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寂しい

朝、角に立った。


立つ必要はなかった。待ち合わせの約束はない。ほのかの中に、この角で誰かを待つ習慣はもう存在しない。


それでも来てしまった。足が覚えていた。体が覚えていた。十何年分の朝が、この角に俺を連れてくる。


ほのかが歩いてきた。紺のスカート。髪を耳にかける仕草。


昨日と同じだ。昨日と全く同じだ。同じ時間に、同じ道を、同じ仕草で歩いてくる。何も変わっていない。ほのかの朝は何も変わっていない。変わったのは、その朝の中に俺がいないということだけだ。


俺の前を通り過ぎた。


目が合わなかった。合わせようともしなかった。昨日は「誰?」と聞いてくれた。声をかけてくれた。知らない相手にでも、ほのかは優しかったから。でもその会話も、一晩で消えた。今日の俺は「昨日話しかけてきた知らない人」ですらない。道端の電柱と同じだ。景色の一部だ。


ほのかの背中が遠ざかっていく。


あの背中を、毎朝ここから見ていた。でもあの頃は背中じゃなかった。隣にいた。横顔だった。くだらない話をしながら歩いていた。昨日の晩ごはんの話。テストの話。「相沢、寝癖」と笑う声。全部、ほのかの横で聞いていた。


横にはもういられない。ほのかは横を見ない。俺のいた場所を見ても、そこには誰もいない。ほのかの世界から、俺という人間が丸ごと抜け落ちている。


坂を下りていく背中が小さくなった。


追いかけたかった。名前を呼びたかった。「俺だよ」と言いたかった。何も変わってないんだよ。お前が忘れてるだけで、俺は何も変わってないんだよ。


声は出さなかった。出したところで、明日にはまた消える。


角を離れた。足が重かった。


空がやけに高かった。風が肌を通り抜けるように冷たかった。季節のせいじゃない。もっと内側の、もっと深い場所が冷えていた。


スマホを開いた。メモアプリ。三行。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』

『藤崎ほのか(消えた)』


閉じた。


今日やることは決まっている。もうボタンは使わない。段取りで乗り切る。結城と吊りループの補強をする。黒瀬と動線を確認する。ほのかの帰りは今日も颯太に頼む。三行目の次は作らない。


第2ボタンに触らずに、歩き出した。


---


教室。一限目。出席確認。


「——相沢」


担任の声が聞こえた。返事をした。「はい」と。


間があった。


前よりも、もう少し長い間。担任が俺の方を見て、目が合って、でも焦点が合うまでに二拍かかった。ようやく俺を捉えて、「はい」と呟いて、次の名前に移った。


二拍。昨日は一拍だった。その差が、腹の底に冷たく落ちた。


二限目の移動教室。颯太と並んで廊下を歩いていた。


「なあ恒一、昨日の——」


颯太が言いかけて、止まった。


「……ん?」


「いや、なんだっけ。何の話しようとしたっけ」


颯太は首を傾げて、笑って、「まあいいや」と流した。


三回目だった。ここ数日で三回。颯太が俺との会話の途中で、一瞬だけ自分が何をしていたか分からなくなる。まだ軽い。まだ「気のせい」で通る。


でも進んでいる。確実に。


ほのかは二列隣にいた。ノートを開いて、シャーペンを動かしていた。俺の存在に一切反応しない。景色だ。空気だ。同じ教室にいるのに、地球の裏側より遠い。


---


昼休み。家庭科室。


結城がいた。ミシンの前ではなく、作業机の前に座っていた。布巾の上に糸切りばさみが置いてある。その横に、替えのボタンが一つ。箱から出した、俺の第2ボタンと同じ形のやつ。


準備してあった。


「座って」


結城の声はいつもと違った。柔らかくなかった。決めてきた人間の声だった。


「相沢くん。今日、付け替える」


「……結城」


「聞いて。もう二人消えてる。白鳥先輩。ほのかちゃん。——次に使ったら三人目になる」


結城は替えのボタンを指で押さえた。


「このボタンは普通のボタン。箱の中にあったけど、糸の色も縫い目も異常がない。これに付け替えれば、引きちぎっても何も起きない。ただのボタンが取れるだけ」


正しい。筋が通っている。付け替えれば終わる。もう巻き戻れない。もう誰も消えない。


「……結城。先に話さなきゃいけないことがある」


「なに」


「黒瀬が——舞台担当の黒瀬が、俺と同じだった」


結城の手が止まった。


「同じって——ボタンの?」


「ああ。六回使ってる。五人消してる。あの箱も、紙も、俺より先に見てた」


結城は椅子の背もたれに手をついた。ゆっくり座り直した。


「……六回」


「それと。"まだ起きてない悪いことが、先に身体に来る"。未来が見えるんじゃない。体が先に怖がるんだって。使うほど、それが鋭くなるって」


結城はしばらく黙っていた。紙の「わたしは」を書いた人間と、黒瀬と、俺。同じボタンを使った人間が三人。結城の目が、何かを組み立てるように動いた。


「……その予感が、文化祭に向かってる」


「黒瀬は体育館に入ると胸が痛むって言ってた。俺も——昨日から、体育館の天井がきしむ音が聞こえる。実際には鳴ってないのに」


「幻聴?」


「分からない。でも何かが近づいてる。文化祭で、体育館で、何かが——」


「だからボタンを持っていたいの?」


結城の声が、静かに切り込んできた。


「何かが起きたとき、使えるように。——でもそのとき三人目が消えるんでしょう」


何も言えなかった。


結城は立ち上がった。椅子が音を立てた。


「あったら使うんでしょう。使ったら誰かが消えるんでしょう。それを分かっていて持ってるの。——次に誰が消えるか、分からないまま」


分からない。結城は分かっていない。俺だって分からない。次に引きちぎったとき、一番強く思い浮かべた相手が消える。それが誰になるかは、その瞬間まで分からない。だからこそ怖い。


「結城は——怖くないのか。俺の近くにいて」


「怖いよ」


即答だった。


「怖い。でも怖いから外してほしいんじゃない。——これ以上、相沢くんに失ってほしくないから外してほしいの」


結城の目が潤んでいた。泣いてはいなかった。泣く手前の、こらえている目だった。


「ほのかちゃんの顔、今日も見たでしょう。教室で。隣にいるのに、知らない人の目をしてた。——あれをもう一人分増やすの。もう一人分の"消えた"を抱えるの」


何も言えなかった。


結城は糸切りばさみを取った。刃を開いた。


「お願い。今ここで付け替えさせて」


手を伸ばした。俺の制服に向けて。


俺は——半歩、下がった。


結城の手が止まった。


しばらく、見つめ合っていた。家庭科室の空気が凍ったみたいに動かなかった。


「……ごめん」


それだけ言った。それしか言えなかった。


結城の手がゆっくり下がった。はさみが布巾の上に戻った。小さな金属の音がした。


「……行くの」


「ごめん」


もう一度言って、家庭科室を出ようとした時。


「ボタンは無理でも、せめて吊り物は私がやる」


結城がそう言った。


背中に結城の視線を感じた。振り返れなかった。振り返ったら、はさみを渡してしまいそうだった。そうするのが正しいと分かっていた。分かっていて、できなかった。


---


五限目が終わった後、体育館に行った。


中は文化祭の準備で騒がしかった。ステージの上では垂れ幕が吊られている。昨日傾いた横棒は戻されていたが、吊りループの付け根は白く毛羽立ったままだった。


黒瀬がステージの端にいた。結束バンドとワイヤーを手に、安全ひもの二重化をやっていた。


「遅い」


「すまん」


「結城は」


「今日の放課後、吊りループの返し縫いに来るって言ってた」


「いい。——お前は動線を見ろ。当日、ステージ前の通路を人が通らないようにするにはどうするか。椅子の配置で潰すか、立ち入りテープで仕切るか」


黒瀬は作業しながら話した。手が止まらない。結束バンドを締める、ワイヤーを通す、カラビナを引っかける。その手つきに迷いはなかった。


でも、おかしなことがあった。


脚立を使っている生徒がいた。ステージの上で照明のフレームを調整している。脚立の脚がステージの端に近い。危なくはない。普通なら何も思わない距離。


黒瀬が振り返った。


「——脚立を下げろ」


声が鋭かった。怒鳴ったわけじゃない。でも空気が一瞬凍った。


「え——三十センチくらい余裕ありますけど」


「下げろ」


理屈じゃなかった。論理じゃなかった。黒瀬の体が先に反応していた。脚立とステージの端と高さの組み合わせが、黒瀬の中の何かを叩いた。去年の記憶か。それとも予感か。あるいはその境目がもう曖昧になっているのか。


生徒が脚立を下げた。黒瀬は何事もなかったように作業に戻った。でも結束バンドを締める指が、さっきより少しだけ強かった。


俺は黒瀬を見ていた。


この男は「知ってる」のではない。「怖がってる」のだ。六回分の恐怖が身体に刻まれていて、似た構造に出くわすたびに反射する。段取りは理性だ。でも黒瀬を動かしているのは、理性の下にある反射だった。


---


そのとき、体育館の扉が開いた。


女子が一人入ってきた。三年の腕章をつけている。プログラムの紙を持って、きょろきょろとステージの方を見回しながら歩いてきた。


「あの、舞台担当の人——」


黒瀬が振り返った。


女子が黒瀬の顔を見た。


一瞬、足が止まった。口が開きかけて、閉じた。視線が黒瀬の顔の上を泳いだ。見覚えがあるような、ないような——思い出そうとして、掴めない。そういう目の動きだった。


「あの——ごめんなさい、舞台担当の方ですよね」


名前が出てこない。目の前にいる人間の名前が出てこない。でもそれを失礼だと感じているから、遠回しに確認する。


黒瀬の手が止まった。結束バンドを握ったまま、一秒だけ動かなくなった。


「黒瀬です。二年の」


声は平坦だった。何の感情もない声だった。名乗り慣れている声だった。


「あっ、ごめんなさい——三上沙耶です。三年で、実行委員をやってます。えっと、よろしくお願いします」


よろしくお願いします。初対面の挨拶だった。


黒瀬は三上沙耶を知っている。俺にはそれが分かった。名前も、声も、癖も、全部知っている。でも三上沙耶の中から、黒瀬の器は消えている。だから毎回、よろしくお願いします。毎回、名乗り直し。


「よろしくお願いします。——プログラムの配置ですか」


黒瀬は普通に答えた。普通に会話を始めた。手も動き始めた。何事もなかったかのように。


でも俺は見ていた。


「黒瀬です」と名乗るまでの、あの一秒を。三上が「よろしくお願いします」と言ったとき、黒瀬の喉仏がわずかに動いたのを。飲み込んだのだ。何かを。


三上が去った後、黒瀬は作業に戻った。背中を向けたまま、何も言わなかった。


俺は何も聞けなかった。あれが黒瀬の日常なのだ。五人分の「よろしくお願いします」。五人分の「黒瀬です」。


あれが、俺の未来だった。


---


六時前。正門の近くで、壁に背中を預けて待っていた。


ほのかが出てきた。隣に村田ともう一人。三人で坂を下りていく。


俺はその後ろを歩いた。五十メートル。同じ帰り道。


今日はあの嫌な予感がなかった。空気がちゃんと吸えた。大丈夫だ。たぶん大丈夫だ。自分に言い聞かせながら歩いた。


ほのかが何か言って、村田が笑った。ほのかも笑った。声は聞こえない。遠すぎる。でも肩の動きで分かった。口の右側が先に上がる笑い方をしている。


あの笑い方を、俺はたぶん世界で一番知っている。


小学三年のとき、転んで膝を擦りむいた俺を笑ったのがあの笑い方だった。中学の入学式で、慣れないネクタイを直してくれたときもあの笑い方だった。先月の帰り道で、「相沢、寝癖」と指差して笑ったのもあの笑い方だった。


全部覚えている。俺だけが覚えている。ほのかの中には、もうない。


村田たちが分かれ道で別れた。ほのかが一人になった。距離を詰めた。


ほのかが、立ち止まった。


振り返ったわけじゃない。足が止まっただけだった。道の真ん中で、ほのかは自分の胸に手を当てた。さっきまで笑っていた顔が、別のものに変わっていた。


「……なんだろ」


小さな声だった。独り言だった。聞こえるはずのない距離だったのに、風に乗って届いた。


「知らないのに。——なんか、嫌。なんか——寂しい」


ほのかは自分の言葉に戸惑ったように首を振った。意味が分からない、という顔をして、歩き出した。


俺は立ち止まったまま動けなかった。


寂しい、と言った。


理由も分からず、名前も思い出せず、ただ胸の奥に「寂しい」だけが残っている。十何年分の朝と帰り道と笑い声が全部消えて、最後に沈殿したのが——寂しい。


それが残響だった。俺がほのかの中に残せた、たった一つのもの。


名前じゃない。思い出じゃない。「寂しい」だ。


---


家に帰った。


自分の部屋。スマホを開いた。メモアプリの三行を見た。見ただけで閉じようとした。


そのとき、予感が来た。


映像じゃない。音だった。


体育館の天井が軋む音。金属と金属が擦れる音。布が裂ける音。——全部、体育館で聞いた音に似ていた。でも記憶を再生しているのとは違った。もっと鮮明で、もっと近くて、まだ起きていない音だった。


耳を塞いだ。消えなかった。


十秒。二十秒。音が遠ざかっていった。消えた。


手が汗ばんでいた。心臓が鳴っていた。


これが——使うほど鋭くなる、ということか。黒瀬は六回でこれを抱えている。体育館に入るたびに胸が痛むと言っていた。毎日こんな音を聞いているのか。


「恒一」


母の声だった。階下から。


「ごはんよ——」


声が途切れた。


一拍。


「——ごはんよ、恒一」


名前を言い直した。言い直す前に、間があった。思い出すための間。俺の名前を、思い出すための——。


血縁には効かないはずだ。ルールにそう書いてあった。ブリキ箱の紙にも書いてあった。母は対象外のはずだ。


でも「輪郭が薄れる」は、リストとは別の話だ。使うほど、俺という存在の輪郭が周りから薄くなる。リスト入りしていない人間にも、俺を認識するまでの時間が伸びる。


母にまで、それが届き始めている。


「……今行く」


階段を降りながら、ボタンに手が伸びた。


途中で止めた。


止めたけれど、指先にはボタンの丸い輪郭が——触れてもいないのに——残っていた。


---


夜。布団の中でスマホを見た。


メモアプリ。三行。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』

『藤崎ほのか(消えた)』


四行目は空白だった。


文化祭まで、あと三日。


体育館で何かが起きる。黒瀬の予感。俺の予感。さっきの幻聴。全部が同じ方向を指している。


そのとき、ボタンがなかったら。


そのとき、ボタンがあったら。


結城が言った。「どっちを選んでも同じことを言ってる」。正しい。どこまでも正しい。


目を閉じた。四行目の空白が、瞼の裏に浮かんでいた。


まだ名前はない。まだ空白だ。


——まだ。


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