封
翌日の放課後の家庭科室は、いつもより静かだった。
文化祭準備で校舎中が浮き足立っているのに、ここだけ時間が淀んでいる。ミシンのカバーが被さったまま並んで、窓から差す西日が埃の粒を金色に浮かべていた。
結城紬は、俺より先にいた。
作業机の上に布巾を敷いて、その上にあの箱を置いている。古い替えボタン箱。木の蓋にうっすら焼き印が残っていて、金具は錆びかけている。前に一度、棚の奥から引っ張り出して中を覗いたとき、俺の制服についているのと同じ形の第2ボタンがいくつか転がっていた。それだけだと思っていた。
「座って」
結城が言った。表情はいつも通り読めない。ただ、箱の横に縫い針と糸切りばさみを並べてあるのが妙に気になった。
「……なんで道具出してんの」
「底が二重になってた」
俺は黙って座った。
結城が蓋を開けた。中には見覚えのあるボタンが五つ、六つ。どれも同じ——丸みのある、やや厚めの樹脂製。俺の第2ボタンと寸分違わない。
「前は気づかなかった。でも昨日、体育館から戻ってきてからもう一回触って——底板が動いた」
結城の細い指が箱の内側をなぞった。底板の端に爪を差し込んで、持ち上げる。
板が外れた。
その下に、もう一層。
ブリキの小箱が嵌まっていた。手のひらに収まるくらいの——元は銀色だったはずの、くすんだブリキ箱。蓋に何か刻んである。手彫り。線が細くて読みにくい。
結城が箱を光に傾けた。俺も顔を寄せた。
一行だった。
「ほどけた縁は、戻っても縫い直せない」
声に出した瞬間、指の腹にあの硬さが蘇った。あの糸は、ほどけないように縫われていた。——ほどけたら、戻れないように。
結城が俺を見た。何も言わない。ただ、まばたきが一回だけ遅れた。
蓋を開けた。
中に入っていたのは、ボタンではなかった。
折り畳まれた紙が一枚。古い、罫線入りのルーズリーフ。端が黄ばんでいて、折り目に沿って繊維がほつれかけている。
その他には、小さな金色の針と糸。
折り畳まれた紙を、結城がゆっくり広げた。
丸みのある筆跡だった。几帳面だけど、ところどころ筆圧が崩れている。書いた人間の手が、途中から震えていた。
——第2ボタンを引きちぎると、朝7:15に戻る。
——ボタンは元の位置に縫い戻されている。糸の色が毎回わずかに変わる。
——記憶を持ち越せるのは、自分だけ。
——やり直したいと思った相手の記憶が消える。翌日にはまた消える。何度会っても。名前を覚えてくれても。定着しない。
——感情だけが残る。理由のない痛み。理由のない安心。本人はそれを「気のせい」だと思う。
——血縁には効きにくい。
読み終わるまで、息をしていなかった。
全部書いてある。俺が二回のループと何日もかけて、ようやく——ようやく——確かめたことが、一枚の紙に、最初から。
「……誰が書いたんだ」
結城は首を振った。「この箱、私が入学したときからあった。棚の一番奥の、誰も開けない場所」
紙の下半分に、続きがあった。
——消えた相手との関係は、作り直せない。
——使えば使うほど、自分の輪郭が周りから薄くなっていく。
——それでも手を伸ばす日が来る。
最後の行だけ、インクの濃さが違った。同じペンだけれど、書いた時期がずれている。震えた字で——いや、震えたというより、何かを書きかけて止めたような、不自然な途切れ方だった。
——わたしは
それだけだった。「わたしは」の後に、何も続いていない。書こうとして、やめたのか。書けなかったのか。
紙の端に、消しゴムで擦った痕があった。何か別の一文があったらしい。跡だけが残って、読めない。
俺と結城は、しばらく何も言えなかった。
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結城が先に動いた。
ブリキ箱を布巾の上に戻して、紙を元通り折り畳む。その手つきがいつもと変わらないのが、逆にこわかった。
「相沢くん」
「……なに」
「ボタン、外そう」
一瞬、意味が分からなかった。
「この箱に同じボタンがある。普通のに付け替える。今すぐ」
結城は糸切りばさみを手に取った。刃が西日を弾いた。
「ついてる限り、また引きちぎれる。引きちぎれる限り、いつか使う。人間はそういうふうにできてる」
正しい。正論だ。分かってる。
「——いや、大丈夫」
「大丈夫って何が」
「分かんない。でも……外すのは、まだ」
結城の目が細くなった。怒っているんじゃない。もっと冷たい、観察するような目だった。
「あのメモ、自分で書いたんでしょう。『使うな』って」
「……うん」
「あの紙にも書いてあった。使うほど消えていくって。全部読んで、全部分かった上で、まだ持ってるの」
「持ってる」
自分で言って驚いた。声が思ったより硬かった。
結城は黙った。はさみを持ったまま、俺のブレザーの前合わせ——第2ボタンの位置を見ていた。
「じゃあ聞くけど」
声が低くなった。
「次に誰が消えてもいいって思ってる?」
息が止まった。
思ってない。そんなこと思ってない。でも——持っているということは、使う可能性を残しているということで、使うということは、誰かが消えるということで。
「……思ってない」
「だったら外して」
「外せない」
「なんで」
「分かんないって言ってるだろ」
声が大きくなった。家庭科室の空気が震えた。ミシンのカバーの裾が揺れた気がした。
結城は動かなかった。
数秒。十秒。もっとかもしれない。
結城の指から、ゆっくり力が抜けた。はさみが布巾の上に置かれた。金属が布を叩く小さな音がした。
結城は俺を見ていた。怒りでも呆れでもない、もっと手前にある顔だった。言いたいことが関を越えられなくて、喉の奥で渋滞しているみたいな顔。
「……無理に外したりはしない」
静かな声だった。
「でも、怖いって言って。——そのときは、私が“ほどく”から」
はさみを布巾の上に残したまま、結城は棚の整理に戻った。
残した。片付けなかった。
いつでも切れるように、という意味だと思った。
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家庭科室を出たのは五時を過ぎていた。
廊下を歩いていると、昇降口の手前で声がした。
「相沢」
ほのかだった。
体操着にジャージを羽織って、髪をひとつに結んでいる。体育館の設営を手伝っていたらしく、額にうっすら汗が残っていた。
「まだいたの。結城さんと?」
「……うん。ちょっと」
「ふうん」
ほのかは俺の顔を見た。じっと見た。何かを読み取ろうとするみたいに見て、それから、何も言わずに靴箱に手を伸ばした。
「相沢さ」
「ん」
「最近、遠い」
そう言って、ほのかが前髪を指で払った。
足が止まった。
「遠いって」
「分かんない。前は何も考えなくても隣にいられたのに。最近は、隣にいるのに頭がどっか行ってる」
否定できなかった。否定する言葉が、どこにもなかった。
ほのかは靴を履き替えながら、独り言みたいに言った。
「別にいいんだけどね。相沢は昔からそうだし。考えごとがあると黙る。私はそれ知ってるから」
知っている。
ほのかはそれを知っている。俺の癖も、沈黙の種類も、嘘をつくときに目が泳ぐことも。十何年分の時間をかけて、全部——全部、知っている。
その十何年が、一晩で消える。
胸の奥が、握り潰されるみたいに痛んだ。
白鳥先輩のことを思い出した。体育館で、結城の名前は呼べるのに俺の顔だけが分からなかった先輩。「何年生?」と毎日聞いてくる先輩。あの目。知らない人間を見るときの、あの丁寧で他人行儀な目。
あれが、ほのかの目になる。
「帰ろ。いつも通りね」
ほのかが先に歩き出した。
いつも通り。その言葉がこんなに重いと思ったことは、今まで一度もなかった。
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帰り道、ほのかは夕焼けの話をした。明日の天気の話をした。文化祭のシフトの話をした。俺は相槌を打った。笑った。たぶん笑えていたと思う。
ほのかが自分の家の角で手を振った。「じゃあね」と言った。いつもと同じ声で、いつもと同じ角度で。
その背中が曲がり角に消えるまで見ていた。
消えてから、ボタンに手を当てた。
ボタンはそこにある。縫い付けられたまま。指先に触れる丸い輪郭。結び目の小さな凹凸。あれは結城が縫った糸だ。結城が選んだ針と、結城が測った長さの糸で、俺の制服に縫い付けた。
引っ張るなと言われた。ほどけたら持ってこいと言われた。
ブリキ箱の一行が、頭の中で鳴っていた。
「ほどけた縁は、戻っても縫い直せない」
手を離した。
家に着いた。自分の部屋に入って、スマホを開いた。
メモアプリ。二行だけの画面。
『使うな』
『白鳥玲奈(消えた)』
三行目は空白だった。
あの紙を書いた人間は、何行まで書いたんだろう。何人の名前を並べて、最後に「わたしは」と書いて——止めたんだろう。
スマホを伏せた。天井を見た。
学校はそわそわし始めている。廊下にペンキの匂いが残ってた。放課後の時間が足りないと誰かがぼやいてた。季節が動いている。もうすぐ何かが来る。ただ——それだけのはずなのに、胸の底が落ち着かなかった。
三行目の空白が、暗い画面の中でぼんやり光っていた。
名前を打ち込む必要は、まだない。
まだないはずだ。
——でも、次に消える名前を、俺はもう知っていた。




