予感
朝、角に立った。
いつもの角。ほのかの家から出てくる道と、俺の家から来る道がぶつかるT字路。ブロック塀の上にプランターが並んでいて、誰かが植えたパンジーがまだ咲いている。
スマホを見た。メモアプリ。二行。
『使うな』
『白鳥玲奈(消えた)』
三行目は、まだ空白だった。
ポケットにしまった。ボタンには触らなかった。触らないと決めていた。
「相沢」
顔を上げた。ほのかが歩いてくる。紺のスカートが朝の光で少しだけ白んで見える。髪を耳にかける仕草。いつもの仕草。
「おはよ」
「……おはよう」
声が出た。普通に出た。それだけで少し安心した。
なのに、息が浅い。
胸の奥に薄い膜が張っているみたいで、深く吸えない。
天気はいい。ほのかはいつも通り笑っている。
それでも、耳の奥がずっと小さく鳴っていた。
「寝不足?」
「いや。ちょっと考えごと」
「またか」
ほのかが笑った。口の右側だけ先に上がる、あの笑い方。
「今日さ、放課後、体育館の手伝い頼まれてんだよね。段ボール運ぶだけだけど」
「体育館?」
「うん。ステージの飾りつけ。人足りないんだって」
「……俺も行く」
「え、珍しい。相沢が自分から」
珍しくていい。今日は、行く。
並んで歩き出した。ほのかの影が俺の影と重なったり離れたりした。いつもの通学路。いつもの距離。なのに今日は、ほのかの歩く速度がほんの少しだけ速く見えた。置いていかれるような——いや、違う。そんなはずはない。同じ速度だ。
気のせいだ。
---
一限前に、廊下で結城とすれ違った。結城は俺の顔を見て、一瞬だけ足を止めた。
「顔色、悪い」
「そう?」
「昨日より悪い」
結城はそれだけ言って、自分の教室に向かった。振り返らなかった。でも歩きながら、小さく付け加えた。
「はさみ、まだ出してあるから」
俺は何も返せなかった。
---
午前中、妙なことがあった。
二限目の英語。出席確認で、担任が名簿を読み上げていた。
「——相沢」
返事をした。「はい」と。
担任が一瞬、顔を上げた。俺の方を見て——それから、何事もなかったように次の名前を読んだ。
気のせいだと思った。
四限目の移動教室で、颯太が言った。
「なあ恒一、お前さっき化学室にいたっけ?」
「いたけど」
「いや、なんか——」
颯太は首を傾げて、やめた。「なんでもない」と笑った。
昼休みに結城とすれ違ったとき、結城は俺の顔ではなく制服のある場所を見ていた。ボタンのある位置を。何も言わなかった。
五限目。窓際の席でノートを開いていたら、鳩が窓枠にぶつかった。硝子がびりびりと鳴って、教室がざわついた。鳩は飛び去った。何でもないことだった。何でもないことなのに、心臓が跳ねた。落ち着くまでに、三十秒かかった。
---
放課後、体育館に入った。
中はもう文化祭前夜の空気だった。脚立が何本も立っていて、養生テープの切れ端が床に散らばっている。ステージの上では垂れ幕を吊る作業が進んでいた。
でかい。思っていたよりずっとでかかった。横幅が六メートルはある。上辺に重い横棒が通してあって、それをステージ上部のパイプに吊っている。吊りループと呼ばれる布の輪が等間隔に並んでいた。
大きな声が指示を出している男がいる。たしか舞台担当の二年。黒い長袖を腕まくりして、声がよく通る。
結城が俺の隣に来た。視線がステージの上を向いていた。吊りループのひとつ——布の付け根が白く毛羽立っている。
「……あれ、縫い直した方がいい」
結城の声は小さかった。俺にだけ聞こえる音量だった。
「結城さん」
舞台担当の男の声が飛んできた。ステージの端から、こちらを見ている。
「ごめん。えーっと、黒瀬くん。」
「触らないで。下手にいじるとほどける。全部」
結城は口を閉じた。そうだ黒瀬だ。黒瀬は俺を見た。目が合った。一瞬だけ。それから黒瀬は視線を外した。
---
体育館の隅で段ボールを積んでいると、ほのかが来た。
ジャージ姿で、手にガムテープを持っている。「ここ開けていい?」と段ボールのひとつを指差した。
ほのかがステージの方に歩き出した。
「ほのか、そっち行くな」
ほのかが振り返った。
「……なんで?」
「上で作業してるから」
「大丈夫だって。通り過ぎるだけだし」
「それでも——」
「相沢、変だよ。朝から変」
笑っていた。でも目が笑っていなかった。
「何を心配してんの」
答えられなかった。
ほのかは肩をすくめて、ステージ前の通路を横切った。
そのときだった。
上で音がした。金属が擦れる音。吊りループのひとつが——横棒の重みに引っ張られて——布が裂けるような音を立てた。
横棒が傾いた。垂れ幕が揺れた。重い横棒が斜めにずれて、ステージの端からせり出すように——。
体が動いていた。
考える前に走っていた。足が地面を蹴った。距離が遠かった。ほのかの背中が見えた。ほのかは上を見ていなかった。ガムテープを持ったまま歩いていた。
横棒の影が床に広がっていくのが見えた。
重い。
──あれが落ちたら、骨じゃ済まない。
頭の中に、まだ空白の三行目が浮かんだ。
『藤崎ほのか(消えた)』
まだ打ってないのに、文字だけが先に見えた。
声が出なかった。喉が固まっていた。
だから走った。
声が出なかった。喉が固まっていた。叫ぼうとしたのに音にならなかった。だから走った。ただ走った。腕を伸ばした。指先がほのかの肩に触れた。掴んだ。引いた。
垂れ幕は——落ちなかった。
隣のループが持ちこたえた。横棒は斜めに傾いたまま、ぎりぎりで止まった。布がだらんと垂れ下がって、ステージの端にかかっていた。
止まった。
止まっていた。
黒瀬が走ってきた。「離れろ!」と怒鳴った。脚立を持ってくる生徒がいた。横棒を支える人間が二人、三人と集まった。
ほのかは俺に肩を掴まれたまま、きょとんとしていた。
「……相沢」
「——怪我は」
「してないよ。なに? 平気だよ」
ほのかは俺の手を肩から外した。ステージの方を見て、傾いた垂れ幕を見て、それから俺を見た。
「落ちてないじゃん。止まってるじゃん」
笑った。口の右側が先に上がる笑い方で。
「大げさすぎ」
一蹴された。完全に。
ほのかにとっては、ちょっとステージの飾りが傾いて、それを同級生が過剰に心配した、それだけの話だった。
周りの空気もすぐに戻った。黒瀬が横棒を直して、作業が再開された。颯太が「恒一、ビビりすぎだろ」と笑った。
何も起きなかった。
何も起きなかったのに、手がまだ震えていた。膝の裏が冷たかった。心臓が耳の奥で鳴っていた。
「……ちょっと、気分悪い。先に帰る」
「え?」
「悪い。先帰るわ」
ほのかが心配そうな顔をした。ついてこようとした。
「いい。一人で大丈夫。ほのかは手伝い続けてて」
「でも——」
「大丈夫だから」
強く言いすぎた。ほのかの表情が一瞬固まった。でもすぐにいつもの顔に戻った。
「……分かった。気をつけてね」
体育館の出口に向かった。扉に手をかけたとき、背中に視線を感じた。振り返った。黒瀬がステージの上からこちらを見ていた。俺を——いや、俺のある場所を。何か言いたそうな顔だった。でも何も言わなかった。
振り返る余裕はなかった。そのまま出た。
廊下は静かだった。昇降口で靴を履き替える指が、まだ震えていた。
---
家に帰った。
部屋に入って、制服のまま床に座り込んだ。
呼吸が整うまで、ただ座っていた。
水を飲んだ。喉を通っていく感触だけがはっきりしていた。
風呂に入った。髪を乾かした。手がようやく止まった。
スマホを開く。
メモは二行のままだった。
それだけで、画面を伏せた。
電話が鳴った。
母のスマホだった。台所で鳴っていた。母が出た。「はい」と言った。
それから黙った。
長い沈黙だった。
階段の上から見ていた。母の背中が見えた。受話器を耳に押し当てたまま、動かなくなっていた。
「……うん。うん。——分かった。今すぐ行く」
母が電話を切った。振り返った。
俺を見た。
母の顔が、見たことのない色をしていた。血の気が引いているのに、目だけがはっきりしている。何かを伝えなければならないのに、言葉の順番が分からなくなっている人間の顔だった。
「恒一」
「……なに」
「ほのかちゃんが——」
母の声が、途切れた。
「事故だって。帰り道に——車に。さっき救急車で運ばれて——」
帰り道。
ほのかの帰り道。
俺が先に帰った。「手伝い続けてて」と言った。ほのかはあの後も体育館にいて、手伝いを終えて、一人で歩いて帰って——。
いつもは一緒に帰る道を、今日は、一人で歩いた。
俺がいなかった道を。
「意識が戻らないって」
母が言った。
「——危篤だって」
台所の蛍光灯が白かった。換気扇が回っていた。テレビではニュースが続いていた。全部がそのままだった。何も変わっていなかった。
さっきまで普通の夜だった。風呂に入って、髪を乾かして、メモアプリを開いて。何も起きなかった夜だった。
体育館では何も起きなかった。垂れ幕は落ちなかった。ほのかは笑っていた。「平気だよ」と。「大げさすぎ」と。
俺が先に帰した。
俺が。
手が動いた。
考えていなかった。何ひとつ考えていなかった。
結城の声が聞こえていた。怖いと思ったら言って。はさみはまだ出してある。ブリキ箱の一行が聞こえていた。ほどけた縁は、戻っても縫い直せない。使うなと自分で打った。全部聞こえていた。全部分かっていた。
分かっていて、指がボタンを掴んでいた。
結び目に爪が食い込んだ。結城が縫った糸。丁寧に、きっちり、ほどけないように縫われた糸。
ごめん。
引きちぎった。




