声。
「許せるっていうか、『まぁ、いっか』って忘れるの」
いつもやっていたみたいに、いたずらっぽく笑う。
窓の外を見る。
東京の空が、うっすら白み始めていた。
憎むのって、すごくエネルギーがいる。
そのエネルギーで何かが変わるならいいけど、たぶん変わらない。
みやびくんは、お天気お兄さんとして生きていくし、天音ちゃんは、Baby☆Uのメンバーとして生きていく。
そして、わたしはここにいる。
透けたまま、宙をふわふわ浮いて。
でも、不思議と怒りより先に浮かんできたのは、あの武道館の景色だった。
客席のペンライト。
タオル。
『R.I.P. KANAN』の文字。
みんな、わたしのことを覚えていてくれていた。
Baby☆Uとして武道館に立っていた天音ちゃんは、泣きながら歌っていた。
みやびくんは、スーツを着て今日の天気をみんなに伝えている。
それぞれが、それぞれの場所で生きている。
透けているわたしはもう、そこにはいられないけれど。
「パパ」
久しぶりにそう呼ぶと、お父さんの目が赤くなった。
「次に生まれ変わったら、またちゃんとやろうと思う。ちゃんとって何かはわかんないけど。でも、誰かを好きになるのは、やめたくないな」
「花南……」
「記事は書かないで。わたしの分も、長生きしてね」
ふわふわと宙を漂いながら、お父さんの頭を撫でるふりをした。
もちろん、手のひらは白髪混じりの頭をすり抜けてしまう。
でも、少しだけ温かい空気が動いた気がした。
明るい光が、身体から滲み出てくる。
じんわりと、温かい。
わたしはもう一度だけ、武道館のステージを思い浮かべる。
あの横一列の、眩しい景色。
あそこに立ちたかったな。
でも、まぁ。
ばいばい。
光の中に、わたしは消えた。




