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——わたしは


目が覚めた。


天井の染みが見える。自分の部屋だ。


時計を見た。7:15。


文化祭二日目の朝。


戻った。ボタンをちぎると時間が戻る。一回目も二回目もそうだった。目が覚めて、朝が始まる。


だが今回は違った。


身体が変だ。痺れている。静電気のような薄い膜が全身の皮膚を覆っている。痛くはない。だが触れているものの感触が一枚隔てている。布団の肌触りが遠い。


起き上がった。


制服がハンガーにかかっている。第二ボタンの穴。糸の切れ端が二本、短く垂れている。ちぎった跡。ボタンはない。


右手を見た。何も持っていない。なんでない?もう最後ということか?分からない。


だがパジャマのポケットに手を入れると——布があった。五センチ四方。返し縫い。結城の布。


まだある。


階段を降りた。台所のテレビが朝のニュースを流していた。


『——昨夜未明、市内のコンビニエンスストアで現金およそ三十万円を奪った男が、依然として逃走中です。男は三十代から四十代、黒いパーカーにジーンズ姿で、刃物のようなものを所持している可能性があり、警察は付近の住民に注意を呼びかけて——』


母は流しで皿を洗いながら、テレビに背を向けていた。


「お母さん、行ってくる」


母が振り向いた。


振り向いて——一瞬、目が泳いだ。俺を見ているはずなのに、焦点が合うまでに間があった。


「……ねえ」


母は「恒一」と言わなかった。


「お弁当は?」


「いらない」


「そう。気をつけてね」


母は笑った。いつもどおりの笑顔だった。だが息子の名前は出なかった。


ねえ。


たった二文字が、胸の底に落ちた。


昨日の朝は「恒一」だった。名前があった。俺には名前があって、母はそれを呼んで、俺は返事をして、それが当たり前だった。


その当たり前を——俺は、自分でちぎった。


結城に忘れられたくなかった。結城の記憶から消えたくなかった。だから自分の名前を選んだ。誰の名前も思い浮かべず、自分だけを差し出せば、結城に忘れられることはないと思った。


なのに——これはなんだ。


母が俺の名前を呼べない。十七年間、毎朝呼んでいた名前が、今朝はもう舌に乗らない。忘れられたくなくて選んだはずの代償が、母から名前を奪っている。


——もしかして。


母だけじゃないのか。颯太も。ほのかも。もしかして——結城も。


うそだろ。愕然とした。


台所の床に立ったまま、膝が震えた。矛盾。あのとき頭の中にあったのは「結城に忘れられたくない」だけで、その先のことなど考えていなかった。自分が消えるということの意味を、何も分かっていなかった。


後悔が喉の奥を焼いた。取り返しがつかないことをした。もう巻き戻せない。ボタンはない。糸は切れた。


——やめろ。


今はそれどころじゃない。


後悔は後でいい。今日これから起きることを、俺は知っている。午後、校舎三階のたこ焼き屋で火が出る。パニックが起きる。昇降口で将棋倒しになる。黒瀬が頭を打つ。


全部知っている。だから全部潰せる。


潰すためにちぎったんだ。この代償はそのためにある。代償の意味を後から知ったとしても、やるべきことは変わらない。


立ち上がった。制服のボタン穴に指を当てた。穴だけが空いている。


右のポケットに布を入れた。


玄関を出た。


---


角を曲がった。いつもの角。誰もいない。十一月の風。


校門。一般公開日の密度。受付に行列。


校舎に入った。うちのクラスのたこ焼き屋。颯太がたこ焼き器の前にいた。


「颯太」


颯太が振り向いた。一拍、止まった。


「……お前」


名前が出ない。でも「お前」と呼んだ。


——やっぱりか。


朝の予感は正しかった。母だけじゃない。颯太からも、もう消えている。


「段ボール、鉄板のそばに置くな。離せ。最低三十センチ」


「は? なんで」


「危ない。鉄板の縁に段ボールが触れたら焦げる。ナプキンの束も棚の上に移せ。鉄板の近くに紙を置くな」


颯太は首を傾げたが、俺の手が動いているのを見てついてきた。言葉より手が通る。段ボールを壁際に移した。ナプキンの束を棚の上段に上げた。鉄板の周りに濡れ布巾を敷いた。


消火器の位置を確認した。


「颯太。消火器、ここな」


「分かってるよ。なんだよ急に」


火元の芽は潰した。次だ。


---


体育館の裏口から入った。黒瀬が袖にいた。


「黒瀬」


黒瀬が振り向いた。俺を見た。目が細くなった。


「……お前、なんか変だな」


黒瀬は名前を言わなかった。だが俺を見ている。何かが違うことに気づいている。


「今日の予感、吊り物じゃない。昇降口だ」


黒瀬の目が動いた。


「体育館と校舎から同時に人が出たら、昇降口で合流する。幅が足りない。将棋倒しになる」


黒瀬は数秒黙って頷いた。段取りの男だ。筋が通っていれば動く。


「流れを分ける。体育館側は裏口と非常口に誘導する。校舎側は各階の非常階段を開放する。昇降口に集中させない」


「非常口は施錠されてる」


「田中に言え。防災訓練の名目で今日だけ開けてもらえ。一般公開で人が多いから、って理由なら通る」


黒瀬は動いた。田中のところへ行った。俺は体育館の非常口を確認した。


黒瀬が戻ってきた。


「田中が動いた。非常口は開場前に開錠する。校舎側の非常階段も開放する」


「誘導の看板は」


「今から作る」


模造紙とマジックで看板を作った。「←非常口」「→裏口」。体育館の内側、客席の両脇。昇降口の手前。校舎の各階の廊下。


三十分で全箇所に貼り終えた。


黒瀬がカラビナの鍵束をベルトに戻した。金属音がひとつ鳴った。


「……なあ」


黒瀬が言った。俺を見ていた。


「お前、名前——」


言いかけて、止めた。黒瀬の目が変わった。同類の目だ。六回使った男の目。何かに気づいた目。


だが黒瀬は最後まで言わなかった。


「……教えてくれ。お前の名前」


「相沢」


「相沢」


黒瀬は復唱した。噛みしめるように。それから頷いて、看板の最終確認に行った。


相沢。俺の名字を、黒瀬は今覚えた。でもいつまで覚えていられるか分からない。明日にはまた「お前」に戻っているかもしれない。来週には「お前」すら出てこないかもしれない。


---


結城が体育館の裏口から入ってきたのは、午前のプログラムが始まった頃だった。


袖でプログラム表を確認していた。俺を見つけて、近づいてきた。


結城の目が——怒っていた。


「……使ったでしょ」


低い声だった。刃物のように鋭い。


「結城——」


「使ったでしょ。ボタン」


結城の目が俺のその場所を見ていた。第二ボタンの穴。糸の切れ端。


「約束したのに」


声が震えていた。


「ずっと持っててって言った。約束って言った。なのに——」


「結城」


「ほどけないように縫ったのに! 三重に巻いた。固く結んだ。なのに——なんでちぎったの」


俺は何も言えなかった。


結城の手が俺の制服の不自然な穴を掴んだ。ボタンがあったはずの穴。断ち切れた糸の端を指で摘んだ。


「これ——私が縫った糸。ちぎれてる」


指先で、糸の切れ端を撫でていた。


「……あ——」


名前を呼ぼうとした。口が開いた。だが最初の一音から先が出ない。


「——昨日、私、あなたのこと呼んだ。呼んだはずなのに——何て呼んだか、思い出せない」


結城の目が赤くなった。怒りが消えて、もっと深い場所にある感情が剥き出しになっていた。


「……なんで名前が出てこないの」


俺はポケットから布を取り出した。結城の前に差し出した。


結城の目が布に落ちた。自分が作った布。返し縫い。


「……これ」


「お前が持ってくれ」


結城は布を両手で受け取った。指で結び目をなぞった。


「……なんで返すの」


「返すんじゃない。預ける」


結城の顔が歪んだ。理解が追いつかない顔。だが布を握る手は離さなかった。


沈黙が落ちた。袖の暗がりで、ステージの上から演劇部の声が遠く聞こえる。


結城が顔を上げた。俺の顔を見た。真っ直ぐに。


「……名前は出てこない。下の名前が思い出せない」


結城の声は震えていた。


「でも——あなたのことは分かる」


結城の手が俺の手に触れた。指先が重なった。布を挟まずに、直接。


「顔は分かる。声は分かる。手の大きさも、指の形も、分かる。昨日ここで一緒にいたことも覚えてる。非常階段でクリームパンを食べたことも覚えてる」


結城の指が俺の手を握った。


「消えてない。大丈夫。あなたは消えてない」


「……ああ」


「大丈夫だよね? まだ大丈夫でしょ?」


結城の声が、最後のほうで裏返った。大丈夫かと聞いているのは俺にではない。自分自身に言い聞かせている。名前が出てこないのは一時的なもので、明日になれば思い出せる。そう信じようとしている。


「大丈夫だ」


俺は言った。嘘だった。


「大丈夫。俺はここにいる」


結城の指に力が入った。握り返してきた。強く。


「……でも」


結城が呟いた。


「でも、名前——」


「いい。名前はいい」


「よくない」


結城の目から涙が一筋落ちた。拭わなかった。


俺は結城の手を握りしめた。昨日と同じ力で。昨日より強く。


「結城。文化祭が終わったら——放課後、家庭科室で待ってる」


「……家庭科室?」


「うん。片付けが全部終わったら来てくれ。話したいことがある」


結城は頷いた。涙の跡が頬に光っていた。


「……行く。絶対行く」


俺は結城の手を離した。布だけが結城の手に残った。


袖を出た。振り返らなかった。


---


午後一時。体育館が埋まった。


午前の倍以上。パイプ椅子は満席。立ち見が壁際まで。


有志バンドの転換。機材が運び込まれる。照明全灯。


ドラムのカウント。ギターが歪んだ和音を叩き込む。客席は総立ち。


一曲目。何も起きない。


二曲目に入った。ギターソロ。照明がフラッシュに切り替わる。


指先がぴりぴりした。


——ここだ。


前のループで煙が出た時間。パニックが起きた時間。


体育館を出た。走った。階段を駆け上がる。三階。


教室の前に来た。たこ焼き屋。ドアを開けた。


段ボールは壁際。ナプキンは棚の上。濡れ布巾は鉄板の周り。朝の段取りは効いている。


だが——鉄板の縁に、紙コップが置いてあった。


客が置いたのだ。ソースの入った紙コップ。底に油が溜まっている。鉄板の熱で、紙が変色し始めていた。


あと数秒で焦げる。焦げたら、油に火がつく。


颯太が鉄板の反対側でたこ焼きを焼いていた。客と話しながら笑っている。紙コップに気づいていない。


「颯太——!」


声を張った。颯太が振り向いた——が、目が俺を通過した。声は聞こえているのに、誰が呼んだか分からない。きょろきょろと周りを見ている。


届かない。声が届かない。


走った。客の間を抜けて、鉄板のそばに駆け寄った。紙コップに手を伸ばした。


指先が紙コップに触れた瞬間、底の油が熱で泡立った。紙の縁が茶色に変わっていく。あと一秒。


掴んだ。鉄板から引き剥がした。手が熱かった。油が指にかかった。皮膚が焼ける痛みが走った。


紙コップを床に落として踏んだ。油が靴の底で潰れた。火種が消えた。


教室にいた客は——誰も見ていなかった。颯太も見ていなかった。紙コップが消えたことに誰も気づいていない。


ただ、颯太が鉄板の向こうから首を傾げた。


「……今、なんか焦げ臭くなかった?」


隣の客が「気のせいじゃない?」と笑った。


颯太は「だよな」と笑って、たこ焼きをひっくり返した。


俺は教室の隅に立っていた。右手が赤くなっていた。油で火傷した指がひりひりする。痛みだけが、俺がここにいる証拠だった。


廊下に出た。壁にもたれた。


消えた。火種は消えた。煙は出ない。パニックは起きない。


右手をポケットに入れようとしたが、火傷が痛くて曲がらなかった。左手でポケットを探った。布はない。結城に渡した。


体育館に戻った。有志バンドの三曲目が響いていた。アンコールの歓声。


何も起きなかった。


看板は壁に貼ってある。非常口は開いている。使われなかった看板。使われなくてよかった看板。


誰も怪我をしなかった。黒瀬は額を打たなかった。結城は人波に巻き込まれなかった。妹は泣かなかった。


俺だけが、火傷した手を隠して、体育館の隅に立っている。


---


閉会式のアナウンスが流れた。客が帰り、片付けが始まった。


パイプ椅子が畳まれる。垂れ幕が降ろされる。


俺は体育館の隅から動かなかった。


颯太がたこ焼き器を洗いながら「今年最高だったな」と言っていた。


ほのかが教室で笑っていた。


黒瀬が看板を壁から剥がしていた。模造紙を丸めてゴミ袋に入れようとして——手が止まった。矢印を書いた字を見つめていた。見覚えがある。だが誰が書いたか分からない。


黒瀬は首を振った。看板をゴミ袋に入れた。出口に向かいかけて——俺の方を見た。


目が合った。数秒。黒瀬は何も言わなかった。朝教えた「相沢」は、もう残っていなかった。俺を見ている目に、名前の痕跡がなかった。ただ——知らない人間がそこにいる、という目だった。


黒瀬は視線を外した。看板のゴミ袋を持って、体育館を出ていった。


六回使った男でさえ、半日で忘れる。俺の名前は、その程度のものになった。


---


家庭科室に向かった。


約束した。文化祭が終わったら家庭科室で、と。結城に来てくれと言った。


だが結城は来るだろうか。約束した相手の名前を覚えていない人間が、約束だけを覚えていることがあるだろうか。


暗い廊下を歩いた。足音だけが自分に聞こえる。


家庭科室のドアは開いていた。誰もいない。夕日が窓から差し込んでいた。ミシンが並んだ長机をオレンジに染めている。


奥の棚にブリキの箱があった。引き出した。蓋を開けた。二重底の隠し蓋を持ち上げた。


紙があった。ルールが書かれた黄ばんだ紙。最後の行は空白。


引き出しからボールペンを取り出した。


紙の前に座った。


名前が消えていく。母からも颯太からも、もう消えた。黒瀬にも忘れてくれと言った。


誰かの記憶に残せないなら、紙に残すしかない。文字なら消えないかもしれない。インクなら、記憶と違って、蒸発しないかもしれない。


自分がいたことを。ここに誰かがいたことを。


ペンを構えた。紙の最後の行。


「——わたしは」


四文字を書いた。ゆっくりと。わ。た。し。は。


インクが紙に染みた。


続きを。名前を。


——名前。


自分の名前は、何だ。


今朝は分かっていた。朝、母が呼べなかった名前。颯太が出てこなかった名前。黒瀬に教えた名前。結城が一音目から先を言えなかった名前。


朝はまだ覚えていた。自分の名前を知っていた。


今は——分からない。朝は確かにあった輪郭が、夕方には溶けている。下の名前に至っては、音の欠片すら残っていない。


わたしは——誰だ。


ペンを動かした。何かを書こうとした。「わたしは」の先を。


書けない。


ペンは動く。インクは出る。文字の形も手が覚えている。だが——何を書けばいいのか分からない。自分の名前が分からないから、次の一文字が選べない。


紙の上には「——わたしは」だけが残った。


その先は白い。


ペンを置いた。


椅子の背もたれに体重を預けた。夕日が傾いている。家庭科室は静かだった。


---


廊下で足音がした。


遠い足音。少し早くて、少し軽い。


結城だ——と、思った。足音のリズムで分かる。


足音が近づいた。家庭科室のドアの前で止まった。


入ってきたのは結城だった。


制服。髪を耳にかけている。手に小さな布を握っている。


結城だ。分かる。顔も声も、髪を耳にかける癖も、全部覚えている。消えていない。俺の記憶から結城は消えていない。


だが結城の目は——俺を見ていなかった。俺のいる椅子の方向を見て、それから窓を見て、ミシン台を見て、ブリキの箱を見た。部屋の中を見回していた。探している目だった。


俺を見ていない。


俺はここにいるのに、結城の視線が俺の上を通過する。窓、壁、椅子、机。物だけが見えていて、椅子に座っている人間が見えていない。


「……おかしいな」


結城が呟いた。独り言だった。


「ここに来なきゃって思ったのに。誰もいない」


誰もいない。


俺がいるのに、誰もいないと言った。


「結城」


声を出した。


結城が一瞬だけ首を傾げた。何かが聞こえた、という反応だった。だがすぐに窓の外に目をやった。風の音だと思ったのかもしれない。


「結城」


もう一度。今度は大きく。


結城は反応しなかった。


聞こえていない。俺の声が、結城に届いていない。さっき颯太に声が届かなかったのと同じだ。だが颯太のときはまだ「誰かが呼んだ」と気づいていた。結城にはそれすらない。俺の声は、風と同じ音になっている。


立ち上がった。椅子が鳴った。結城がそちらを向いた——椅子を見た。椅子だけを見た。そこに座っていた人間は見えていなかった。


一歩近づいた。結城との距離が一メートルになった。


結城の目がこちらを向いている。向いているのに、焦点が合わない。俺の輪郭を、目が拾えない。透明な空気と、俺の身体の境界線が、結城の網膜の上で区別できなくなっている。


俺は結城を覚えている。全部覚えている。この髪を。この目を。この唇を。怒った顔を。泣いた顔を。クリームパンを頬張った顔を。手を握ったときの温度を。返し縫いの糸を引く指の動きを。


全部、覚えている。


なのに結城は——俺が見えない。


忘れられたくなかった。それだけだった。たったそれだけの願いで自分の名前を差し出した。差し出せば結城の記憶に残れると思った。残れなかった。名前どころか、姿ごと消えた。声ごと消えた。結城の世界から、俺がいた場所だけが空白になっている。


目の前にいる。手を伸ばせば届く距離にいる。なのに俺は、結城にとって「誰もいない部屋」の空気でしかない。


右手を伸ばした。結城の手に触れようとした。


指先が——結城の手の甲に届いた。


結城が息を呑んだ。


驚いた顔ではなかった。怖がっている顔でもなかった。もっと——深い場所を揺さぶられたような顔だった。手の甲を見つめていた。何も見えないのに、何かが触れている。


「……なに」


結城が呟いた。声が震えていた。


「なに、これ。手が——温かい」


結城の目に涙が滲んだ。理由が分からないまま泣いていた。


「なんで泣いてるの、私」


俺は指を結城の手の甲に置いたまま、動けなかった。


これが最後だと分かっていた。今触れているこの温度を、結城は覚えていてくれるかもしれない。名前は消えた。顔も消えた。声も消えた。でも——手のひらの温度だけなら。皮膚の記憶だけなら。


結城の涙が頬を伝って、顎から落ちた。膝の上の布に染みた。


俺は手を離した。


離した瞬間、結城は目を何度か瞬いた。手の甲を見た。涙を拭った。部屋の中をもう一度見回した。


「……誰もいない」


結城はそう言った。


小さく首を振って、布をポケットにしまった。家庭科室を出ていった。足音が廊下を遠ざかった。少し早くて、少し軽い足音。


俺はそこに立っていた。


右手のひらに、結城の体温が残っていた。結城が覚えていない温度を、俺だけが覚えている。


泣きたかった。声を出して泣きたかった。だが——誰にも聞こえない声で泣いて、何になる。


紙を見た。「——わたしは」。四文字だけの紙。


紙をブリキの箱に戻した。蓋を閉じた。棚に戻した。


家庭科室を出た。


暗い廊下を歩いた。校舎を出た。十一月の夜気が冷たい。星が出ていた。


角を曲がった。いつもの角。誰もいない。


右手のひらに、結城の体温がまだ残っていた。結城は気づかなかった。俺が触れたことも、そこに俺がいたことも。でも——泣いた。理由も分からず、涙を流した。


それだけが、俺がいた証拠だった。


---


朝の光。カーテンの隙間。


階段の下から声が聞こえた。


「——紬、早く降りてきなさい。遅刻するわよ」


母の声だった。


制服に着替える手が、ポケットの中で止まった。指先に小さな布が触れている。五センチ四方。固い結び目。なぜここにあるのか分からない。


机の上に通学鞄が置いてある。ネームタグが下がっていた。油性ペンで「結城 紬」と書かれた、自分の字。自分の名前。自分が誰かは分かる。分かるのに——この布を渡してくれた人が、分からない。


でも——捨てられない。


布を握ると手のひらが温かい。自分の体温ではない温度が染みている。


鏡の前で髪を整えながら、ポケットの布を握ったまま、しばらく動けなかった。


昨日、家庭科室で泣いた。理由が分からなかった。誰もいない部屋で、突然手の甲が温かくなって、涙が出た。それだけ。それだけなのに、胸の奥に穴が空いたような痛みがあった。


——誰かが、ここにいた気がする。


名前は出てこない。顔も浮かばない。声も思い出せない。


でも手の甲の温度だけが消えない。誰かの指が触れた感触を覚えている。何も見えなかったのに、そこに確かに誰かがいた。


それが誰なのか分からない。分からないのに胸が痛い。


「紬!」


母の声がもう一度。



「行ってきます」


家を出た。通学路を歩いた。


学校が近づくにつれて、ポケットの中の布が気になった。何度も指で結び目をなぞった。返し縫い。三重。自分が縫ったものだ。でも——誰のために縫ったのか、分からない。


校門が見えた。足が止まった。


風が頬を撫でた。冷たい。ポケットの中の布だけが温かい。


涙が出た。また。昨日と同じだ。理由が分からない。誰のことを思い出そうとしているのかも分からない。ただ胸が痛くて、布を握る手に力が入って、ここに立っていたら歩けなくなりそうだった。


布の温度が指先からじわりと昇る。


歩き出した。学校へ向かう道。朝の光。鞄を揺らして、少し早い足取りで。


右のポケットに手を入れたまま。布を握ったまま。


名前のない温度を、ほどけない糸ごと、連れて。


---


家庭科室のブリキ箱の中に、紙が一枚残っている。


薄い便箋。ボールペンの筆跡。


——わたしは


その先は、空白。


---


(終)

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