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6/15

翌日の放課後の家庭科室は、いつもより静かだった。


文化祭準備で校舎中が浮き足立っているのに、ここだけ時間が淀んでいる。ミシンのカバーが被さったまま並んで、窓から差す西日が埃の粒を金色に浮かべていた。


結城紬は、俺より先にいた。


作業机の上に布巾を敷いて、その上にあの箱を置いている。古い替えボタン箱。木の蓋にうっすら焼き印が残っていて、金具は錆びかけている。前に一度、棚の奥から引っ張り出して中を覗いたとき、俺の制服についているのと同じ形の第2ボタンがいくつか転がっていた。それだけだと思っていた。


「座って」


結城が言った。表情はいつも通り読めない。ただ、箱の横に縫い針と糸切りばさみを並べてあるのが妙に気になった。


「……なんで道具出してんの」


「底が二重になってた」


俺は黙って座った。


結城が蓋を開けた。中には見覚えのあるボタンが五つ、六つ。どれも同じ——丸みのある、やや厚めの樹脂製。俺の第2ボタンと寸分違わない。


「前は気づかなかった。でも昨日、体育館から戻ってきてからもう一回触って——底板が動いた」


結城の細い指が箱の内側をなぞった。底板の端に爪を差し込んで、持ち上げる。


板が外れた。


その下に、もう一層。


ブリキの小箱が嵌まっていた。手のひらに収まるくらいの——元は銀色だったはずの、くすんだブリキ箱。蓋に何か刻んである。手彫り。線が細くて読みにくい。


結城が箱を光に傾けた。俺も顔を寄せた。


一行だった。


「ほどけた縁は、戻っても縫い直せない」


声に出した瞬間、指の腹にあの硬さが蘇った。あの糸は、ほどけないように縫われていた。——ほどけたら、戻れないように。


結城が俺を見た。何も言わない。ただ、まばたきが一回だけ遅れた。


蓋を開けた。


中に入っていたのは、ボタンではなかった。


折り畳まれた紙が一枚。古い、罫線入りのルーズリーフ。端が黄ばんでいて、折り目に沿って繊維がほつれかけている。


その他には、小さな金色の針と糸。


折り畳まれた紙を、結城がゆっくり広げた。


丸みのある筆跡だった。几帳面だけど、ところどころ筆圧が崩れている。書いた人間の手が、途中から震えていた。


——第2ボタンを引きちぎると、朝7:15に戻る。


——ボタンは元の位置に縫い戻されている。糸の色が毎回わずかに変わる。


——記憶を持ち越せるのは、自分だけ。


——やり直したいと思った相手の記憶が消える。翌日にはまた消える。何度会っても。名前を覚えてくれても。定着しない。


——感情だけが残る。理由のない痛み。理由のない安心。本人はそれを「気のせい」だと思う。


——血縁には効きにくい。


読み終わるまで、息をしていなかった。


全部書いてある。俺が二回のループと何日もかけて、ようやく——ようやく——確かめたことが、一枚の紙に、最初から。


「……誰が書いたんだ」


結城は首を振った。「この箱、私が入学したときからあった。棚の一番奥の、誰も開けない場所」


紙の下半分に、続きがあった。


——消えた相手との関係は、作り直せない。


——使えば使うほど、自分の輪郭が周りから薄くなっていく。


——それでも手を伸ばす日が来る。


最後の行だけ、インクの濃さが違った。同じペンだけれど、書いた時期がずれている。震えた字で——いや、震えたというより、何かを書きかけて止めたような、不自然な途切れ方だった。


——わたしは


それだけだった。「わたしは」の後に、何も続いていない。書こうとして、やめたのか。書けなかったのか。


紙の端に、消しゴムで擦った痕があった。何か別の一文があったらしい。跡だけが残って、読めない。


俺と結城は、しばらく何も言えなかった。


---


結城が先に動いた。


ブリキ箱を布巾の上に戻して、紙を元通り折り畳む。その手つきがいつもと変わらないのが、逆にこわかった。


「相沢くん」


「……なに」


「ボタン、外そう」


一瞬、意味が分からなかった。


「この箱に同じボタンがある。普通のに付け替える。今すぐ」


結城は糸切りばさみを手に取った。刃が西日を弾いた。


「ついてる限り、また引きちぎれる。引きちぎれる限り、いつか使う。人間はそういうふうにできてる」


正しい。正論だ。分かってる。


「——いや、大丈夫」


「大丈夫って何が」


「分かんない。でも……外すのは、まだ」


結城の目が細くなった。怒っているんじゃない。もっと冷たい、観察するような目だった。


「あのメモ、自分で書いたんでしょう。『使うな』って」


「……うん」


「あの紙にも書いてあった。使うほど消えていくって。全部読んで、全部分かった上で、まだ持ってるの」


「持ってる」


自分で言って驚いた。声が思ったより硬かった。


結城は黙った。はさみを持ったまま、俺のブレザーの前合わせ——第2ボタンの位置を見ていた。


「じゃあ聞くけど」


声が低くなった。


「次に誰が消えてもいいって思ってる?」


息が止まった。


思ってない。そんなこと思ってない。でも——持っているということは、使う可能性を残しているということで、使うということは、誰かが消えるということで。


「……思ってない」


「だったら外して」


「外せない」


「なんで」


「分かんないって言ってるだろ」


声が大きくなった。家庭科室の空気が震えた。ミシンのカバーの裾が揺れた気がした。


結城は動かなかった。


数秒。十秒。もっとかもしれない。


結城の指から、ゆっくり力が抜けた。はさみが布巾の上に置かれた。金属が布を叩く小さな音がした。


結城は俺を見ていた。怒りでも呆れでもない、もっと手前にある顔だった。言いたいことが関を越えられなくて、喉の奥で渋滞しているみたいな顔。


「……無理に外したりはしない」


静かな声だった。


「でも、怖いって言って。——そのときは、私が“ほどく”から」


はさみを布巾の上に残したまま、結城は棚の整理に戻った。


残した。片付けなかった。


いつでも切れるように、という意味だと思った。


---


家庭科室を出たのは五時を過ぎていた。


廊下を歩いていると、昇降口の手前で声がした。


「相沢」


ほのかだった。


体操着にジャージを羽織って、髪をひとつに結んでいる。体育館の設営を手伝っていたらしく、額にうっすら汗が残っていた。


「まだいたの。結城さんと?」


「……うん。ちょっと」


「ふうん」


ほのかは俺の顔を見た。じっと見た。何かを読み取ろうとするみたいに見て、それから、何も言わずに靴箱に手を伸ばした。


「相沢さ」


「ん」


「最近、遠い」


そう言って、ほのかが前髪を指で払った。


足が止まった。


「遠いって」


「分かんない。前は何も考えなくても隣にいられたのに。最近は、隣にいるのに頭がどっか行ってる」


否定できなかった。否定する言葉が、どこにもなかった。


ほのかは靴を履き替えながら、独り言みたいに言った。


「別にいいんだけどね。相沢は昔からそうだし。考えごとがあると黙る。私はそれ知ってるから」


知っている。


ほのかはそれを知っている。俺の癖も、沈黙の種類も、嘘をつくときに目が泳ぐことも。十何年分の時間をかけて、全部——全部、知っている。


その十何年が、一晩で消える。


胸の奥が、握り潰されるみたいに痛んだ。


白鳥先輩のことを思い出した。体育館で、結城の名前は呼べるのに俺の顔だけが分からなかった先輩。「何年生?」と毎日聞いてくる先輩。あの目。知らない人間を見るときの、あの丁寧で他人行儀な目。


あれが、ほのかの目になる。


「帰ろ。いつも通りね」


ほのかが先に歩き出した。


いつも通り。その言葉がこんなに重いと思ったことは、今まで一度もなかった。


---


帰り道、ほのかは夕焼けの話をした。明日の天気の話をした。文化祭のシフトの話をした。俺は相槌を打った。笑った。たぶん笑えていたと思う。


ほのかが自分の家の角で手を振った。「じゃあね」と言った。いつもと同じ声で、いつもと同じ角度で。


その背中が曲がり角に消えるまで見ていた。


消えてから、ボタンに手を当てた。


ボタンはそこにある。縫い付けられたまま。指先に触れる丸い輪郭。結び目の小さな凹凸。あれは結城が縫った糸だ。結城が選んだ針と、結城が測った長さの糸で、俺の制服に縫い付けた。


引っ張るなと言われた。ほどけたら持ってこいと言われた。


ブリキ箱の一行が、頭の中で鳴っていた。


「ほどけた縁は、戻っても縫い直せない」


手を離した。


家に着いた。自分の部屋に入って、スマホを開いた。


メモアプリ。二行だけの画面。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』


三行目は空白だった。


あの紙を書いた人間は、何行まで書いたんだろう。何人の名前を並べて、最後に「わたしは」と書いて——止めたんだろう。


スマホを伏せた。天井を見た。


学校はそわそわし始めている。廊下にペンキの匂いが残ってた。放課後の時間が足りないと誰かがぼやいてた。季節が動いている。もうすぐ何かが来る。ただ——それだけのはずなのに、胸の底が落ち着かなかった。


三行目の空白が、暗い画面の中でぼんやり光っていた。


名前を打ち込む必要は、まだない。


まだないはずだ。


——でも、次に消える名前を、俺はもう知っていた。


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