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8/15

空白

天井。


自分の部屋の天井。見慣れた染み。見慣れたカーテンの隙間から差す光。


アラームが鳴っていた。7:15。


起き上がれなかった。体は動くのに、起き上がる意味が分からなかった。手を見た。右手。指の腹に、糸が千切れたときの感触がまだ残っていた。


母の声。スマホを耳に押し当てたまま動かなくなった背中。「意識が戻らない」。「危篤だって」。台所の蛍光灯の白さ。味噌汁の匂い。全部、ついさっきのことだ。


でも時計は7:15を指している。日付は同じだ。


起き上がった。制服を着た。ボタンは縫い付けられていた。第2ボタン。またついている。


スマホを開いた。メモアプリ。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』


二行。三行目は空白。


閉じた。


階段を降りた。台所に母がいた。味噌汁の匂い。卵のパック。


母が振り返った。


「恒一、お弁当いる?」


普通の顔だった。


さっきの——あの顔じゃなかった。血の気が引いて、目だけがはっきりしていた、あの顔。スマホを耳に押し当てたまま動けなくなっていた、あの顔。「ほのかちゃんが」と言いかけて声が途切れた、あの顔。


それがない。何もない。いつもの朝の、いつもの母の顔だった。


戻ったのだ。


本当に、戻ったのだ。


安堵が胸の底から込み上げてきた。ほのかはまだ事故に遭っていない。まだ朝だ。まだ何も起きていない。助けられる。今度は助けられる。


——でも。


安堵の裏側に、冷たいものが貼りついていた。薄い膜みたいに、剥がれない。ルールは知っている。引きちぎった瞬間に一番強く思った相手。ほのかを助けたいと思って引きちぎった。だから——。


いや。まだ分からない。確かめるまでは分からない。白鳥先輩のときとは違うかもしれない。毎回同じとは限らない。そうだろ。そうかもしれないだろ。


「……いらない」


「あら。じゃあ購買ね」


母はそれ以上言わずに鍋に戻った。


何も知らない背中だった。昨夜の電話も、救急車も、「危篤」も、この朝にはどこにも存在していない。俺の中にだけある。


玄関を出た。走った。


---


角まで走った。いつもの角。ブロック塀。パンジー。


誰もいなかった。早く出すぎた。分かっている。分かっているのに、膝が震えた。


待った。一分。二分。


ほのかが歩いてきた。


紺のスカート。朝日。髪を耳にかける仕草。


いた。


生きている。歩いている。あの交差点で車に撥ねられていない。救急車に運ばれていない。意識不明のベッドの上にいない。ここにいる。朝日の中を、歩いている。


胸の奥が熱くなった。目の奥が痛くなった。よかった。間に合った。ほのかは生きている。生きている。


「ほのか——」


声が裏返った。みっともないくらい震えていた。でも構わなかった。


ほのかが足を止めた。


こちらを見た。


目が合った。


「……えっ、誰?」


さっきまでの熱が、一瞬で凍った。


白鳥先輩のときと同じだった。同じ言葉。同じ目。知らない人間を見るときの、あの他人行儀な目。


やっぱり。


分かっていた。分かっていたくせに、祈っていた。違うかもしれないと。今回は違うかもしれないと。


同じだった。


「あ——」


声が出なかった。十何年。毎朝この角で会って。一緒に歩いて。嘘つくと目が泳ぐって笑って。いつも通りねって手を振って。その全部が、この目の中にない。


ほのかの眉がわずかに寄った。知らない人間が自分の名前を呼んだことへの、純粋な戸惑い。


「この辺の人?」


「……ごめん。人違い」


口が勝手に動いた。


「人違い? 名前、合ってたけど」


「たまたま。知り合いに似てた」


ほのかはしばらく俺を見ていた。不思議そうな顔だった。それから——一瞬だけ、表情が揺れた。


眉が寄った。口元がわずかに歪んだ。泣きそうな顔ではなかった。もっと手前の、自分でも分からない何かに触れてしまったような顔。


「……なんだろ。なんか——」


ほのかは自分の胸に手を当てた。


「変な感じ。会ったことない、はずなのに」


残響だ。名前は消えた。記憶は消えた。でも感情だけが残っている。


「……気のせいだと思う。ごめん」


「うん。……気をつけてね」


ほのかはそう言って歩いていった。手は振らなかった。「じゃあね」とは言わなかった。言う理由がなかった。


---


教室に入った。


席に座った。鞄を置いた。文化祭の準備で教室の後ろ半分が作業場になっている。段ボールの壁、ペンキの匂い、笑い声。俺はどこにも入れなかった。


ほのかが教室に入ってきた。


同じクラスだ。当たり前だ。ほのかは毎日この教室にいて、俺の二列隣に座っている。


ほのかは自分の席に着いた。友達に「おはよー」と声をかけている。笑っている。いつもの朝だ。ただ、俺の方を一度も見なかった。二列隣にいる人間が、景色と同じ扱いになっている。


一限目が始まる前だった。


隣の席の村田が、ほのかと話しているのが聞こえた。文化祭のシフトの話。その流れで、村田がこちらをちらっと見た。


「ほのか、今日相沢と来なかったの?」


ほのかが首を傾げた。


「相沢?……あ、朝の“人違い”の人?」


村田が目を丸くした。


「はぁ? 何言ってんの。相沢恒一。そこにいるじゃん。あんたら幼馴染でしょ?」


心臓が跳ねた。村田は知っている。クラスの人間は知っている。ほのか以外の全員が。


「そうだよ」


気がつけば口が動いていた。椅子から半分腰を浮かせていた。


「俺とほのか、幼馴染。小学校からずっと——」


ほのかが俺を見た。怪訝な顔だった。知らない人間が急に立ち上がって、自分との関係を主張している。その不自然さに対する、当然の反応。


「え?」


ほのかの眉が寄った。


「いや——何言ってんの?“幼馴染”って何それ。知らないよ」


興味がなかった。困惑でも怒りでもなく、ただ純粋に興味がなかった。自分に関係のない話として処理されていた。


ほのかは村田の方を向いた。「ケンカでもしたの?」と村田が小声で聞いた。


「知らない。ていうか知らない人なんだけど。——まあいいや」


ほのかは肩をすくめて、スマホをいじり始めた。


俺は座り直した。村田がこちらを見ていた。気まずそうな、よく分からないものを見る目だった。


チャイムが鳴った。一限目が始まった。


ほのかは二列隣にいた。同じ教室の、同じ空気の中にいた。


たった二メートルの距離が、どこよりも遠かった。


---


午前中、小さな異常があった。


出席確認で担任が「相沢」と呼んだとき、少しだけ間があった。目が合っているのに焦点がずれているような間。前にもあった。でも今日の方が長かった。


四限目、颯太が話しかけてきた途中で、一瞬だけ手が止まった。「あれ」と言いかけて、首を振って、「なんでもない」と笑った。


---


昼休み、家庭科室に行った。


結城がいた。ミシンの前に座っていた。俺が入ってきたのを見て、手を止めた。


「……また来た」


「うん」


結城は俺の顔を見た。それから制服の前。ボタンの位置を。


「使ったね」


否定しなかった。


「誰が消えた」


静かな声だった。責めてはいなかった。確認していた。


「……ほのか」


声に出した瞬間、喉の奥が熱くなった。


結城は何も言わなかった。布巾の上に、あの糸切りばさみが置かれたままだった。「怖いと思ったら言って。そのときは私が切るから」と言った、あのはさみ。


「……なんで使ったの」


「事故だった。ほのかが——帰り道に。車に。危篤だって母さんに言われて」


「だから戻した」


「戻さない選択肢があったか?」


声が大きくなった。結城は動かなかった。


「ない。なかったと思う。……でも聞かなきゃいけないから聞いてる」


結城は立ち上がって、窓際に歩いていった。


「今日、ほのかちゃんに会った?」


「会った。教室で。村田が幼馴染でしょって言ったのに、ほのかは——知らないって」


結城の肩が、わずかに下がった。


「……そう」


それが結城の「つらい」の表現だった。


---


五限目が終わった頃、廊下で声をかけられた。


「——おい、」


振り返った。


えっと——誰だっけ。腕まくりした黒い長袖。腰にカラビナ。体育館の舞台担当の。


「……ああ、黒瀬か」


数秒かかった。昨日何度も声を聞いた相手なのに。


黒瀬は俺の顔を見て、それから視線を下げた。ボタンの位置。


「——やったな」


低い声だった。


意味が分からなかった。いや——分かりたくなかった。


「……何が」


「とぼけるな。何回引きちぎった」


血が引いた。なんで知ってる。結城にしか話していない。結城が言ったのか。いや、結城はそんなことしない。じゃあなぜこの男は——。


「なんで——お前が——」


「同じだからだ」


空気が変わった。


「俺もやった」


「……は?」


「お前と同じボタンだ。同じ箱から出てきた。家庭科室の棚の奥。二重底のブリキ箱。あの紙も読んだ。——お前より先に」


嘘だと思いたかった。でも黒瀬の目は嘘をついていなかった。あの目は——疲れ切った奥の深い目は——同じ場所を通った人間の目だった。


「来い」


黒瀬はそれだけ言って、歩き出した。


---


体育館の裏。非常階段の踊り場。人が来ない場所だった。


黒瀬はフェンスに背中を預けて、腕を組んだ。


「何回使った」


まだ信じきれなかった。でも黒瀬の目を見ていると、嘘をつく余裕がなかった。


「……二回」


「二回で二人か」


黒瀬は一瞬だけ目を閉じた。


「俺は六回だ。最初の一回は妹を助けようとした。血縁には効かなかった。誰も消えなかった。——残りの五回で、五人消えた」


五人。俺の二行が三行になっただけで、こんなに苦しいのに。五人。


「お前と同じだ。全部同じだ。引きちぎったら7:15に戻る。思った相手の記憶が消える。新しく作っても一晩で抜ける。残るのは感情だけ。——全部、同じ道を通った」


黒瀬の声は平坦だった。感情を殺した声だった。でも殺しきれていなかった。「五人」のあたりで、ほんのわずかに揺れた。


「ブリキ箱の紙。あれは俺が見つけたとき、すでにあった。誰が書いたかは分からない。ただ——下の方に、少し書き足した。俺が通った後に分かったことを」


「『使えば使うほど、自分の輪郭が周りから薄くなっていく』——あれか」


「ああ」


黒瀬は腕を解いて、フェンスの金網に指をかけた。無意識にワイヤーを撚る動き。


「最近、誰かに名前を呼ばれたとき、相手が一瞬迷わなかったか。お前を見てるのに、見てないみたいな顔をしなかったか」


心臓が跳ねた。担任の間。颯太の「あれ」。全部——。


「……あった」


「そうだろうな。俺もそうだった。まだ軽い。まだ"気のせい"で済む段階だ。でも——続けたら進む」


黒瀬はフェンスから手を離した。


「もうひとつ聞く。お前、昨日——体育館で垂れ幕が傾いたとき、その前から嫌な感じがしてなかったか」


息が詰まった。


朝からの、あの胸騒ぎ。天気はいいのに空気が薄く感じた。ほのかの歩く速度が速く見えた。鳩が窓にぶつかっただけで心臓が跳ねた。理由の分からない、ずっと胸の底にわだかまっていた——あれ。


「……あった」


「それだ。使うほど鋭くなる。まだ起きてない悪いことの気配が、先に身体に来る。映像が見えるわけじゃない。具体的に何が起きるかは分からない。ただ——体が先に怖がる」


黒瀬はフェンスから背中を離した。


そうか、俺は思いついた。あの紙の最後、『——わたしは』って途切れてたところ。

あれ、多分こう続く。“まだ起きてない悪いことが、先に身体に来る”。

未来が見えるんじゃない。体が先に怖がるんだ。


黒瀬の顔にかすかに絶望の影が浮かぶ。抜け出せない迷路の中に入ってしまったような。


「俺は六回だ。お前より先にいる。体育館に入ると胸が痛む。ステージの吊り物を見ると手が震える。——文化祭が近づくほど、ひどくなる。何が起きるかは分からない。でも体育館で、何かが——」


黒瀬の声が途切れた。手が、わずかに震えていた。


「だから触らせない。段取りを固めて、手順を管理して、誰にもいじらせない。——俺にできるのはそれだけだ。もうボタンは使わないと決めた。使えば六人目が消える」


沈黙が落ちた。風が吹いた。フェンスが鳴った。



「黒瀬」


「なんだ」


「お前の——リストには、誰がいる」


黒瀬は答えなかった。腰のカラビナに手を触れた。金属が小さく鳴った。


「お前、誰かを助けるために使ったんだろ。——使った後で、そいつに忘れられた」


「……ああ」


「そいつが今日も危ないなら、帰り道を変えろ。一人にさせるな。段取りを組め。お前じゃなくていい。別の人間を使え」


黒瀬は立ち上がった。歩き出した。


「黒瀬」


足が止まった。


「なんで——教えてくれるんだ。俺に」


黒瀬は振り返らなかった。しばらく黙っていた。非常階段の手すりに手を置いて、動かなかった。


「お前が二人目を消したからだ」


静かな声だった。


「俺が一人目を消したとき、誰も教えてくれなかった。箱の紙だけがあって、意味が分かったのは三人消した後だった」


黒瀬の指が手すりの上で止まっていた。


「……だから——どうってことじゃない。ただ——」


言葉が切れた。続きを探しているみたいだった。見つからなかったのか、黒瀬は小さく息を吐いた。


「五人ってのはな、もう慣れるもんだと思ってた。でも慣れない。六人目が怖い。七人目が怖い。——怖いから、段取りで潰す。それしかできないから」


黒瀬は階段を降り始めた。


カラビナの金属音が鳴った。一段、また一段。コンクリートの壁に反響して、細く、残った。


音が消えた後も、踊り場には黒瀬がいた気配だけが残っていた。六回引きちぎって、五人消して、それでもまだ体育館に立ち続けている人間の背中だった。孤独という言葉では足りなかった。あの背中に滲んでいたのは、もっと古くて、もっと静かなものだった。


---


放課後。


颯太を探した。教室にいた。


「颯太、頼みがある」


「なに、急に」


「ほのかのこと。今日、帰り、一人にしないでくれ」


颯太の顔が変わった。


「ほのか? お前ら何かあったの? 朝もなんか変だったって村田が——」


「何もない。何もないんだけど——今日だけ頼む。誰かと一緒に帰るようにしてくれ」


「いや、お前が一緒に帰ればいいじゃん。いつも一緒だろ」


その一言が、胸の真ん中に刺さった。


「……今日は、俺は無理なんだ」


「は? 何がだよ——」


「颯太」


真っ直ぐ見た。颯太は黙った。俺の顔に何かを読んだのか、しばらく迷ってから頷いた。


「分かった。村田あたりに声かけて、一緒に帰るように仕向ける。——でも後で説明しろよ」


「……ああ」


---


六時前。正門を出た。


ほのかが出てきた。隣に村田ともう一人、女子がいた。颯太が段取りを通してくれた。三人で並んで、坂を下りていく。


俺はその後ろを歩いた。


五十メートルくらい離れて、同じ道を歩いた。いつもなら隣にいた道を、今日は五十メートル後ろから歩いている。


ほのかが何か言って、村田が笑った。ほのかも笑った。声は聞こえない。遠すぎる。でも肩の動きで分かった。口の右側が先に上がる笑い方をしている。


坂を下りた。住宅街に入った。一本裏の道。大通りの交差点を通らないルート。


大丈夫だ。たぶん大丈夫だと思う。今日は——あの嫌な感じがない。昨日の朝からずっと胸の底にわだかまっていた、あの理由のない胸騒ぎが、今日はない。空気がちゃんと吸える。景色がちゃんと見える。


大丈夫だ。今日は、大丈夫だ。


——自分に言い聞かせていた。何度も。何度も。


それでも角を曲がるたびに、ほのかの姿が一瞬消えるたびに、足が速くなった。次の角から出てこなかったらどうする。悲鳴が聞こえたらどうする。タイヤの音が——。


角を曲がった。ほのかがいた。笑っていた。大丈夫だった。


次の角を曲がった。いた。大丈夫だった。


その繰り返しだった。ずっと。


村田ともう一人が、途中の分かれ道で手を振って別れた。ほのかが一人になった。心臓が跳ねた。距離を詰めた。三十メートル。二十メートル。


ほのかが自分の家の前で立ち止まった。鞄からカギを出して、ドアを開けて、中に入った。


ドアが閉まった。


しばらく立っていた。ほのかの家の前に、知らない人間みたいに立っていた。——知らない人間なのだ。今の俺は、ほのかにとって。


何も起きなかった。


ほのかは無事に家に帰った。車にも撥ねられなかった。救急車も来なかった。母のスマホも鳴らない。


助けられた。


ドアが閉まったのを見届けてから、踵を返した。帰り道を歩いた。一人で。いつもほのかがいた隣に、誰もいなかった。


---


家に帰った。


自分の部屋に入って、床に座った。


スマホを開いた。メモアプリ。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』


三行目に指を置いた。キーボードが出た。打った。一文字ずつ。何度も打ち間違えた。


『藤崎ほのか(消えた)』


三行になった。


一行目の「使うな」が、嘘みたいに白々しかった。


スマホを伏せた。天井を見た。


文化祭が迫っている。黒瀬の予感。体育館に入ると胸が痛む。手が震える。俺にも、あの胸騒ぎがある。まだ起きていない何かの気配が、身体の奥で鳴っている。


何かが起きたとき、また使うのか。四行目が必要になるのか。


メモアプリの三行が、伏せたスマホの向こう側で光っている気がした。


そして四行目の空白が——静かに待っている気がした。


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