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帰る場所

朝、スマホを開いた。メモアプリ。昨日の夜に打った一行が表示されている。


『使うな』


三文字。それだけ。あの夜はこれで十分だと思った。今朝見ると、三文字が薄く見える。自分に言い聞かせるために打ったはずなのに、もう効力が怪しい。


制服に袖を通した。ブレザーのボタンを上から留めていく。第1ボタン。第2ボタン。指が触れる。硬い。灰がかった糸。——触れただけだ。引っ張ってない。触れただけ。


階段を降りた。母が「おはよう」と言った。トーストが焼けている。テレビが天気予報を流している。曇りのち晴れ。普通の朝。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


玄関を出た。


家の前の道をまっすぐ行って、二つ目の角を曲がる。いつもの通学路。いつもの時間。


角を曲がったところで、声がした。


「おっそ」


藤崎ほのかが立っていた。


学校指定の鞄を肩にかけて、スマホをいじりながら電柱に寄りかかっている。前髪が少しだけ目にかかっていて、俺を見る目が半分隠れている。


「おはよ」


「おはよ。——三十秒遅い」


「計ってんのかよ」


「計ってない。体感」


ほのかが電柱から背中を離して、歩き出した。俺もその横に並んだ。いつもの距離。いつもの歩幅。


藤崎ほのか。幼なじみ。家が三軒隣で、小学校からずっと同じ通学路を歩いている。待ち合わせの約束をしたことはない。どちらかが先に角に着いて、どちらかが来るのを待つ。それだけのことが、もう何年も続いている。


——ここ三日は、続いていなかったけど。


「風邪、もう大丈夫なのか」


「大丈夫。熱は一昨日の夜に下がった。昨日一日寝てたら治った」


「無理すんなよ」


「しないよ。——つーか、相沢のほうが顔ひどくない?」


「は?」


「目の下。クマ。寝てないでしょ」


寝てない。正確には寝たけど、眠れなかった。目を閉じるたびに先輩の「……誰?」が再生されて、棚の奥の金属の光沢がちらついて、結城の「無意識が一番怖い」が回って、朝になった。


「……ちょっと寝不足」


「ちょっとじゃないでしょ、その顔」


ほのかが俺の顔を覗き込んだ。距離が近い。前髪の隙間から目が見える。少しだけ眉が下がっている。心配している顔だ。こういうとき、ほのかは言葉より先に目が動く。


「文化祭の準備で遅くなっただけ」


「ふーん」


信じていない声だった。でも追わなかった。


ほのかはいつもそうだ。壁を出したら、壁の手前で止まる。無理にこじ開けない。ただ横にいる。横にいて、同じ速度で歩く。


「私がいない間、何かあった?」


「別に。何も」


「ほんとに?」


「ほんとに」


嘘だ。ほのかが風邪で休んでいた三日間で、俺の世界はめちゃくちゃに変わった。告白して、失敗して、ボタンを引きちぎって、朝に戻って、先輩に忘れられて、結城にボタンの話をして、体育館の垂れ幕を見て——全部、ほのかがいない間に起きた。


ほのかがいたら、どうだったんだろう。


いつも通りの朝に、いつも通りの角で、いつも通りに合流して。俺が告白の段取りを頭の中で回しているとき、ほのかは隣で弁当の話をしていたんだろうか。そうだったら——あの日の俺は、もう少し地に足がついていたんだろうか。


分からない。分からないけど、今、ほのかが隣にいるというだけで、足元が少しだけ安定している気がした。


「相沢」


「なに」


「昨日さ——いや、この三日間。なんかあったでしょ」


「……なんで」


「分かるよ。顔が違う。いつもの"考えすぎてる顔"じゃなくて、"考えても答えが出ない顔"してる」


「何その分類」


「十年の観察結果」


ほのかが少しだけ笑った。笑ったけど、目が笑っていなかった。心配が目の奥に残っている。


当たっている。当たっているけど、言えない。「ボタンを引きちぎったら時間が戻った」なんて言えるわけがない。「好きだった先輩が俺を忘れた」も言えない。「次にボタンを使ったら誰が消えるか怖い」も。全部言えない。


「……マジで寝不足なだけ」


「嘘。まあいいけど」


ほのかはそれ以上追わなかった。話題が文化祭の模擬店の仕入れに移って、そのまま校門まで続いた。


追わない。ほのかは踏み込まない。こっちが壁を出したら、壁の手前で止まる。でも離れない。壁の前に立って、黙って同じ方向を歩く。


それが——ここ数日の俺には、少しだけ痛かった。


---


教室に着いた。


文化祭の準備が本格化していて、朝から教室の後ろ半分が作業場になっている。段ボールの壁を組み立てるグループ、ペンキで看板を塗るグループ、買い出しリストを作るグループ。俺はどこにも入れていない。椅子に座って、鞄を下ろして、そのまま止まっていた。


頭の中がうるさい。先輩のこと。ボタンのこと。結城の「無意識が一番怖い」。棚の奥の箱。先輩の足が止まった一瞬。全部が順番に再生されて、消えて、また再生される。


「相沢ー、段ボール運ぶの手伝って」


クラスメイトの声が飛んできた。返事をしなきゃいけない。立ち上がらなきゃいけない。でも体が重い。


「あ、それ私行くよ」


ほのかの声だった。いつの間にか近くにいた。俺の代わりに段ボールの山に向かっていく。


「藤崎ありがとー。風邪、もう平気?」


「平気平気。——相沢ちょっと寝不足っぽいから」


さらっと言った。嘘じゃないし、全部本当でもない。でもクラスメイトはそれで納得して、俺に声をかけなくなった。


こういうところだ。ほのかは昔からこうだった。俺が固まっているときに、説明を求めずに間に入る。「なんで?」と聞く前に、体が動いている。頼んでいないのに——頼まなくても分かっている。


しばらくして、ほのかが戻ってきた。段ボールを三箱運んだらしく、額にうっすら汗をかいている。風邪明けの体でそれをやるなよ、と言いかけて飲み込んだ。言ったらほのかは「別にいいよ」と言う。それも分かっている。


「体調悪いなら保健室行きなよ」


「悪くない」


「じゃあ何。やっぱりこの三日間で何かあったんでしょ」


「……」


「言わなくていいよ。言いたくないなら」


ほのかは俺の隣の椅子に座った。鞄からペットボトルの水を出して、一口飲んだ。それから何も言わずにスマホをいじり始めた。


隣にいる。ただ隣にいる。何も聞かない。何も求めない。ただ同じ教室の、同じ列の、隣の椅子に座っている。


ありがとう、と言いかけた。飲み込んだ。「ありがとう」は正しい言葉だ。正しい言葉のはずだ。でもこの状況で「ありがとう」を言ったら、ほのかは「なにそれ」と笑って、でも目の奥で安心する。安心した瞬間に「じゃあ何があったか話してよ」の空気が生まれるかもしれない。言葉を選ぶほど嘘になる。正しい言葉を探すほど、本当のことから遠ざかる。


——また、これだ。


告白のときと同じだ。正解を選ぼうとして、口が動かなくなる。


結局、何も言わなかった。ほのかも何も聞かなかった。チャイムが鳴って、授業が始まった。


---


昼休み。


弁当を開けたけど、箸が進まなかった。卵焼きが入っている。甘い卵焼き。


「ねえ、ちょっと来て」


ほのかが立ち上がっていた。弁当を包み直している。


「どこ」


「上。踊り場」


教室を出て、階段を上がった。四階の、屋上に出る手前の踊り場。窓が大きくて、昼の光が白く入ってくる。人がいない。風の音だけが聞こえる。


ほのかが窓枠に腰を下ろした。俺は反対側の壁にもたれた。


「食べなよ」


「食べてる」


「食べてない。さっきから箸止まりっぱなし」


「……」


「食べなよ。言わなくていいから。何があったか言わなくていいから。でも——食べなよ。それだけは」


箸を持った。卵焼きを口に入れた。甘かった。母の味がした。喉を通るとき、目の奥が少しだけ熱くなった。泣いてない。泣いてない。ただ——


「……うまい」


「うちのもね、甘いの。母さんが砂糖入れすぎるから」


ほのかが自分の弁当を開けて、卵焼きをひとつ食べた。


「やっぱ甘い」


ほのかが笑った。窓からの光が横顔に当たっていた。目が細くなる。前髪がかかる。


十年見てきた笑い方だった。小学校のとき、一緒に帰る道で缶ジュースを奢り合った。中学のとき、クラスが離れても朝の角だけは変わらなかった。高校に入って、同じクラスになって、でも距離は変わらなかった。近くも遠くもなく。名前のつかない距離。


ほのかは俺の弱いところを知っている。正解がないと動けないことも、失敗を引きずることも、黙り込んだら話しかけるタイミングが分からなくて固まることも。全部知っていて、全部知った上で隣にいる。


それがどういう感情なのか、たぶん、ほのか自身も分かっていない。友達だから。昔からだから。放っておけないから。——そういう言葉で片付けて、それ以上は掘らない。掘ったら何が出てくるか分からないから。掘らないことで守っている関係がある。


俺も同じだ。ほのかが何で俺の隣にいるのか、聞いたことがない。聞いたら答えが出る。答えが出たら、この距離が変わる。変わるのが怖いから聞かない。


名前のつかないまま、十年。


この子を守りたい、と思った。


思った瞬間に、血が冷えた。


守りたい。その気持ちは本物だ。でも「守りたい」と思うということは——この子が、俺の中で「大事な人」の欄に入ったということだ。入ったんじゃない。最初から入っていた。ずっと入っていた。ただ、今まで意識しなかっただけだ。


ボタンを引きちぎる瞬間に、いちばん強く思っている相手が消える。


結城の言葉が頭の中で鳴った。仮説だ。まだ仮説にすぎない。一回しか起きていないことから法則を導くのは危険だと、結城自身が言っていた。でも——先輩のことを考えたら先輩が消えた。次にボタンを使うとき、俺の頭の中にいちばん強くいるのは——


踊り場の窓から、校庭が見えた。体育館の屋根が視界の端にある。


「——ほのか」


「なに」


「……いや。なんでもない」


「なんでもなくないでしょ。でもいいよ。いつでも聞くから」


ほのかが弁当を包み直して立ち上がった。スカートの裾を払って、階段に向かう。


「帰り、いつも通りね」


軽い声だった。何の含みもない。ただの確認。いつもの通学路を一緒に帰る、それだけの約束。十年間ずっと続いてきた、わざわざ口にするまでもない約束。


「……ああ」


返事をした。ほのかの足音が階段を降りていった。


踊り場に一人残った。窓の光が白い。風の音だけが聞こえる。


右手がボタンに伸びかけた。止めた。ポケットに突っ込んだ。


大丈夫だ。使わない。使う理由がない。今は何も起きていない。先輩のことは——もう取り返せない。取り返そうとすれば、誰かが消える。だから使わない。使わないんだ。


---


放課後。体育館に寄った。


結城に呼ばれたわけじゃない。自分で行った。昨日見た吊りループのほつれが頭に残っていた。それだけだ。


体育館のドアを開けると、ステージの上で作業が行われていた。文化祭実行委員の何人かが、垂れ幕の位置を調整している。ワイヤーを巻き上げるウインチの音がギリギリと響いている。


垂れ幕が上がっていく。重い横棒が布を引っ張って、巨大な校章が天井に向かって広がる。吊りループがテンションを受けて、ぴんと張る。


パン、と音がした。


小さな音だった。装飾用のパネル——バトンに引っかけてあった木製の飾り板——の留め具が外れて、ステージの床に落ちた。三十センチ四方くらいの板が、乾いた音を立てて跳ねた。


ステージの上にいた実行委員が「うわ」と声を上げて一歩下がった。


——その一歩下がった実行委員の、すぐ横に、ほのかがいた。


ほのかは実行委員じゃない。誰かに頼まれたのか、段ボール箱を抱えてステージの脇を通りかかっていた。パネルが落ちた場所から二メートルもない位置だった。


ほのかは落ちたパネルを見下ろして、それから天井を見上げた。


「……怖」


小さく言った。それだけ言って、段ボールを抱え直して歩いていった。何事もなかったみたいに。


俺は体育館の入り口に立ったまま動けなかった。


たいしたことじゃない。小さい板が一枚落ちただけ。誰も怪我してない。ほのかも平気だ。平気な顔で歩いていった。


でも目が、垂れ幕から離せなかった。重い横棒。吊りループ。ほつれた糸。安全ひものない構造。——あれが落ちたんじゃない。小さいパネルが一枚落ちただけだ。


右手がブレザーの前に行った。


ボタンに触れた。硬い。灰がかった糸。


——触ってる。


気づいて、手を引いた。引いたけど、指の腹に縫い目の感触が残っている。またやった。また無意識で手が伸びた。


ほのかがステージの反対側から出てきた。段ボールを置いて、手を叩いて埃を落としている。俺に気づいて、軽く手を上げた。


「あれ、相沢。なんでいんの」


「……別に。通りがかった」


「嘘。まあいいけど。——帰ろ」


---


帰り道。いつもの通学路。いつもの距離。いつもの歩幅。


ほのかが他愛もない話をしていた。文化祭の準備が遅れてるとか、隣のクラスの出し物がずるいとか、購買のパンが値上がりしたとか。俺は相槌を打ちながら聞いていた。


聞きながら、ずっと考えていた。


この声が聞こえなくなったら。この距離が消えたら。「帰り、いつも通りね」が二度と来なくなったら。ほのかが角で待っていない朝が来たら。


「——ほのか」


「ん?」


「いや……今日、ありがとう。朝も。昼も」


ほのかが少し驚いた顔をした。立ち止まりかけて、でも立ち止まらなかった。歩きながら、ちらっとこっちを見た。


「なにそれ。気持ち悪い」


「悪かったな」


「冗談」


ほのかが前を向いた。少しだけ間があった。


「別にいいよ。いつものことだし」


いつものこと。ほのかにとっては、いつものことだ。俺がおかしいときに隣にいること。何も聞かずに横を歩くこと。帰り道を一緒に歩くこと。全部、いつものこと。


家の近くの角まで来た。ここで道が分かれる。俺が右、ほのかが左。三軒隣だけど、最後の角だけ別れる。


「じゃあね」


「ああ」


ほのかが数歩歩いて、振り返った。


「相沢」


「なに」


「言えるようになったら、ちゃんと言ってよ。——待ってるから」


それだけ言って、ほのかは手を振って角を曲がった。


夕日が当たる。角の向こうに消えていく。


——消えていく。


背中が消えていく光景。先輩のときと似ている。夕日の色。角を曲がって、見えなくなる。


でも、先輩とは違う。先輩は「なかったことにして」と言って去った。ほのかは「待ってるから」と言って去った。


待ってる。


帰る場所がある。この道の、この角の、三軒隣に。十年分の「いつも通り」が積み上がった場所に。


俺は、ずっとこの場所に守られていた。守られていることに気づかないくらい、当たり前に。


それを失ったら——もう、どこにも帰れない。


家に入った。靴を脱いだ。階段を上がった。部屋のドアを閉めた。制服を脱いで、ハンガーにかけた。


第2ボタンが目に入る。灰がかった糸。硬い縫い目。


スマホを開いた。メモアプリ。


『使うな』


その下に、もう一行ある。


『白鳥玲奈』


消えた人のリスト。たった一人のリスト。俺が引きちぎったから、俺を忘れた人の名前。


画面を見つめた。


次に使ったら——この下に、もう一人の名前が並ぶ。


誰の名前が。


指が震えた。答えはもう分かっていた。分かっていたから、スマホを閉じた。閉じて、枕に顔を埋めた。目を閉じた。


暗い。何も見えない。


でも目の裏に、ほのかの顔が残っていた。踊り場の窓の光の中で、「やっぱ甘い」と笑った顔。帰り道の角で、「待ってるから」と言った顔。


守りたい。


守りたいと思うほど、その人が「いちばん大事な人」になる。いちばん大事な人になるほど、ボタンの代償に選ばれる可能性が上がる。


守ることと失うことが、同じ方向を向いている。


——なんだよ、それ。


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