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エピローグ「待ってた」


家庭科室は暗かった。


夕日はもう落ちていた。窓の外は紺色で、廊下の非常灯だけが床に薄い緑の筋を伸ばしている。


俺はまだここにいた。


ブリキの箱の蓋を閉めたあと、立ち上がる気力がなかった。椅子に座ったまま、机の上に手を置いている。右手。火傷の痕がひりひりする。左手。何も持っていない。ポケットにも何もない。布は結城に渡した。


結城は出ていった。俺を見ないまま、誰もいない部屋だと思って、出ていった。


足音が消えてから、どれくらい経っただろう。五分か。三十分か。時間の感覚が溶けている。


声が出ない——わけではない。声は出る。だが誰にも届かない。窓の外で風が鳴っている。俺の声はあの風と同じだ。空気を揺らすだけで、誰の鼓膜にも届かない振動。


透明。


その言葉が、今は正確だった。


俺は透明になった。名前を失い、顔を失い、声を失い、輪郭を失った。世界はそのまま回っている。文化祭は終わり、片付けは済み、生徒は帰り、校舎は静まった。何も起きなかった。火は出なかった。将棋倒しは起きなかった。誰も怪我をしなかった。


その代わりに、俺がいなくなった。


——これから、どうする。


分からない。何も分からない。家に帰っても、母は俺を見ない。部屋に入っても、誰も気づかない。明日学校に来ても、誰の目にも映らない。


名前がない人間は、どこにも属せない。


---


空気が変わった。


それは音ではなかった。気配でもなかった。もっと曖昧な——重さの変化。家庭科室の空気に、ほんの少しだけ密度が加わった。


顔を上げた。


ドアは閉まっている。廊下の非常灯が隙間から漏れている。窓も閉まっている。風は入ってこない。


だが——誰かがいる。


目を凝らした。暗い。ミシン台の列。椅子の背。棚。ブリキの箱。窓の紺色。


窓際に、影があった。


影というより——輪郭のない存在。暗がりの中に、暗がりよりわずかに濃い何かが立っている。人の形をしている。小柄。髪が長い。


俺と同じだ。


透明に近い。だが——俺には見える。


「待ってた」


声がした。


女の声だった。低くはない。高くもない。落ち着いた声。感情を押し込めているのではなく、感情がすでに沈殿して底に溜まっているような声。


「……誰だ」


「同じ所まで来た人にだけ、私は見えるの」


影が一歩近づいた。窓の紺色を背に、輪郭がわずかに浮かんだ。顔は見えない。でも目だけが光を拾っていた。非常灯の緑を反射して、暗がりの中に二つの小さな光。


「その紙を書いたのは私」


俺は振り向いた。ブリキの箱。蓋を閉めたばかりの、あの箱。


「あの箱を最初に封じたのも私。ルールを書いたのも。二重底を作ったのも」


「……あんたが」


「最初の使用者。そう呼びたいなら、そう」


女は窓際から離れて、俺の向かいの椅子に座った。ミシン台越しに、距離は一メートルほど。暗がりの中で、彼女の輪郭は揺れていた。焦点が合わない。俺の目にも完全には映らない。


「あんたも——消えたのか」


「消えた。ずいぶん前に」


「いつ」


「覚えてない。年も、季節も。名前も」


沈黙が落ちた。家庭科室の暗がりの中で、二人の透明な人間が向かい合っている。


「……なんで、待ってたんだ」


「同じ所まで来る人が、いつか現れると思ったから」


「何のために」


女は少し黙った。それから言った。


「久しぶりに——誰かと話がしたかったから」


声が少しだけ柔らかくなっていた。


---


「戻れるよ」


女はそう言った。


「……は?」


「あなたは、戻れる」


女は声を落とした。静かに、だが一語ずつ確かめるように。


「異常の因子を全部ブリキの箱に戻して、封じる。ボタンの残骸も、糸も、紙も。全部。そうすれば透明化は止まる。輪郭が戻る。名前が舌に乗る。声が届く。人の目が——あなたの上で、焦点を結ぶようになる」


女は一拍置いた。


「あなたはもう一度、誰かに名前を呼ばれる側に戻れる」


心臓が跳ねた。跳ねたことに驚いた。透明になっても心臓は動いている。


「……本当か」


「本当。ただし——」


「ただし」


「血縁以外は、過去の記憶は戻らない」


「……どういうことだ」


「家族は思い出す。お父さんも、お母さんも。あなたの名前を。血の繋がりは、記憶の根が深いから。でも——」


女の声が静かになった。


「友達は戻らない。あなたのことを知っていた人たち。一緒に過ごした時間。全部、白紙のまま」


颯太。ほのか。黒瀬。


そして——結城。


「結城も——」


「血縁じゃないなら、戻らない」


胸の底が冷えた。


戻れる。透明から抜け出せる。名前を取り戻せる。でも——結城の中にある俺は、戻らない。颯太の「お前」も。ほのかの「相沢くん」も。黒瀬の「相沢」も。


全部、ゼロになる。


「……もう一つ」


女が続けた。


「ループの能力は封印される。二度と引きちぎれない。ボタンはもう存在しない。やり直しはできない」


「……」


「戻れるのは一回だけ。戻ったら、あとは普通の人間として生きる。もう巻き戻せない。もう消せない。もう——誰かを代わりに差し出すこともできない」


女は俺を見ていた。暗がりの中の二つの光が、静かに俺を見ていた。


「それでも戻りたい?」


---


迷った。


戻りたい。戻りたいに決まっている。透明のまま、誰にも見えないまま、ここに立ち続けるなんて耐えられない。


でも——戻ったとして。


結城の前に立ったとき、結城は俺を知らない。さっき家庭科室で「誰もいない」と言った結城。あの目。あの声。あの——俺を通過する視線。


あれが、戻ったあとも続く。


透明ではなくなる。見えるようにはなる。でも記憶は白紙。結城にとって俺は、見知らぬ男子生徒。手を握ったことも、クリームパンを食べたことも、返し縫いの布を渡したことも、全部知らない人間。


それでも戻るのか。


ゼロから。何もない場所から。もう一度。


——もう一度。


あの言葉が浮かんだ。結城が縫った布。返し縫い。三重の結び目。ほどけないように。


ほどけた。全部ほどけた。でも——糸は残っている。結城のポケットに、あの布がある。結び目は切れていない。温度が残っている。


縫い直せるかもしれない。


同じ形にはならない。同じ結び目にはならない。でも——もう一度、糸を通すことはできるかもしれない。


「……戻りたい」


声が出た。自分の声が、暗い家庭科室に響いた。誰にも届かない声。でも——目の前のこの女には、届いている。


「もう一度、縫い直したい」


---


女は黙っていた。


長い沈黙だった。俺の言葉を噛みしめているようでもあり、別の何かを飲み込んでいるようでもあった。


「……あんたは」


俺は訊いた。


「あんたは、戻らないのか」


女は答えなかった。すぐには。


窓の外で風が鳴った。校舎の壁に当たる風の音。十一月の夜。


「一人が好きだから」


女はそう言った。


軽い声だった。軽すぎた。その軽さの下に何があるのか、俺には分かった。同じ場所に立っている人間だから分かった。


「戻っても——"おかえり"がないの」


女の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「血縁がいないから。私の場合。戻っても、誰も思い出してくれない。全員が白紙。全員が初対面。縫い直す相手が——いないし、気力ない」


「……」


「でも、あなたはまだ縫える。帰る場所がある。家族がいる。それだけで充分よ」


俺は何も言えなかった。


この女は——ここに残る。透明なまま。誰にも見えないまま。次に「同じ所まで来る」人間を待って、また「待ってた」と言うために。


「あー」


女が言った。声の調子が変わった。さっきの軽さとも、揺れとも違う。もっと——素に近い声。


「せっかく仲間ができたのに、残念」


---


女がブリキの箱を棚から降ろした。蓋を開けた。二重底の隠し蓋を持ち上げた。


中にあの紙がある。「——わたしは」と書かれた紙。


女は紙を裏返した。何も書かれていない面を上にして、箱の底に置いた。


「制服のボタン穴を見せて」


俺はそこを向けた。第二ボタンの穴。糸の切れ端が二本、短く垂れている。


女はブリキの箱の中から小さな金色の針と糸を取り出した。家庭科室の裁縫箱ではない。ブリキの箱の二重底の、さらに奥。あの紙の下に、小さな針と白い糸が一本だけ入っていた。


「ボタンは——」


「これ」


女がもう一つ取り出したのは、白いプラスチックのボタンだった。何の変哲もない。制服用の予備ボタン。学校の購買で売っているような、普通のボタン。


「あの第二ボタンはもうない。代わりにこれを縫う」


「……普通のボタンだな」


「普通のボタン。引きちぎっても何も起きない。時間は戻らない。誰も消えない。ただのボタン」


女は針に糸を通した。暗がりの中で、その手つきだけがやけに鮮明だった。迷いがない。何度もやった手つきではない。一度もやったことがない手つきでもない。ただ——正確だった。


俺の制服の第二ボタンの穴に、白いボタンを当てた。


針が布を刺した。


「返し縫いじゃないんだな」


「返し縫いにはしない」


女の手が止まらずに動いていた。糸が穴を通り、ボタンの足を巻き、また布に戻る。


「返し縫いはほどけない縫い方。でも今回は違う。ほどける前提で縫う。普通の人間の、普通のボタンの、普通の縫い方」


「ほどけたらどうする」


「自分で縫い直す。何度でも」


針が最後のひと刺しを終えた。糸を切った。糸切り鋏の音が小さく鳴った。


白いボタンが、俺の制服に付いていた。第二ボタンの位置。ブレザーの留め具。ただの——ボタン。


「最後に」


女がブリキの箱の蓋に手をかけた。


「お守りの布——あなたが預けたやつ。あれは結城さんのポケットにある。あのままにしておいて」


「……分かってる」


「記憶は戻らない。でも、残響は残る。温度。涙。理由のない胸の痛み。あの布に染みた温度は消えない」


女は蓋を閉めた。ブリキの箱の蓋が、金属の乾いた音を立てて閉まった。


箱を棚の奥に押し込んだ。


「ほどけた縁は戻らない。でも、縫い直すことはできる」


---


身体が変わった。


痺れが引いていく。全身を覆っていた静電気の膜が、薄くなっていく。指先から感覚が戻る。椅子の座面の硬さが、一枚隔てずに直接伝わってきた。


輪郭が戻る。


自分の身体の境界線が、はっきりしていく。空気と皮膚の境目。椅子と身体の接点。床と靴底の圧。全部が——鮮明になっていく。


声を出した。「あ」と。ただの一音。


音が鳴った。空気が振動した。家庭科室の壁に反射して、耳に返ってきた。


聞こえる。自分の声が、自分に聞こえる。


そして——名前。


相沢恒一。


浮かんだ。音が。文字が。輪郭が。自分の名前が——頭の中に、戻った。


「……相沢、恒一」


声に出した。舌に乗った。


「俺の名前だ」


涙が出た。名前を呼べることが、こんなに泣けるとは思わなかった。


---


女を見た。


暗がりの中に、まだいた。輪郭はさっきより薄くなっていた。俺の透明が解けた分だけ、彼女の透明が深くなったように見えた。


「行って」


声が遠くなっていた。距離は変わっていないのに、声だけが遠ざかっていく。


「あなたは戻れる側」


「あんたは——」


女の輪郭が揺れた。非常灯の緑が、彼女の身体を通過した。透けている。俺には見える。でも——見えなくなりつつある。


「新しく縫い直せるといいわね」


女は笑った。笑ったように見えた。


輪郭が薄れた。家庭科室の暗がりに溶けていった。消えたのではない。まだいる。ここにいる。ただ——俺の目にも、もう映らない。


同じ所まで来た人間にだけ見える。俺はもう、その場所にいない。戻ったから。


「……ありがとう」


もう一度言った。返事はなかった。


家庭科室は静かだった。ミシン台と椅子と窓とブリキの箱。非常灯の緑。十一月の夜。


俺は立ち上がった。ボタンに手を当てた。白いボタン。普通のボタン。ほどける前提の、普通の縫い目。


家庭科室を出た。


---


翌朝。


目が覚めた。天井の染みが見える。自分の部屋だ。


時計を見た。7:15。


階段を降りた。台所から味噌汁の匂いがした。


「恒一、おはよう」


母の声だった。俺の名前だった。


「……おはよう」


声が震えた。母は不思議そうな顔をしたが、何も言わず卵焼きを皿に移した。


テレビが朝のニュースを流していた。


『——続報です。先日から逃走を続けていたコンビニ強盗の男が、昨夜、市内の住宅街で逮捕されました。匿名の通報を受けた警察が付近を捜索し、○○高校の裏で身柄を確保したとのことです。』


匿名の通報。……もしかして。



玄関を出て、通学路を歩いた。角を曲がった。いつもの角。


誰もいない。ほのかはいない。でも俺の足音は地面に届いている。影がアスファルトに落ちている。輪郭がある。


校門をくぐった。校門の前に立っていた鈴木先生が俺を見た。目が合った。焦点が合った。


「おはよう」


俺に向かって言った。俺が見えている。


「おはようございます」


声の大きさに、鈴木先生が少し驚いていた。



教室に入った。朝のざわめき。椅子を引く音。鞄を机に置く音。


クラスメイトが俺を見た。何人かが不思議そうな顔をしていた。見覚えがあるような、ないような——そういう目。転校生を見るのとも違う。もっと曖昧な困惑。


颯太が近づいてきた。


「なあ、お前——」


颯太は俺の顔をじっと見た。首を傾げた。名前は出てこない。記憶もない。でも——颯太は笑った。


「お前とは話したことないはずなんだけどさ。なんか、仲良くなれそうな気がする」


俺は笑い返した。泣きそうだった。


「……ああ。俺もそう思う」


---


放課後。


家庭科室に向かった。


理由は一つしかない。


ドアを開けた。西日が差していた。ミシン台がオレンジに染まっている。昨夜と同じ部屋。でも光が違う。暗がりではなく、夕日。


奥の席に、結城がいた。


制服。髪を耳にかけている。手に小さな布を持っている。五センチ四方。返し縫い。三重の結び目。


結城は布を見つめていた。指で結び目をなぞっていた。


俺が入ってきたことに気づいて、顔を上げた。


目が合った。


結城の目は——俺を見ていた。焦点が合っていた。見えている。俺が見えている。


だが、知らない目だった。


初めて会った人間を見る目。警戒でも好意でもない、まっさらな目。


「……あの」


結城が言った。


「ここ、誰かに使われてますか? 裁縫の続きやりたくて」


知らない。結城は俺を知らない。記憶は白紙。約束も、クリームパンも、非常階段も、手を握ったことも、全部ない。


分かっていた。分かっていたはずだ。


でも——結城の目を見た瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。


「……使ってない。どうぞ」


声が掠れた。


結城は軽く頷いて、ミシン台に布を広げた。裁縫箱を開けた。針に糸を通し始めた。


俺は向かいの椅子に座った。結城との距離は一メートルほど。昨夜と同じ距離。


結城は縫い物をしている。俺のことは気にしていない。知らない男子が向かいに座っている、くらいの認識。


沈黙が流れた。針が布を刺す小さな音だけが、家庭科室に響いていた。


結城の手が止まった。


ポケットから、あの布を取り出した。五センチ四方。返し縫い。結城は布を手のひらに乗せて、しばらく見つめていた。


「……変なんです」


結城が呟いた。俺に向かってではなく、独り言のように。


「この布、自分で縫ったはずなのに——誰のために縫ったか分からなくて」


結城の指が結び目をなぞった。


「でも持ってると温かいんです。自分の体温じゃない温度が——染みてるみたいで」


結城は布を握りしめた。それから顔を上げて、俺を見た。


「……ごめんなさい。知らない人に変なこと言って」


「いい」


俺は言った。


「変じゃない」


結城の目が少し揺れた。何かを感じている顔だった。記憶ではない。もっと手前の——理由のない既視感。言葉にならない残響。


今だ。


「相沢恒一」


俺は言った。


結城が目を丸くした。


「……え?」


「俺の名前。相沢恒一。今度は、ちゃんと名乗る」


結城はしばらく俺を見ていた。名前を聞いて、それが初対面の自己紹介であることを理解して、でも——何かが引っかかっている顔。


「……結城、紬」


結城が名乗った。小さな声で。


「初めてのはずなのに、変……」


結城の目が赤くなった。


「……泣きそう」


---


家庭科室の西日が傾いていた。ブリキの箱は棚の奥に眠っている。二重底の中に、紙が一枚。


——わたしは


その先は、空白のまま。


ほどけた縁は戻らない。


でも、縫い直すことはできる。


---


(了)

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