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縫い目

「——ボタン、引きちぎったでしょ」


結城の声は静かだった。問い詰める調子じゃなかった。確認している声だった。答えを知っていて、それでも相手の口から聞くために質問している、という種類の静けさだった。


「……なんで」


それしか出なかった。否定しようとして、できなかった。嘘をつく余裕が、今の俺にはなかった。


結城は俺の制服の前を見ていた。第2ボタン。灰がかった糸。硬い縫い目。付いている。ちゃんと付いている。引きちぎったはずなのに、元通りに——


「見ていい?」


返事を待たずに、結城が一歩近づいた。指先が俺の制服に伸びる。ボタンに触れる直前で止まって、縫い目のあたりを覗き込んだ。目が細くなる。ミシンに向かうときと同じ目だ。手元だけに集中する、あの目。


「……やっぱり」


「何が」


「糸。ここ」


結城の指が、ボタンの根元を軽く押さえた。


「私が縫ったとき、糸は全部同じ方向に撚ってある。右回り。でもここ——一箇所だけ逆に撚れてる。力がかかって、戻ったけど戻りきれなかった痕。普通に着てるだけじゃこうならない」


俺は自分の制服のボタンを見下ろした。結城が指している場所を見た。——分からない。俺の目には、ただの縫い目にしか見えない。


「普通の人は気づかない。でも私は縫ったから分かる。この糸がどっち向きに入ってるか、全部覚えてる」


結城が指を離した。俺の目を見た。


「引きちぎったよね。——いつ?」


---


家庭科室の椅子に座って、話した。


何から言えばいいか分からなかった。段取りなんて組めない。正解の説明順序なんてない。だから、起きたことを順番に言った。


昨日——いや"前の今日"の夕方、白鳥先輩に告白したこと。ほぼ成功しかけたこと。舞い上がって余計なことを言ったこと。先輩の顔が閉じたこと。「なかったことにして」と言われたこと。


先輩が去ったあと、ボタンを引きちぎったこと。


そしたら——朝七時十五分に戻ったこと。


「朝七時十五分」


結城が繰り返した。声に感情がなかった。信じてるとも信じてないとも取れない平坦な声。


「同じ日の朝に戻った。母の言葉も天気予報も全部同じだった。卵が——同じ場所で同じように落ちた。世界が全部同じだった」


結城は黙って聞いていた。


「もう一度告白した。今度は失言しないようにした。段取りも変えた。前の今日の失敗を全部潰して——完璧にやったつもりだった」


声が詰まった。


「先輩が——俺のことを、知らなかった」


結城の表情が動いた。かすかに。眉の角度が変わった程度の、小さな変化。


「知らない?」


「名前も顔も覚えてなかった。先週話したことも、その前に話したことも、全部消えてた。俺だけが消えてた」


「……先輩だけ?」


「先輩だけ。母は普通だった。学校でも——颯太も、クラスのやつらも、先生も、全員普通に俺に話しかけてきた。誰一人おかしくなかった。先輩だけが、俺を知らなかった」


「家の人も普通」


「普通。いつも通り」


結城は膝の上の手を見ていた。指が少しだけ動いている。糸を扱うときの癖。何かを考えるとき、結城は指で見えない糸を繰る。


「……正直、信じるとか信じないの話じゃないんだよね」


「じゃあ何」


「縫い目にズレがあるのは事実。あなたの目が普通じゃないのも事実。でも、『朝に戻った』とか『先輩が忘れた』とかは——私には確認できない」


結城は立ち上がった。


「事実を並べたら、『何か起きた』のは確か。でもそれが何なのかは、まだ分からない。——私にも」


---


結城が棚のほうに歩いていった。家庭科室の奥の棚——教科書や布の端切れが積まれた金属棚の、いちばん上の段。結城は椅子を持っていって上に乗り、奥に手を伸ばした。


「先週、あなたのボタンを付け替えたとき——元のボタンが取れかけてたから、替えのボタンを使った」


「……知ってる。それがこのボタンだろ」


「そう。でもあのボタン、普通の替えボタンの箱から出したんじゃない」


結城が棚の奥から何かを引き出した。古い箱だ。布を貼った紙箱のようなもの。角が擦り切れていて、蓋の色が褪せている。かなり年季が入っている。


結城が箱を作業台の上に置いた。蓋を開ける。中にボタンが入っている。いくつも。サイズも色もバラバラだけど、いくつかのボタンが——目に留まった。


俺の制服の第2ボタンと同じ型。同じ色。同じ大きさ。


「これ——」


「この箱、この学校がずっと前から家庭科室の倉庫に保管してたもの。私が入学したときにはもうここにあった。先生も『昔からあるやつ』としか知らない」


結城は箱の中のボタンをひとつ摘み上げた。俺の胸のボタンと並べるように、指先で差し出す。同じだ。色も形も、裏の金具の形状も。


「私が使ったのはこの箱のボタン。あなたの制服の元のボタンが取れかけてたから——同じ型があったから、これで付け替えた。深い意味はなかった。たまたま合ったから使っただけ」


「……普通のボタンじゃないのか」


「普通のボタンだと思ってた。——少なくとも先週までは」


結城が箱を見つめた。


棚の奥に、もう一つ何かが見えた気がした。箱の奥——小さい。金属っぽい光沢。


「結城。その奥に——」


「それは分からない」


結城の声が変わった。硬くなったんじゃない。——不安定になった。


「私もあの棚、全部は調べてない。この箱を見つけたときに奥にもう一つあるのは見えた。でも開けてない」


「なんで」


「なんでって——だって、ただの替えボタンの箱だと思ってたから。奥にある箱も、古い裁縫道具か何かだと思って放っておいた。それだけ」


結城が俺を見た。目の奥に困惑があった。怪しさじゃなく、困惑。自分が使ったボタンに何かがあるかもしれないと言われて、整理が追いついていない顔。


「相沢くん。私は先週、あなたの制服のボタンを付け替えただけ。何がどうなってるのか、あなたの話が全部本当なのかも、正直まだ分からない」


「だから奥の箱を——」


「分からないまま開けるのは怖い」


結城がそう言った。声は正直だった。


「あなたの話が本当だとしたら、私がやったことがきっかけかもしれない。だったら——ちゃんと状況を整理してから開けたい。何も考えずに突っ込むのは嫌」


俺の正解主義と似たことを言っている、と思った。慎重なんじゃなくて、分からないまま進むのが怖い。


食い下がりたかった。今すぐ開けろと言いたかった。あの箱の中に答えがあるかもしれない。先輩が俺を忘れた理由が。このボタンの正体が。


でも——結城の目を見て、止まった。


結城は怯えていた。小さく、静かに。自分が縫ったボタンのせいで誰かの記憶が消えたかもしれない——その可能性に、怯えていた。


「……分かった」


自分でも意外なくらい、すんなり引いた。


「じゃあ、整理がついたら教えてくれ」


結城が少しだけ肩の力を抜いた。


「うん。——ありがとう」


---


家庭科室を出て、廊下を歩いた。


授業が始まる前の時間帯で、廊下にはまだ人が少ない。上履きの足音が反響する。


渡り廊下に差しかかったとき、前方に見覚えのあるポニーテールが見えた。


白鳥先輩だ。


心臓が跳ねた。


距離が縮まる。十メートル。五メートル。すれ違うしかない。渡り廊下は一本道だ。


先輩がこっちを見た。


——何もなかった。


目が合った。一瞬だけ。先輩の視線が俺の顔を通過して、そのまま前に戻った。立ち止まらない。歩調も変わらない。表情も動かない。知り合いとすれ違ったときの反応じゃない。知らない人間とすれ違ったときの——何もない目だ。


昨日、俺はこの人に告白した。「好きです」と言った。先輩は困惑して、「誰?」と言った。俺は名前を名乗って、食い下がって、最後に「怖い」と言わせた。


それすら、残っていない。


昨日の出来事ごと消えている。「知らない男に告白された」という記憶すら、先輩の中にない。俺に関することは——何ひとつ定着しない。昨日作った記憶も、今朝にはもう消えている。まるで水が砂に沁み込むみたいに、俺という存在が先輩の記憶からこぼれ落ちていく。


先輩はそのまま歩き去った。ポニーテールが揺れる。ギターケースの金具が廊下の光を反射する。俺が存在しないみたいに、先輩の世界は何事もなく進んでいく。


すれ違いざま、先輩の右手がかすかに動いた。


胸元に触れた。ほんの一瞬。自分でも気づいていないような、無意識の仕草。眉がわずかに寄って、すぐに戻った。


先輩は振り返らなかった。そのまま渡り廊下の向こうに消えていった。


今の——何だ。


俺を見ていなかった。俺に気づいてすらいなかった。なのに、すれ違った瞬間に胸に手が行った。眉が寄った。理由もなく、何かを感じたように見えた。


忘れている。完全に忘れている。昨日の告白も、先週の打ち合わせも、名前も顔も全部消えている。消えたのに——体のどこかが、覚えていない何かに反応した。


記憶はない。でも何かが残っている。名前のつかない何かが。


分からない。今は分からない。


---


放課後。


結城から連絡が来た。「体育館、見に行く。来る?」


文化祭準備の一環で、体育館の装飾を確認する作業があるらしい。結城は衣装や幕の縫製を手伝っている立場だから、呼ばれるのは自然だ。俺が行く理由は——正直、なかった。でも一人で教室に残って考え込むのも嫌だったから、ついていった。


体育館に入ると、ステージの上に巨大な垂れ幕が吊られていた。


校章が入った垂れ幕。布地は厚手で、下部に重い横棒が通してある。幕がたわまないように、横棒の重さでテンションをかける仕組みらしい。天井近くのバトンからワイヤーで吊られていて、ワイヤーと垂れ幕をつなぐ部分に布の吊りループがある。


結城がステージに上がって、吊りループを見上げた。


「……やっぱり」


「何」


「ここ、ほつれかけてる。糸が古い。去年のを使い回してるんだと思う」


結城は吊りループの付け根を指さした。言われてみれば、縫い合わせの糸が一箇所毛羽立っている。でも俺には、それがどの程度危ないのか判断がつかない。


「安全ひももないし。二重化してないんだよね、ここ」


「直せるのか」


「直せるけど——言ったんだよ、舞台担当の人に。ほつれてるって」


結城の声にかすかな苛立ちが混じった。


ステージの袖から足音がした。


「結び目、触るなよ」


低い声だった。振り向くと、男子が一人立っていた。制服の袖を捲って、手に結束バンドとガムテープを持っている。舞台担当の腕章。


顔は知らない。同学年だと思うけど、クラスが違う。


「補強は俺がやる。勝手に触んな」


それだけ言って、ステージ袖の暗がりに戻っていった。


「……誰」


「えーっと、黒瀬くん。二年。舞台担当の中心。結び目とか段取りとか、全部あの人が仕切ってる」


結城は少し不満そうだったけど、それ以上は言わなかった。垂れ幕を見上げて、小さくため息をついただけだった。


俺はぼんやりとステージを見ていた。正直、今の俺の頭は垂れ幕どころじゃなかった。先輩のこと。ボタンのこと。あの箱のこと。全部がぐるぐる回っていて、文化祭の装飾の心配をしている余裕がなかった。


「行こう」


結城が声をかけてきた。体育館を出た。


---


渡り廊下を歩いて校舎に戻る途中、結城が言った。


「相沢くん」


「なに」


「あのボタン——もう一回使おうとか、考えてる?」


立ち止まった。


考えてる? 考えてない、と言いたかった。使わないと決めた。使えば誰かが消える。もう使わない。そう思った。思ったはずだ。


でも。


さっき渡り廊下で先輩とすれ違ったとき。先輩の足が一瞬止まって、胸元に手が触れたあの瞬間。あのとき俺の頭をよぎったのは——「もう一回やり直せば、先輩の記憶を戻せるんじゃないか」だった。


一瞬だけ。ほんの一瞬。すぐに打ち消した。打ち消したけど、よぎった。


「……考えてない」


「嘘」


結城が即答した。


「触ってた。さっき体育館出るとき、右手がボタンに行ってた」


——触ってた? 覚えてない。覚えてないのに、指が勝手に行っていた。


「……無意識だ」


「無意識が一番怖いんだよ」


結城の声は静かだった。責めてはいなかった。ただ事実を言っていた。


「仮にあなたの話が全部本当で、仮に使うたびに誰かが忘れるなら——無意識に手が伸びるのは、いちばん駄目なパターンでしょ」


返す言葉がなかった。


結城は俺の横に並んで、歩き出した。夕日が廊下を染めていた。


「今日聞いた話、私もちゃんと考える。箱のことも。だから——少し時間ちょうだい」


「ああ」


「それまで——引っ張らないで」


結城はまっすぐ前を見ていた。横顔が夕日で赤かった。


「ほどけたら持ってきて。また縫うから。——ただし、引きちぎったあとじゃ、縫い直せるかは分かんないけど」


冗談なのか本気なのか、分からない声だった。


校舎に戻って、教室で鞄を取って、一人で帰った。


帰り道、ずっと右手をポケットに突っ込んでいた。胸元に手が行かないように。ボタンに触れないように。無意識を止めるには、物理的に手を遠ざけるしかなかった。


家に着いた。玄関を開けた。母が「おかえり」と言った。普通の声だった。普通の夕方だった。


部屋に戻って、ベッドに座って、制服を脱いだ。ハンガーにかけた。第2ボタンが目に入る。灰がかった糸。硬い縫い目。


あのボタンを引きちぎれば、朝に戻れる。戻れば、やり直せる。でもやり直すたびに、誰かが消える。


使わない。


使わない——と決めた日に、無意識に三回も手が伸びていた。


俺は本当に「使わない」と決められているのか。


それとも俺は——次に使う理由を、探しているのか。


スマホを開いた。メモアプリ。昨日の二行がまだ残っている。


『言うな(すっきりした、等)。余計なことを言うな』

『待て。先輩の返事を最後まで聞け』


もう意味のないメモだった。先輩は俺を知らない。やり直す前の告白は消えた。やり直した後の告白は「知らない人からの告白」になった。どっちも失敗だ。どっちも、壊れた。


メモを消した。


代わりに、一行だけ打った。


『使うな』


それだけ打って、画面を閉じた。


枕に顔を埋めた。目を閉じた。暗い。何も見えない。


——でも頭の中に、結城の声が残っていた。


「無意識が一番怖いんだよ」


怖い。何が怖いって、結城の言う通りだからだ。


俺は段取りを組む人間だ。正解を見つけてから動く人間だ。なのに——指だけが先に動く。胸元に伸びる。ボタンに触れる。あの硬い縫い目の感触を確かめる。「ここにある」と確認する。いつでも使えると確認する。


それは——「使わない」と決めた人間の手じゃない。


「いつか使う」と思っている人間の手だ。


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