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永久に

角を曲がると、ほのかが立っていた。


電柱に寄りかかって、スマホをいじっている。いつもの場所。いつもの姿勢。前髪が目にかかっている。俺の足音が聞こえたのか、顔を上げた。


「おはよ」


「おはよ。——今日は五秒早い」


「計ってんのかよ」


「体感」


歩き出した。並んで歩く。いつもの距離。いつもの歩幅。


ポケットの中でスマホの画面が光った。メモアプリ。昨日の夜に打った画面がそのまま残っている。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』


二行。この下に名前が増えないように。そのために、使わないと決めた。


「ねえ、今日の放課後ちょっと手伝える?」


ほのかの声で画面から目を上げた。


「体育館の装飾、人手足りないんだって。段ボール運ぶだけでいいから」


「……ああ、いいよ」


「ありがと。じゃあ放課後ね」


軽い。何も重くない。いつもの頼み方。いつもの距離。


胸が冷えた。


この子と一緒にいる時間が増える。一緒にいる時間が増えるほど、この子が俺の中で大きくなる。大きくなるほど——


指がボタンに行きかけた。止めた。ポケットに戻した。


「相沢、また触ってた? ボタン」


「……触ってない」


「嘘。まあいいけど」


ほのかが前を向いた。校門が見えてきた。


いつも通りの朝だ。いつも通りが、こんなに怖いことは今までなかった。


---


放課後。体育館。


文化祭まであと数日に迫って、体育館は準備で慌ただしかった。ステージ上の装飾、音響機材の配置、照明の角度調整。複数のグループが同時に動いていて、声と足音と工具の音が反響している。


俺はほのかに頼まれた段ボールを運んでいた。ステージ脇の資材置き場と、体育館の入口を往復する単純作業。体を動かしているほうが楽だった。頭が静かになる。


三往復目のとき、結城がステージに上がってきた。衣装の布を抱えている。垂れ幕の下を通りながら、吊りループをちらっと見上げた。ほつれを確認する目。


「結城、手伝おうか」


「大丈夫。——あ、でも、あとでステージ袖のフックに布かけるの手伝って」


「分かった」


そのとき、体育館の入口から声がした。


「すみません、ステージ使えますか? 軽音のリハの下見だけなんですけど」


心臓が止まった。


振り向かなくても分かった。声で分かった。低くて、少しだけ掠れた声。何度も聞いた声。好きだった声。


白鳥先輩がギターケースを背負って、体育館の入口に立っていた。


実行委員の一人が「ステージ半分なら空いてますよ」と答えて、先輩が中に入ってきた。ポニーテールが揺れる。歩幅が広い。ギターケースの金具が体育館の照明を反射する。


見ないようにした。見たくなかった。でも目が追ってしまう。好きだった人の姿を、体が勝手に追ってしまう。


先輩がステージに上がった。機材の配置を確認しながら、アンプの位置を見ている。一人では動かせないサイズのアンプが二台、ステージの奥に置かれていた。


「これ、もう少し前に出したいんだけど——誰か手伝ってもらえますか?」


先輩が周囲を見回した。実行委員は自分の作業で手が離せない。近くにいたのは——俺と、結城だけだった。


逃げられない。


先輩の目が結城を見た。


「あ、結城さん。お疲れさま」


名前を呼んだ。迷いなく。結城のことは知っている。覚えている。衣装の縫製を手伝っている結城のことを、先輩はちゃんと覚えている。


「これ、ちょっと持ってもらっていい?」


「はい」


結城が布を置いて、アンプの片側を持った。先輩が反対側を持つ。それから先輩が俺を見た。


目が合った。


何もなかった。


先輩の目が俺の顔を通過していく。引っかからない。止まらない。知らない人間を見る、あの目。体育館にたまたまいた名前のない生徒を見る目。


「ごめん——えっと、君も持ってくれる?」


君。


名前じゃなく、「君」。


「……はい」


声が掠れた。アンプの背面に回って支えた。三人で、アンプを一メートルほど前に出した。手が震えないようにするのが精一杯だった。


「ありがとう」


先輩が笑った。結城に向かって笑った。それから俺に向かって——同じ笑顔を向けた。でも、同じじゃなかった。結城に向ける笑顔には「知ってる人」の柔らかさがあった。俺に向ける笑顔は、礼儀だった。


「結城さん、いつもありがとう。衣装の準備、大変でしょ」


「いえ、好きでやってるので」


先輩と結城が言葉を交わしている。普通の会話。名前を呼び合って、昨日の続きみたいに話している。


俺は三歩離れた場所に立っていた。


「——あ、ごめん」


先輩が俺を見た。


「名前、聞いてなかった。何年生?」


隣で結城の手が止まった。


「……二年です。相沢です」


「相沢くん。ありがとう、助かった」


先輩が笑った。初めて会った人に向ける笑顔。丁寧で、距離があって、何の蓄積もない笑顔。


一メートル先で結城が俺を見ていた。俺は結城を見なかった。見たら、何かが崩れる。


もう一台のアンプも動かした。先輩はステージの配置をスマホで撮影していた。


「あと、ここにマイクスタンド置くんだけど——相沢くん、だっけ。ここ立ってみてくれる? 身長の目安にしたくて」


名前を覚えてくれた。さっき教えたばかりの名前を。「だっけ」が付いているけど、覚えてくれた。——今は。


「はい」


指定された場所に立った。先輩がスマホで角度を確認する。


「ちょうどいい。ありがとう」


先輩がスマホをしまって、結城に聞いた。


「ここの照明って変えられるか分かる?」


「実行委員に聞いたほうがいいと思います」


「だよね。聞いてくる。——明日もリハの下見するから、またお願いするかも。二人ともありがとう」


先輩がステージを降りて、実行委員のほうに歩いていった。


二人とも、と先輩は言った。俺と結城の二人。明日もお願いするかも、と言った。明日。明日もここで会える。名前を覚えてくれた。「相沢くん」と呼んでくれた。


——明日。


胸の奥で何かが軋んだ。希望じゃなかった。希望に似た形をした恐怖だった。


結城が俺の横に来た。何も言わなかった。何も言わなくても分かっていた。


明日になれば分かる。


---


翌日。放課後。体育館。


先輩が来た。昨日と同じ時間に、同じギターケースを背負って。


ステージに上がった先輩は、まっすぐ結城のほうに歩いていった。結城は垂れ幕の横で布を縫っていた。


「結城さん、お疲れさま。昨日はありがとう。アンプ、あの位置でばっちりだった」


昨日はありがとう。


覚えている。結城のことは覚えている。アンプを一緒に運んだこと。照明のことを聞いたこと。「明日もお願いするかも」と言ったこと。結城との昨日は、全部残っている。


先輩が振り向いた。俺が視界に入った。


目が合った。


先輩の目が——止まらなかった。


通過した。一瞬だけ焦点が合って、すぐに外れた。知らない人間がそこにいる、というだけの視線。


「——えっと」


先輩が首を傾げたあと、胸元を押さえた。


「……なんか、胸が変。ごめん」


昨日と同じ角度だった。同じ困惑だった。同じ申し訳なさそうな目だった。


「ごめん、何年生?」


声が同じだった。抑揚が同じだった。「ごめん」の「ご」の高さが同じだった。昨日聞いた声と一ミリもずれていなかった。


分かっていた。分かっていたはずだった。昨日からずっと覚悟していた。こうなると思っていた。思っていたのに——


胸が潰れた。


結城が息を呑んだ音が聞こえた。小さな音だった。でも体育館の喧騒の中で、その音だけがはっきり聞こえた。


「……二年です。相沢です」


自分の声が遠かった。


「相沢くん。ごめんね——どこかで会ったっけ?」


昨日会った。このステージで。アンプを三人で運んだ。マイクスタンドの位置に立った。先輩は「ちょうどいい」と言った。「ありがとう」と言った。「相沢くん」と名前を呼んだ。「明日もお願いするかも」と笑った。


全部消えている。


結城には「昨日はありがとう」と言えるのに。


俺のことだけが、一晩で——


「……いえ。初めてです」


それしか言えなかった。


「そっか。よろしくね」


先輩が笑った。礼儀正しい笑顔だった。昨日と同じ笑顔。初めて会った人に向ける笑顔。毎回同じ。毎回初めて。毎回ゼロ。


先輩が結城のほうに向き直って、何か話し始めた。結城が応答している。でも結城の声が震えているのが分かった。先輩は気づいていない。


俺はステージの上に立っていた。立っているのに、ここにいない。先輩の世界に、俺はいない。


「……ちょっと」


声が出た。自分の声かどうか分からなかった。


「すみません——ちょっと外します」


誰に言ったのかも分からなかった。ステージを降りた。体育館の出口に向かった。足が速くなった。走りたかった。走ったら何かが壊れそうで、歩いた。歩いて、出口を抜けて、渡り廊下に出た。


壁に背中をぶつけた。


もたれた。ずるずると座り込みそうになって、踏みとどまった。


息を吸った。吐けなかった。吸った空気が喉の途中で固まって、出ていかなかった。目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。泣いてない。泣いてない。泣いてない——


泣いていた。


涙が一筋、頬を伝った。拭った。また出た。拭った。止まらなかった。


先輩が笑っていた。「結城さん、昨日はありがとう」と言って笑っていた。俺を見て「何年生?」と聞いて笑っていた。同じ口で、同じ笑顔で。片方には昨日の続きを渡して、片方にはゼロを渡した。先輩は悪くない。先輩は何も悪くない。忘れたくて忘れたんじゃない。器がないんだ。俺が入る器が、先輩の中からなくなっているんだ。


俺がちぎったから。


俺が引きちぎったから、こうなった。


渡り廊下の柱に額をつけた。冷たかった。涙が顎から落ちて、リノリウムに小さな染みを作った。


足音が近づいてきた。


結城だった。


渡り廊下に立って、俺を見ていた。結城の目が赤かった。俺だけじゃなかった。結城も泣いていた。泣いたあとの目をしていた。


結城は何も言わずに隣に来て、壁にもたれた。二人で渡り廊下の壁に背中を預けて、夕日が差し込む廊下を見ていた。


しばらく、何も言えなかった。


「……目の前で見た」


結城が先に口を開いた。声が掠れていた。


「結城さんはありがとうって言って——相沢くんには、何年生って聞いた。同じステージの上で。隣に立ってたのに」


「ああ」


「昨日、三人でアンプ運んだのに。先輩、相沢くんの名前を呼んだのに。——一晩で全部消えてた」


「ああ」


「……あなたの話、本当だった」


結城の声が震えた。信じたくなかった、という震え方だった。


「消えたのは思い出だけじゃない」


結城が壁に頭を預けて、天井を見上げた。


「記憶の居場所そのものがなくなってる。だから新しく入れても定着しない。——器がないの。あなたが入る場所が、先輩の中から消えてる」


「でも」


俺は言った。声が震えた。


「この前すれ違ったとき、先輩——胸に手をやった。覚えてないのに、何かを感じてた。名前も顔も知らないのに」


結城がうなずいた。目を擦った。


「それは——器の痕跡。器がなくなっても、器があった場所に傷が残ってる。それが痛む。理由が分からないまま」


結城が俺を見た。目が赤いまま、まっすぐ見ていた。


「それが——残響なんだと思う。記憶は消える。関係は積み上がらない。でも、感情の傷だけが残る」


残響。


記憶のない痛み。名前のない涙。理由の分からない胸騒ぎ。


先輩は俺を忘れる。何度会っても忘れる。でも、俺の痕跡だけが先輩の胸を刺し続ける。思い出せない痛みを、ずっと抱えて生きていく。


それは——俺が先輩に残したものの中で、いちばん残酷なものだった。


「作り直せないんだな」


「……作り直せない」


結城の声が小さかった。


「ごめん」


「結城が謝ることじゃない」


「でも——私が縫ったから」


「たまたまだろ。合ったから使っただけだって、自分で言ったじゃないか」


結城は何も言わなかった。壁に背中を預けたまま、自分の手を見ていた。ボタンを縫った手。糸を通した手。


「結城」


「なに」


「あの棚の奥の箱——」


「開ける」


結城が即答した。昨日までのためらいがなかった。声にためらいの欠片もなかった。


「これ以上、分からないまま放っておけない。——明日の朝、家庭科室に来て」


---


帰り道。


校門を出たところで、ほのかが待っていた。


「遅い。——今日は二分遅い」


「計ってんのかよ」


「体感」


歩き出した。並んで歩く。いつもの距離。いつもの歩幅。夕日が二人の影を長く引いている。


ほのかが何か話していた。文化祭の装飾が間に合わないとか、クラスの誰かが風邪をひいたとか。俺は相槌を打ちながら聞いていた。


聞きながら、頭の中では先輩の声がずっと鳴っていた。


「ごめん、何年生?」


同じ言葉。同じ声。同じ笑顔。結城のことは覚えていて、俺だけが消えている。毎日消える。毎日ゼロに戻る。永久に。


もし——ほのかがああなったら。


ほのかが俺の名前を忘れたら。十年一緒に歩いた道を忘れたら。角で待っていたことを忘れたら。「帰り、いつも通りね」が消えたら。隣に知らない男がいて、なぜか胸が痛くて、理由が分からなくて——


「相沢」


ほのかの声で我に返った。


「ボタン」


見下ろした。右手がブレザーの前にあった。第2ボタンの縫い目に指がかかっていた。


手を離した。指が震えていた。


「……すまん」


「なんで謝んの。——ねえ、ほんとに大丈夫?」


大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。今日、目の前で確認した。先輩の中から俺は消えていて、二度と戻らない。新しく作っても一晩で消える。俺はあの人にとって永久に他人で、でも胸だけが痛み続ける。


そんなこと、言えるわけがない。


「大丈夫。ちょっと考えごと」


「そう」


ほのかはそれ以上聞かなかった。ただ隣を歩いた。同じ速度で。同じ距離で。


家の近くの角まで来た。


「じゃあね」


「ああ」


ほのかが歩き出して、三歩で振り返った。


「明日も、いつも通りね」


「……ああ」


ほのかが角を曲がった。消えた。


いつも通り。


いつも通りが、いつまで続くか分からない。


家に入った。部屋に戻った。制服を脱いだ。ハンガーにかけた。第2ボタンが光っている。灰がかった糸。硬い縫い目。


スマホを開いた。メモアプリ。


『使うな』

『白鳥玲奈(消えた)』


二行。まだ二行。


この下に名前が増えたら——次に消えるのは、たぶん帰る場所だ。


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