断ち切れた
もう大丈夫だと思った。
昨日の夕方、家庭科室の窓際で結城の手を握ったとき、本当にそう思ったのだ。右のポケットには五センチ四方の白い布。返し縫いで三重に閉じた、ほどけないお守り。あれがある限り、俺の指はボタンに届かない。結城が縫い止めてくれた糸が、俺と代償のあいだに割り込んでいる。
もう、ちぎらない。
その五文字を、昨夜、布団の中で何度も唱えた。唱えるたびにポケットの布に触れて、結城の指先の温度を思い出して、それで眠れた。
だから今朝、六時半のアラームが鳴ったとき、最初に感じたのは安堵だったはずだ。
——はずだった。
目を開ける前から、音が来ていた。
金属ではない。昨日までの、胸骨の裏で鉄板が共振するあの音ではない。今朝のそれは、もっと高くて細い。蛍光灯が切れかけるときの不快な周波数。耳の奥ではなく、皮膚の表面を走る。触れてもいないのに、指先がぴりぴりと熱い。
天井の染みを見つめた。嫌な予感だ。形はない。映像もない。ただ身体が知っている。今日は何かが来る。昨日とは質が違う。
階段を降りた。台所のテレビが朝のニュースを流していた。
『——昨夜未明、市内のコンビニエンスストアで現金およそ三十万円を奪った男が、依然として逃走中です。男は三十代から四十代、黒いパーカーにジーンズ姿で——』
母は流しで皿を洗いながら、テレビに背を向けていた。
「お母さん、行ってくる」
「はーい、お弁当はいらないのね?」
「うん。クラスでたこ焼き出してるから」
「そう。楽しんでおいで」
いつもどおりの朝だった。俺は玄関で靴を履いた。
制服の第二ボタンの縫い目に左手が触れた。硬い。結城が三重に巻いた糸。
右のポケットに手を入れる。布はある。体温を吸って温かい。
もう大丈夫だ。
三度目を唱えて、玄関を出た。
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角を曲がった。いつもの角。今朝は誰もいない。十一月の風が首筋に冷たい。指先の電気的な熱さだけが、朝の空気に馴染まない。
校門が見えた。昨日とは密度が違う。一般公開日だ。保護者、近隣の住民、他校の生徒。受付のテントに行列ができ、パンフレットを配る声が人波に押されている。
校舎に入ると廊下は人で溢れていた。模擬店の看板が並び、ソースと砂糖の匂いが混ざっている。うちのクラスのたこ焼き屋にも朝から列が伸びていた。颯太がたこ焼き器の前で「十五分待ちでーす」と張り上げている。
「相沢。実行委員のやつが言ってた、ガムテ余ってたら体育館持ってけって」
「分かった」
ガムテープを一巻き持って教室を出た。
階段の踊り場の掲示板に昨日付の連絡プリントが貼られていた。
『体育館ステージ設備について——昨日発生した金具の緩みに関し、本日朝、教職員および施設管理担当による安全点検を実施しました。吊り金具・横棒・安全ひもの固定を再確認し、使用に問題がないことを確認しています。——文化祭実行委員会』
吊り物については裏付けがある。だが俺の予感は、今日、吊り物ではない。
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体育館の裏口から入った。舞台袖に黒瀬がいた。安全ひもの張力を手で確認している。
「ガムテ」
黒瀬が受け取ってベルトに挟んだ。
「吊り物は」
「今朝、田中が業者呼んで全箇所見た。金具も横棒も安全ひもも問題ない」
「じゃあ昨日の件は潰せたか」
「吊り物に関しては、潰した」
黒瀬はそこで一度切って、俺を見た。
「——だが、まだ鳴ってる」
その一言で通じた。
「お前もか」
「朝から。昨日とは違う。質が違う」
「金属じゃない」
「ああ。もっと嫌な感じだ。皮膚が粟立つような」
黒瀬は袖の奥に目をやった。延長コードが三本、束ねられてガムテープで床に固定されている。一本は被膜が古く、踏まれた跡で樹脂が潰れ銅線が覗いている。
「被膜が死んでる。束ねは解く。位置もずらす」
黒瀬は束ねを解いて、被膜が潰れたコードは壁際に引き回した。
「先生には言ったか」
「言った。『例年通りだから問題ない』」
いつもの返事だった。
「束ねは解いた。位置もずらした。ブレーカーは午後のピーク前に確認する。今できるのはそこまでだ」
俺は頷いた。
「なあ、黒瀬」
「なんだ」
「こういうのはどうかな。もし何か起きたとき、俺がボタンでループして事故を防ぐ。で、それをお前のループでチャラにする。重ね掛けみたいに」
黒瀬は一拍、俺を見た。
「無理だろ」
「なんで」
「お前のそれは希望的観測だ。たぶん上書きされる。お前のループの上に俺のが被さって、お互い一回分ずつ増えるだけだ。代償も二人分。相殺にはならない」
「……でも試してないだろ」
「じゃあ試してみるか?」
淡々とした声だった。俺は少し考えて首を振った。
「いや——やめとこう」
「そうしろ」
沈黙が落ちた。
「……でも」と黒瀬が言った。「本当にお前がやばいときは——俺が試す。お前のループの上から被せて、代償を引き受けられるか。やってみる価値はある」
「やめろよ」
「お前には言わない。もし俺がそれをやったとしても、お前にはたぶん分からない」
黒瀬は壁にもたれて天井を見た。
「……俺もお前に言わないことにする」
「何を」
「もし俺が先にちぎったとしても。お前には言わない」
黒瀬は口の端をわずかに持ち上げた。
「お互い言わない。それが一番いい」
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午前のプログラムが回り始めた頃、体育館の入り口に見慣れない女の子が立っていた。
中学生くらいだ。セーターにプリーツスカート。きょろきょろとステージを見上げている。その子が黒瀬を見つけて、小走りに駆け寄った。
「——お兄ちゃん」
黒瀬の妹だった。
黒瀬が振り向いた。表情が一瞬だけ緩んだ。すぐにいつもの顔に戻って、「来たのか」と短く言った。
「お母さんが見ておいでって」
「……後でな。今忙しい」
「えー。せっかく来たのに」
妹はふくれっ面をしたが引き下がって、客席の後方に座った。
俺はそのやり取りを袖の影から見ていた。
妹が黒瀬を呼んだとき——「お兄ちゃん」の前に一拍の間があった。駆け寄る途中で足が止まりかけた一瞬。目が黒瀬を捉えているのに、口が動くまでに時間がかかった。
六回。黒瀬は六回使っている。一年間、代償を身体に溜めている。血の繋がった妹ですら、兄を認識するまでに一拍かかる。
七回目を使ったら——妹は兄の名前が出てこなくなるかもしれない。
黒瀬にはもう使わせられない。
俺はそのとき、はっきりとそう思った。
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結城が来たのは午前のプログラムが始まって少し経った頃だった。
「遅くなった。裏のパネル展示、画鋲が足りなくて」
「大丈夫」
「……大丈夫って顔じゃないけど」
午前は何事もなく進んだ。昼休憩のチャイムが鳴り、客席が一度はけた。
結城が体育館の裏口を出ながら「こっち」と言った。
非常階段の踊り場。コンクリートの段に腰を下ろす。十一月の風が吹き抜ける。文化祭の喧騒が壁一枚向こうに遠い。
結城がポケットからクリームパンをふたつ出した。
「食べてないでしょ」
「……なんで分かる」
「顔色」
ひとつ受け取った。並んで座ると肩が触れた。結城は避けなかった。
「……結城」
「うん」
「昨日のさ。傷、痛い?」
「これ? もう平気」
結城は右手の絆創膏を見せた。
「昨日——お前が横棒の下にいたとき。俺、何もできなかった」
「そんなことない」
結城は俺を見た。風で前髪が頬にかかっている。
「……恒一くんの声が聞こえたから、動けた」
恒一くん。
昨日まで「相沢くん」だった。それが——恒一くん。
心臓が跳ねた。
「……今、なんて」
結城は前を向いたまま、耳が赤くなっていた。
「……恒一くん」
二度目。風に攫われそうなほど小さい声だった。
「いつから」
「今日から。決めた」
「なんで」
「なんでだろ。昨日、手握ったときに、相沢くんは違うなって思った。でも呼び捨ても違う。だから」
結城はクリームパンの袋をくしゃくしゃに握った。
「……恒一くん、がいい」
喉が詰まった。名前を呼ばれただけだ。それだけのことなのに胸の内側が熱い。電気の予感とは全く違う熱さだった。
布を取り出した。五センチ四方。返し縫い。
「……持ってる」
結城の目が布に落ちた。
「ちゃんと持ってる」
「当たり前だ」
「当たり前じゃないよ。ボタンのほうが近いのに」
結城の左手が伸びた。俺の手のひらの上の布に指先が触れた。布を挟んで手のひらと指が重なった。
温かい。三層の温度。どこからが布でどこからが結城か分からない。
「……ほどけないからね、これ」
「知ってる」
「返し縫い三重。引っ張っても切っても解けない」
結城の指が布を握った。握ったまま離さなかった。
「——ずっと持ってて」
「……ああ」
「約束」
結城が顔を上げた。目が合った。目が少し赤い。感情が表面に浮きかけている色。
結城の指が離れた。布が手のひらに残った。ポケットに戻した。
非常階段を降りて体育館に向かう。並んで歩く。右手が布を握っていた。
——恒一くん。
あの声が、頭の中でもう一度鳴った。
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午後一時。体育館が再び埋まった。
午前の倍以上。パイプ椅子は満席。後方は立ち見が壁際まで。通路が細い。出入り口は肩が触れ合う密度。
黒瀬の妹は客席の中段に座っていた。
俺は客席後方、右側の出入り口の横で動線を見ていた。
演劇部。合唱部。吹奏楽。何も起きない。
延長コードは大丈夫だ。段取り通り潰した。
有志バンド。照明全灯。ドラムのカウント。ギターが歪んだ和音を叩き込む。客席は総立ち。手拍子が地響きになる。
一曲目が終わった。二曲目に入る。
指先がぴりぴりする。予感は消えていない。
——延長コードじゃない。
火元じゃない。——“人が崩れる音”だ。
予感の方向が違う。袖ではない。もっと遠い。体育館の外。
窓の向こうに校舎が見える。三階の窓に模擬店の装飾。
匂いがした。ソースではない。焦げた油。
窓の外を見た。校舎三階。窓の内側に煙が見えた。灰色の薄い煙。窓の上端に溜まってゆっくり流れている。
たこ焼き屋だ。
俺と黒瀬が朝から注意していたのは全部、違う場所だった。
体育館を出て走った。階段を駆け上がる。二階。三階。
教室のドアの隙間から煙が出ていた。開けた。たこ焼き器の横の段ボールが鉄板の縁に触れて焦げ、紙ナプキンの束に燃え移って小さな炎が上がっていた。まだ小さい。
消火器を廊下の壁から引き抜いた。ピンを抜いた。白い粉が噴射して炎を覆った。十秒で消えた。
だが——遅かった。
「火——!」の声はすでに廊下を走っていた。体育館でも窓の外の煙に誰かが気づいた。演奏が止まった。
その時、ドーン!爆発音!あたりが揺れる。
体育館の三百人と校舎の二百人以上が同時にパニックを起こした。
二つの人波が一階の昇降口で合流した。
三階から階段を降りた。一階。
昇降口は地獄だった。
幅四メートルもない空間に数百人が殺到している。押し合い。怒号。悲鳴。子どもを抱えた親が押し潰されかけている。老人が壁に張りつけにされている。靴が散乱し、転んだ人の上に人が覆いかぶさる。
人波に突っ込んだ。結城を探した。体育館の袖にいたはずだ。
押された。押し返された。肩をぶつけられ肘が脇腹に入り、それでも足を前に出した。
「結城——!」
騒音に呑まれた。
昇降口の右側、体育館側の出口付近に結城と黒瀬の妹がいた。結城が妹を壁側に押しやろうとしている。
黒瀬がいた。人波を割って辿り着いた黒瀬が、結城と妹を壁と自分の身体のあいだに挟んで、背中で人波を受けていた。
俺は人波を掻き分けて進んだ。あと三メートル。あと二メートル。
将棋倒しが始まりかけていた。出口付近で前列が詰まり、後列が押す。
人波の中で誰かが転んだ。連鎖した。倒れた人間の上に人が折り重なり、その衝撃が横方向に伝わって、黒瀬の背中を直撃した。
黒瀬の身体が前に跳ねた。両腕を壁に突いて耐えようとした。だが後ろからの圧力が止まらない。次の人間がぶつかった。黒瀬の腕が折れるように曲がり、頭がコンクリートの壁に叩きつけられた。
鈍い音がした。
黒瀬の額が割れた。血が流れた。
黒瀬の身体が崩れかけた瞬間、壁になっていたものが消えた。堰が切れるように人波が流れ込んだ。結城と妹は壁際の窪み——下駄箱の陰に押し込まれた。人の川が二人と俺のあいだを横切って流れている。
俺は黒瀬のすぐ横にいた。黒瀬が倒れかけるのを肩で支えた。
結城は下駄箱の陰で妹を抱えている。人波の向こう側だ。三メートル先。だが間に人の濁流が流れていて、こちらが見えない。妹を庇うことで手一杯だ。
いろいろな声が入り乱れている。——爆発に巻き込まれた。——重体のものがいる。——小さい子が動かない。——救急車。
黒瀬の目が泳いでいた。額から顎に血が伝って、制服の襟を染めている。
「黒瀬——!」
黒瀬の右手が、震えながら動いた。内ポケット。ボタン。予感が鳴っていたから持ってきていた、あのボタン。
朦朧とした目で、黒瀬が呟いた。
「……意識がある、うちに——」
意識が落ちたら使えない。巻き戻せない。だから今。血で濡れた指が内ポケットをまさぐっている。
——駄目だ。
さっきの妹の顔が浮かんだ。「お兄ちゃん」と呼ぶまでの一拍。六回分の代償。七回目を使ったら——もう戻らない。
俺は黒瀬の手首を掴んだ。
「——お前は使うな」
黒瀬の焦点が合わない目が、俺を見た。
「あい……ざわ……」
「俺がやる。お前は使うな」
黒瀬の口が動いた。声にならなかった。意識が落ちかけている。
黒瀬の身体を壁にもたせかけた。
人波はまだ流れている。結城は下駄箱の陰で妹を抱えたまま、こちらを見ていない。人の壁が隔てている。
右手がポケットの中で布を握っている。返し縫いの温度。恒一くんと呼んでくれた声。ずっと持ってて。約束。
ごめん。
左手がそこに行った。第二ボタン。三重の糸。
ちぎったら——誰かの名前を思い浮かべたら、その人が消える。
誰の名前も思い浮かべなければいい。誰のことも考えなければ、誰も消えない。
頭を空にしろ。名前を消せ。白鳥玲奈を消せ。藤崎ほのかを消せ。颯太を消せ。黒瀬を消せ。
結城を——
結城の顔が浮かんだ。
非常階段の踊り場。クリームパン。耳が赤い横顔。「恒一くん」と呼んだ声。布を挟んで重なった指。「ずっと持ってて」。「約束」。
消えない。
消そうとしても消えない。結城の名前が頭の中を占拠している。このままちぎったら結城が消える。結城が俺を忘れる。恒一くんと呼んだことを忘れる。全部忘れる。
——駄目だ。考えるな。結城を考えるな。
振り払おうとするほど輪郭が鮮明になる。声が鳴る。温度が蘇る。
——そうだ。
別の名前で上書きしろ。結城じゃない名前。誰でもない名前。
自分の名前だ。
うまくすれば、結城に忘れられることを回避できるかも。
相沢恒一。俺の名前だけを思え。俺の名前だけに集中しろ。
——わたしは。
紙の四行目。あの空白。あの四文字。
相沢恒一。相沢恒一。相沢恒一。
結城の顔が遠ざかる。恒一くんの声が薄れる。布の温度が指先から引いていく。
自分の名前だけが残る。
左手がボタンを掴んだ。三重の糸。硬い。
力を込めた。
結城。
浮かびかけた。
相沢恒一。
俺の名前だけだ。
相沢——
糸が、断ち切れた。




