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文化祭

朝。七時十五分。


目覚ましが鳴る前に目が開いた。


胸の奥で、金属の擦過音が鳴っていた。昨夜からずっと。眠っている間も止まらなかったのだと思う。目が覚めた瞬間に音があった、のではなく、音がずっとあったから目が覚めた。


文化祭当日。一日目。


制服に着替えた。ポケットに手を入れた。白い布切れに指が触れた。結城のお守り。五センチ四方。返し縫い。昨夜握ったまま眠って、布団の中から出てきたのをポケットに戻した。


布に触れると、指先に温度が蘇った。昨日の昼、結城の指が手のひらに触れたときの温度。


階段を降りた。母がキッチンに立っていて、「今日文化祭でしょ、お弁当作ったよ」と言った。


「……ありがとう」


「楽しんできなさい」


玄関を出た。空気が冷たかった。秋の朝。空は高くて、雲が薄く伸びている。文化祭日和だった。


角を曲がった。


足が止まった。


ほのかが——立っていた。


角のところ。電柱の横。鞄を両手で前に持って、ぼんやりと前を見ていた。まるで、誰かを待っているように。


心臓が跳ねた。


昔の光景だった。小学校の頃から、ほのかはいつもこの角で待っていた。俺が来るのを。二人で並んで歩くために。高校に入ってからも、何度もこの角で合流した。


ほのかが——待っている。


足が動いた。ゆっくり。近づいていく。十メートル。五メートル。ほのかはまだこちらを見ていなかった。ぼんやりと、通りの先を見ている。


三メートル。


声をかけようとした。名前を呼ぼうとした。喉まで来ていた。


そのとき、ほのかの目が——すっと変わった。


ぼんやりしていた目に、意識が戻った。焦点が合った。周囲を見回して、自分が立っている場所を確認するように首を動かした。


「……あれ」


ほのかが呟いた。小さな声。独り言。


「わたし……誰か待ってた?」


俺のほうは見ていなかった。自分自身に聞いているような声だった。首をかしげて、もう一度通りの先を見て——何も見つからなくて、鞄を持ち直して、歩き出した。


一人で。


俺の横を通り過ぎていった。目は合わなかった。ほのかは俺のことを見ていなかった。角で誰かを待っていた感覚だけが身体に残っていて、でもその理由も相手も思い出せなくて、そのまま歩いていった。


残響。記憶は消えても、身体が覚えている習慣。毎朝この角で待っていた十何年分が、今朝だけ、ほんの一瞬だけ、ほのかの足を止めた。


でも——一瞬だった。もう歩き出している。振り返らない。


俺は角に立ったまま、ほのかの背中が見えなくなるまで見ていた。


---


校門を入ると、空気が変わっていた。


いつもの学校ではなかった。校舎の壁にポスターが貼られ、昇降口の前にアーチが組まれている。色とりどりの装飾。風船。手書きの看板。BGMが校内放送で流れていて、どこかのクラスがリハーサルの声出しをしている。


文化祭の一日目。生徒だけの日。明日が一般開放で保護者や外部の客が入る。今日は校内公開。それでも、いつもの学校とは空気が違っていた。


教室に向かった。机は全部廊下に出されていて、教室の中はたこ焼き屋の店舗に変わっていた。鉄板が二台並んで、紙皿と割り箸が段ボールから出されている。ソースの匂いがすでに漂っていた。


「相沢! どこ行ってたんだよ!」


颯太が鉄板の前に立って叫んだ。エプロンをつけて、お玉を振っている。


「いや、体育館で椅子の——」


「はあ? お前実行委員じゃないだろ。こっち手伝えよ。たこ焼き器の火加減分かんないし、生地がゆるいし、ほのかはソース買ってこいって出てったきり戻んねーし」


「…………分かった」


エプロンを受け取った。鉄板の前に立った。たこ焼きの生地を流し込んで、具を入れて、竹串で回す。颯太が横で「もっと手首使え」とうるさい。


文化祭だった。普通の文化祭だった。たこ焼きを焼いて、他のクラスの生徒が買いに来て、「おいしい」とか「焦げてる」とか言って。教室の中は煙と油の匂いで充満していて、換気扇が回っていて、BGMが流れていて。


ほのかが戻ってきた。ソースとマヨネーズを抱えて。「遠いとこまで行っちゃった」と言って笑った。俺のほうは見なかった。颯太に袋を渡して、鉄板の隣に立って、紙皿にたこ焼きを並べ始めた。


ほのかの横で、たこ焼きを焼いた。二人の間に会話はなかった。ただ作業が並行しているだけ。同じクラスの、知らない人同士として。


十時になった。


「颯太、俺ちょっと体育館行ってくる」


「また体育館? お前マジなんなの」


「すぐ戻る」


「戻んなかったらたこ焼き全部食うからな」


颯太の声を背中に受けて、教室を出た。


---


体育館。


午前中はステージプログラムのリハーサルと最終調整の時間。本番は午後一時から。


体育館の中には舞台班と実行委員だけがいた。扉は閉まっている。


垂れ幕が、本番の高さで吊られていた。紅い布。天井のフレームからワイヤーで固定された横棒。結城が補強した三つの吊りループ。安全ひもが四本。


黒瀬がステージの中央に立っていた。腕を組んで、天井を見上げている。


「相沢。動線」


俺はパイプ椅子を並べ始めた。動線図の通りに。垂れ幕の真下にあたるエリアの手前に、椅子を横向きに置く。自然な通行止め。


「黒瀬、安全ひも」


「四本。全部確認済み。金具も昨夜交換した。ワイヤーの張りも問題ない」


黒瀬の声は硬かった。目の下にくまがある。でも手は震えていなかった。


結城が体育館の袖から出てきた。


「ループ、最終確認した。三つとも問題ない。縫い目も糸の張りも大丈夫」


結城の声は落ち着いていた。でも目の下にくまがあった。


「道具は」


「持ってない。——これだけ」


結城がポケットから小さな糸切りばさみを出した。


「非常用。何かあったときだけ」


黒瀬が結城を見た。一瞬だけ目が細くなった。


「……いい。持っとけ」


三人で体育館の中を歩いた。ステージ、客席、袖、裏。動線を確認して、安全ひもを目視して、金具の位置を指さし確認した。


---


午後一時。ステージプログラム開始。


体育館の扉が開いた。生徒が入ってきた。


客席が埋まっていく。今日は生徒だけだから、明日の一般開放ほどの人数にはならない。でも二百人近くが座っていた。通路に座り込む生徒もいた。


動線は——かろうじて機能していた。椅子の通行止めを迂回する生徒がほとんどだった。でも何人かが「なんでここ通れないの?」と聞いてきた。「安全のため」とだけ答えた。


一つ目のプログラム。吹奏楽部の演奏。音が体育館を揺らした。床が振動する。振動が天井に伝わる。垂れ幕が微かに揺れた。


胸の奥の擦過音が一段詰まった。


二つ目のプログラム。合唱。休憩時間に、三上沙耶がクリップボードを持ってステージに上がってきた。


「すみません。次のプログラムの転換確認なんですが——舞台担当の方は……」


三上は黒瀬を見た。目が止まった。名前を探している口の動き。出てこない。昨日、俺が「黒瀬」と教えた。でもその記憶は一晩で消えている。三上にとって黒瀬はリスト入りした相手だから。


「……えっと」


三上の視線が泳いだ。胸元に手を当てた。無意識の仕草。名前が出てこない。顔は見覚えがあるような気がする。でもどこで会ったのか分からない。


「黒瀬です」


黒瀬が短く言った。天井を見たまま。


「黒瀬さん——」


三上はその名前を反復した。今朝初めて聞いた名前として。


「次のダンス部の転換で、照明の位置を少し変えたいって話が——」


「変えない」


黒瀬の声が硬かった。


「照明は今の位置で固定する。脚立を動かさない。転換は袖からの出ハケだけ」


三上は少したじろいだ。


「……分かりました」


三上はステージを降りていった。途中で一度だけ振り返って、黒瀬を見た。何かを思い出しかけたような目。でもすぐに前を向いて歩いていった。


---


午後二時。三つ目のプログラム。ダンス部。


ステージ上に六人が並んだ。曲が流れ始めた。照明が切り替わる。赤、青、白。


六人が踊り始めた。


床が揺れた。振動が骨を伝うような揺れだった。足の裏から脛、膝、腰、胸——全身に床の震えが上がってきた。客席にも二百人近い生徒が座っていて、その重量が床にかかっている。


垂れ幕が揺れた。昨日のリハーサルより大きく。


俺の胸の中で、金属の擦過音が一気に密度を上げた。連打。警告。


天井を見上げた。


金具は動いていなかった。ワイヤーも張っている。安全ひもも四本とも健在。でも——吊りループの一つが、昨日と違う角度で引っ張られていた。振動と重量の複合で、横棒にかかる力の方向が変わっている。結城の返し縫いは縦方向の荷重に強い。横方向にねじれるような力がかかったら。


黒瀬も見ていた。ステージ袖で天井を凝視していた。腕を組んだ手が白くなっていた。


曲のサビ。六人が同時にジャンプした。


床が大きく揺れた。振動が骨を伝うような揺れだった。


天井で、金属が鳴った。


高い音。弦が切れるような、甲高い一音。


横棒の左端の金具が——外れた。


ワイヤーが一本、張力を失って垂れた。横棒が左に傾いた。大きく。昨日の比ではなかった。安全ひもが二本同時に張って、横棒を受け止めた。ロープの繊維が悲鳴のような軋みを上げた。


垂れ幕が——膨らんだ。


紅い布が風をはらんだように大きく動いた。傾いた横棒に引っ張られて、布全体がねじれた。その力が、二番目の吊りループの根元にかかった。


結城の返し縫いは持っている。ループの糸は切れていない。


でも——ループを縫い付けてある布地そのものが、横方向の力に耐えきれなかった。


びり、という音がした。


布が裂ける音。乾いた、繊維がちぎれる音。体育館の空気を切るような音。


二番目のループの根元から、垂れ幕の布に亀裂が走った。十センチ。二十センチ。裂け目が広がっていく。


安全ひもが横棒を支えている。落ちてはいない。でも裂け目が三番目のループまで届いたら、布の重さの配分が変わる。横棒が回転するように傾く。安全ひもが一方向に引っ張られて、支点が変わって——。


計算ではなかった。身体が描いた。音が輪郭を作って、落下の軌道を脳に叩き込んだ。


あと何秒あるか分からなかった。十秒かもしれない。三秒かもしれない。


結城が——垂れ幕の裏にいる。


黒瀬の声が聞こえた。「止めろ!」。遠い。


走った。


客席の端を蹴った。パイプ椅子に脚をぶつけた。痛みは遅れて来た。ステージの横を回り込んだ。袖の幕を掴んで身体を振った。暗い。舞台裏は暗い。機材の影。大道具の角。紅い布の裏側。


結城がいた。


上を見上げていた。右手に糸切りばさみ。裂け目を見ている。何かを判断しようとしている顔。怖がっている顔ではなかった。縫い手としてループを見ている顔だった。


「結城!」


結城が振り向いた。


「布が——裂け始めてる。二番目の根元。縫い目じゃない。布自体が——」


頭上から、金属が叫んだ。


横棒がさらに滑った。安全ひもが限界まで張った。三本のロープが同時に軋む音。体育館の天井に反響して、和音のように重なった。


紅い布が——落ちてきた。


垂れ幕そのものが落ちたのではない。裂けた布の一部が、自重で垂れ下がった。横棒はまだ安全ひもで止まっている。でも裂け目から下の布が、カーテンを引き裂いたように垂れて、結城の頭上を覆った。


紅い布の向こうに、結城の顔が消えた。


一秒。


世界が止まった。


音が消えた。曲も、叫び声も、金属の軋みも、全部消えて、紅い布の向こう側にいる結城のことだけが頭にあった。


手が——動いた。


右手がそこに伸びた。第2ボタンに。指先が樹脂の丸い輪郭に触れた。布地越しに硬さが伝わった。ここを握る。引く。ちぎれる。朝に戻る。


全部やり直せる。


結城は怪我しない。垂れ幕は落ちない。金具は最初から交換できる。完璧に。


——代わりに。


使うな


白鳥玲奈(消えた)


藤崎ほのか(消えた)


四行目。空白。ここに入る名前は——。


結城の声が鳴った。頭の中で。


「——ほどけないように縫ったから。何があっても」


指が、ボタンの上で止まった。


離した。


右手をポケットに突っ込んだ。白い布切れ。返し縫い。ほどけない糸。それを握った。


紅い布の向こうに手を伸ばした。


布を掴んだ。引いた。重かった。垂れ幕の厚い布地が腕にまとわりついた。紅い色が視界を埋めた。でも構わなかった。布の向こうに手を突っ込んで、結城の腕を探した。


触れた。


結城の腕。制服の袖。細い。でも確かに、そこにいた。


掴んだ。引いた。


「——来い!」


結城の身体が動いた。紅い布の中から。俺のほうに。垂れ幕の真下から、横に。


布をくぐって、結城が出てきた。髪に紅い繊維がついていた。目が大きく開いていた。


その直後——頭上で、布が完全に裂けた。


二番目のループの根元が引きちぎれて、横棒の重さが残りの二つのループと安全ひもに移った。横棒が大きく傾いた。安全ひもが三本で支えた。落下はしなかった。


でも——ループが裂けたときの衝撃で、横棒に巻き付いていたワイヤーの端が鞭のようにしなった。


金属の細い線が、暗いステージ裏を走った。


結城の右手を、かすめた。


結城が息を飲んだ。


手の甲に、赤い線が引かれていた。血が、ゆっくりと滲んだ。


それだけだった。


それだけで、済んだ。


---


体育館が止まった。


曲は途中で止められていた。ダンス部の六人はステージの端に固まっていた。客席の生徒が全員天井を見上げていた。傾いた垂れ幕。張った安全ひも。


黒瀬がステージ裏に飛び込んできた。


俺と結城を見た。結城の右手の血を見た。裂けた布を見た。傾いた横棒を見た。


何も言わなかった。


先生が来た。実行委員が来た。


「大丈夫か!」「怪我は!」


結城は「大丈夫。浅いから」と言った。声は震えていなかった。でも糸切りばさみを握った左手が白くなっていた。


黒瀬が先生に向かって言った。


「体育館を閉鎖してください。吊り物の安全確認が終わるまで、中に人を入れないでください」


先生は今度は笑わなかった。


---


体育館が閉鎖されて、生徒が退出していった。


舞台裏の壁に、二人で座っていた。並んで。壁の冷たさが背中に伝わる。頭上で傾いたままの垂れ幕が、静かに揺れていた。


結城の右手に、俺のハンカチが巻かれていた。白いハンカチに赤い点が滲んでいる。結城が「汚れるよ」と言ったのを無視して巻いた。


しばらく、何も言えなかった。


隣で、結城の呼吸が聞こえていた。少しだけ速い。まだ戻りきっていない。


「……持った」


結城が最初に口を開いた。


「返し縫い、持ったね。裂けたのは布で、縫い目じゃなかった」


「……ああ」


「よかった」


結城の声が、震えた。ほんの少し。さっきまで冷静だった声が、安堵で溶けたように揺れた。


「怖かった?」


「怖くなかった」


結城は即答した。でも、三秒くらいしてから、付け足した。


「……嘘。今、来てる。あとから」


結城の左手が、膝の上で震えていた。


「相沢くん」


「……うん」


「さっき——ボタンに手いってた」


心臓が止まった。


「ボタン。掴もうとしてたでしょ」


否定できなかった。結城はステージ裏の暗闇の中でも、俺の右手がどこに行ったか、見ていた。


「……ちぎらなかったね」


結城の声は、責めていなかった。確認だった。


「ちぎらなかった」


「うん」


沈黙が落ちた。体育館の外から先生の声が遠く聞こえている。


「……ありがと」


結城が言った。


「何が」


「全部」


結城が——泣いていた。


泣いている、というほどではなかった。目の端が光っていて、まつげが濡れていて、でも頬には流れていなかった。溜まっているだけ。溢れる手前で止まっている。


「泣くなよ」


「泣いてない」


「泣いてるよ、これは」


「泣いてない。——目が潤んでるだけ」


「同じだろ」


「違う」


結城は袖で目元を拭った。乱暴に。それから、拭った手を膝に戻して——少しだけ、俺のほうに身体を傾けた。


肩が触れた。


制服越し。布越し。でも今日は昨日より重かった。結城の体重が、ほんの少しだけ俺の肩に預けられていた。


「……怖かったのは」


結城が、肩を預けたまま言った。声が近かった。耳のすぐ横で聞こえた。


「布が落ちてきたことじゃなくて」


「…………」


「相沢くんの手が、ボタンに行ったこと」


俺は何も言えなかった。


「もしちぎってたら——私、明日相沢くんのこと忘れてるかもしれなかったんでしょ」


「…………たぶん」


「たぶん、じゃなくて——忘れたくなかった」


結城の声が、震えた。さっきとは違う震え方。恐怖ではなかった。


「こうやって隣にいることも、お守り渡したことも、パン買ったことも——全部忘れたくなかった。相沢くんが誰だか分からなくなるの、絶対嫌だった」


結城の肩が、少しだけ強く押しつけられた。


「だから——ちぎらなくて、ありがとう」


俺は天井を見ていた。傾いた垂れ幕。張った安全ひも。裂けた布。全部が視界に入っているのに、何も見えていなかった。隣にいる結城の温度だけが、はっきりと分かった。


「……結城」


「うん」


「……お守り」


「うん」


「ずっと握ってた。さっきも。ボタンの代わりに」


結城の肩が、ぴくっと動いた。


「……ほんとに?」


「ほんとに」


「…………」


結城は何も言わなかった。でも、握る力が少しだけ強くなった。体重が少しだけ重くなった。完全に預けている。


しばらく、そのままでいた。


舞台裏のこの場所だけ、静かだった。紅い布のカーテンの内側で、二人だけの静寂があった。


結城の髪が俺の首に触れていた。シャンプーの匂い。かすかに。紅い布の繊維がまだ結城の髪についていて、俺の制服の肩にも移った。


先生の足音が舞台裏に近づいてきたとき、結城は身体を起こした。さっと。何事もなかったように。


でも、肩に温度が残っていた。結城の体重と、結城の髪の匂いと、結城の声が、全部残っていた。


---


夕方。


体育館の安全確認が終わるまで、残りのステージプログラムは明日に延期になった。明日は一般開放日。保護者も外部の客も入る。今日より人が多い。


垂れ幕は降ろされた。横棒も外された。安全ひもとワイヤーが解かれて、天井のフレームだけが残った。


結城の右手の傷は、保健室で消毒と絆創膏の処置を受けた。浅い切り傷。痕は残らないだろうと言われた。


教室に戻ると、たこ焼き屋は営業を続けていた。颯太が「遅いぞ」と文句を言いながら、たこ焼きを一皿分けてくれた。ソースの味がした。


---


放課後。家庭科室。


文化祭の一日目が終わって、校舎は静かになっていた。


家庭科室のドアを開けた。結城がいた。窓際の作業机に座っていた。右手にはまだ絆創膏が貼ってある。


「……来た」


「来た」


椅子を引いて、向かいに座った。窓から夕日が入っている。オレンジ色の光が、結城の横顔を染めていた。


しばらく何も言わなかった。言う必要がなかった。


結城がお手洗いに立った隙に、棚からブリキの箱を出した。


蓋を開けた。紙を取り出した。何度も読んだ紙。最後の行を見た。


なかった。


「——わたしは」が——消えていた。


紙を光に透かした。ルール。代償。血縁の例外。全部ある。でも最後の一行だけが白紙だった。鉛筆の跡すらない。


他の文字は全部残っている。ここだけ——この四文字だけが、消えた。


胸の奥で、小さな音がした。金属ではなかった。もっと静かな音。何かが閉じるような音。


紙を持ったまま、結城が戻ってくるのを待った。


ドアが開いた。結城が入ってきた。


「結城。これ、見てくれ」


紙を差し出した。結城が受け取って、目を通した。


「……この紙がどうかした?」


「最後の行」


「最後?」


結城は紙の下端を見た。白紙の部分。


「……何もないけど」


「前に——ここに文字があっただろ。『——わたしは』って。途切れたまま終わってるやつ」


結城が首をかしげた。


「……ないよ? 前から」


「前からって——結城も読んだだろ。最初にこの紙を見たとき」


「読んだけど——最後の行なんてなかったと思う。ルールが書いてあって、そのあとは白紙だったよ」


結城は紙を裏返した。表に戻した。もう一度最後の行を見た。


「……相沢くん、ほんとにあった?」


あった。確かにあった。俺はこの目で読んだ。黒瀬の字とも違う、もっと古い筆跡で。途切れたまま終わっている四文字。


でも——結城には、最初から見えていなかった。


「…………」


「相沢くん?」


「……いや。俺の勘違いかもしれない。ごめん」


結城は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。紙を箱に戻した。蓋を閉めた。棚に戻した。


俺は椅子に座ったまま、自分の手のひらを見ていた。


あの四文字は——俺にだけ見えていた。そして今日、消えた。


意味は分からなかった。分からなかったが、背筋が冷えた。


---


結城が窓際に戻ってきた。座らなかった。立ったまま、窓の外を見ていた。夕日が沈みかけている。


「今日さ」


結城が窓の外を見たまま言った。


「舞台裏で——手、握ったでしょ」


「…………」


「あれ——私から握ったんだよね」


「……そうだな」


「恥ずかしかったんだけど、今更」


結城が振り返った。夕日を背にしていて、表情が逆光で見えなかった。でも声は——笑っていた。たぶん。


「……今更なの」


「今更。あのときは必死で、あとから考えたら恥ずかしくて死にそう」


「……死ぬな」


「死なないけど。——ねえ、相沢くん」


「うん」


「こっち来て」


結城が窓の前に立っていた。夕日の逆光。シルエットだけが見えて、表情が見えない。


椅子から立った。結城の前まで歩いた。二歩分の距離。


結城が俺を見上げた。逆光が消えて、顔が見えた。目の下のくま。少しだけ赤い鼻。唇が微かに震えている。


「手」


結城が左手を出した。手のひらを上にして。


俺は手を重ねた。結城の手の上に、自分の手を。


結城の指が俺の指の間に滑り込んだ。はっきりと。迷わずに。


握った。握り返された。


結城の手はあたたかかった。


「……あったかい」


「結城のほうが」


「嘘。私いつも手冷たいって言われる」


「今は、あったかい」


「……そう」


夕日が沈んでいく。家庭科室がオレンジ色から薄紫に変わっていく。窓の外の空が刻々と色を変えていく。


「相沢くん」


「うん」


「明日——何かあっても、ちぎらないで」


「…………」


「約束しなくていい。——ただ、これだけ覚えてて」


結城は繋いだ手を、少しだけ持ち上げた。二人の手を。窓の光にかざすように。


「私が——こうしてたこと」


指が重なっている。結城の指と俺の指。家庭科室の夕日の中で。


「記憶が消えるとか、名前を忘れるとか——そういう話をずっとしてきたけど」


結城の声が、少しだけ揺れた。


「これは——忘れたくない」


俺は結城の手を見ていた。小さくて、細くて、返し縫いをする手。ボタンのループを補強した手。お守りを縫った手。糸切りばさみを握った手。


この手が、俺の手を握っている。


「……忘れない」


声が掠れた。


「忘れさせない」


結城の目が見開いた。少しだけ。それから——笑った。今日初めて、ちゃんと笑った。目尻が下がって、頬が上がって、夕日の光が目の中に入って、きらきらと光った。


「……それ、ずるい」


「何が」


「そういうこと言うの、ずるい」


結城は顔を伏せた。握った手はそのまま。耳の先が、夕日のせいだけではなく、赤かった。


「…………ずるくていいだろ」


「……よくない。心臓うるさくなる」


「俺もうるさい」


「…………嘘」


「嘘じゃない」


結城は顔を伏せたまま、繋いだ手を少しだけ引いた。引かれて、一歩近づいた。結城の額が、俺の鎖骨のあたりに近づいた。当たってはいない。あと五センチ。


結城の呼吸が、制服越しに伝わってきた。あたたかかった。


「…………もうちょっとだけ、このまま」


結城の声は、ほとんど聞こえなかった。


「……うん」


繋いだ手の中に、あの布切れの感触がまだ残っていた。ポケットの中の、五センチ四方のお守り。返し縫い。ほどけない糸。今日、ボタンの代わりに握ったもの。


握ったとき——手が止まった。ボタンではなく、これを握ったから、止まれた。


結城の温度と、結城の糸が、俺の手を引き戻した。


もう大丈夫だと思った。


この手は——もうボタンには伸びない。この手が覚えているのは、樹脂の硬さではなく、結城の指の温度だ。返し縫いの糸の手触りだ。ちぎる手ではなく、繋ぐ手だ。


もう、ちぎらない。


結城がここにいる。結城の手がここにある。ほどけない糸で縫ったお守りがポケットにある。それだけで——もう、あのボタンに手を伸ばす理由がない。


家庭科室の窓の外で、最後の夕日が沈んだ。空がオレンジから紫に、紫から紺に変わっていく。


ミシンの匂い。布の匂い。糸の匂い。この部屋の匂い。全部が、この瞬間に溶けていた。


繋いだ手を、離さなかった。


どこかで、文化祭の片付けの音が聞こえていた。金属が当たる音。段ボールを潰す音。笑い声。


明日が来る。文化祭の二日目が来る。人が増える。何かが起きるかもしれない。


でも——もう、ちぎらない。


この手は、もう繋ぐためにある。


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