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リハーサル

目が覚めたとき、最初に聞こえたのは心臓の音だった。


いつもより速い。布団の中で胸に手を当てると、脈が指先に当たる。まだ何も起きていない朝なのに、身体がもう走り始めていた。


リハーサルの日だ。文化祭前日。


制服に着替えて、階段を降りた。母がキッチンに立っていて、「今日お弁当いるの?」と聞いてきた。「いらない」と答えた。食欲がなかった。


玄関を出た。いつもの道。いつもの角。


角を曲がったところで、前からほのかが歩いてきた。一人だった。鞄を肩にかけて、少しだけ俯いて。


すれ違った。


五歩分の距離が縮まって、ゼロになって、また開いていく。ほのかは俺を見なかった。昨日、教室で「相沢くん」と呼んでくれた声が嘘みたいに、今朝のほのかは誰とすれ違ったかも気にしていなかった。


リスト入りした相手は、新しい記憶も一晩で定着しない。昨日の会話も、シャーペンを返したことも、「空っぽ」だと打ち明けてくれたことも——朝が来れば、また白紙に戻る。


毎日がリセットされる。ボタンを使わなくても。


ほのかの背中が角を曲がって見えなくなった。胸に手を当てる仕草は、もうなかった。


---


教室に入ると、すでに騒がしかった。文化祭前日の教室は作業場と化していて、段ボールと模造紙とガムテープの匂いが充満している。黒板に「あと1日!!」と書いてあって、誰かが横にたこ焼きの絵を描き足していた。


颯太が段ボールカッターを振り回しながら「相沢、看板の字、お前が書けよ。俺より字うまいだろ」と言ってきた。


「……別にうまくない」


「じゃあマシなほう。頼む」


マジックを受け取って、模造紙の前にしゃがんだ。「たこ焼き」と書く。書きながら、二列隣の窓際にほのかが座っているのが視界の端に見えた。頬杖をついて、窓の外を見ている。


マジックのインクが模造紙に滲んだ。手に力が入っていなかった。


一限の英語が始まっても、胸の奥の圧迫感は消えなかった。金属の擦過音が、断続的に鳴っている。小さな音。誰にも聞こえない音。朝からずっと。


---


昼休み。家庭科室。


ドアを開けると、結城はいなかった。


机の上に、紅い布が畳まれて置いてある。三つ目の吊りループの補強が終わったらしい。布の横に、道具箱が閉じたまま置かれている。その上に、小さな付箋が貼ってあった。


「体育館に届けてくる。すぐ戻る。——待ってて」


結城の字だった。小さくて、丁寧で、少しだけ右に傾いている。


「待ってて」。その三文字を、しばらく見ていた。


椅子に座った。結城を待つのは初めてではない。でも「待ってて」と書き残されたのは初めてだった。


五分ほどして、廊下を走る足音が聞こえた。ドアが開いた。結城が入ってきた。息が上がっていて、頬が薄く上気している。


「ごめん、ちょっとかかった——」


俺を見て、足が止まった。


「……待っててくれたんだ」


「待っててって書いてあったから」


「…………うん」


結城は少しだけ笑って、俺の向かいの椅子に座った。鞄からビニール袋を出した。今日は焼きそばパン。


「食べて」


「今日は買いすぎたとか言わないのか」


「……言おうと思ったけど、毎回嘘だってバレてる気がしたから、やめた」


結城は目を逸らした。耳の先が赤い。


パンを受け取った。袋を開ける。焼きそばパンの匂いがした。


「結城も食べないの」


「食べた。購買で」


「何食べた」


「……焼きそばパン」


同じものだった。


「お揃いじゃん」


何気なく言った。言ってから、しまったと思った。結城の耳がさらに赤くなった。


「……たまたま」


「たまたまか」


「たまたま」


結城は道具箱を引き寄せて、蓋を開け始めた。何かを片づけるふりをしている。でも中身を出して、また戻して、意味のない動作を繰り返していた。


「結城」


「何」


「ループの補強、三つ全部終わったんだろ」


「……うん」


「今日の放課後は? 何か作業ある?」


「ない。補強は終わった。あとは明日の本番まで触らないほうがいい」


「じゃあ——」


言いかけて、止まった。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。じゃあ一緒に帰ろう、と言おうとしたのかもしれない。でもそれは今の状況で言うべき言葉ではない気がして、口が止まった。


「……じゃあ?」


結城が、こちらを見ていた。道具箱の蓋に手を置いたまま。


「……いや。何でもない」


「何でもなくない顔してる」


「何でもない」


「…………」


結城は道具箱を閉じた。それから椅子を少しだけ俺のほうに寄せた。机の角を回り込むように。距離が近くなった。


「相沢くん」


「……うん」


「右手、出して」


「え?」


「いいから」


意味が分からなかったが、右手を出した。手のひらを上にして、机の上に。


結城が自分の鞄から何かを取り出した。小さな布の切れ端。五センチ四方くらいの、白い布。端切れの練習で使っていたものだと思った。


結城はそれを俺の手のひらの上に置いた。


「……何これ」


「お守り」


「お守り?」


「端切れで作った。返し縫いで。——ほどけないやつ」


布の端を見ると、白い糸で細かく縫い止めてあった。結城の返し縫い。一針戻って、二針進む。端がほつれないように、丁寧に、全周を縫い止めてある。


「……いつ作った」


「昨日の夜。練習のつもりで縫ってたら、なんか——そのまま仕上げちゃった」


結城は俺の手のひらの上の布切れを見ていた。俺の手のひらも見ていた。


「明日、ポケットに入れといて。……別に効果とかないけど」


「…………」


「お守りって言ったけど、ただの布だから。結城紬が返し縫いで縫った、ただの布。でも——」


結城の指が、俺の手のひらの上の布に触れた。布を直すように。位置を整えるように。でもその動作のあとも、指が離れなかった。


結城の指先が、布を挟んで、俺の手のひらの上にあった。


「——ほどけないように縫ったから。何があっても」


結城の声が、小さかった。


心臓がうるさかった。手のひらが熱かった。布越しに、結城の指の温度が伝わっていた。


「……ありがとう」


声が掠れた。


結城は指を離した。さっと。何事もなかったように椅子を戻して、立ち上がった。


「午後、体育館でしょ。遅れないでね」


「……遅れない」


「パン、全部食べた?」


「まだ半分」


「全部食べて」


結城は鞄を持って、家庭科室を出ていった。ドアが閉まる直前に、一瞬だけこちらを見た。目が合った。結城の目は少しだけ潤んでいて——でもすぐにドアが閉まった。


手のひらの上に、白い布切れが残っていた。五センチ四方。返し縫い。ほどけない糸。


握った。ポケットに入れた。


焼きそばパンの残りを食べた。冷めていたけど、味がした。


---


午後。体育館。


五限と六限が文化祭準備の作業時間に充てられている。体育館の扉を開けると、すでに二十人近い生徒が動いていた。ステージ上に脚立が三つ。照明の三脚が袖に並んで、音響のスピーカーが床に仮置きされている。


垂れ幕が、本番の高さに上がっていた。


紅い布が、天井のフレームから吊り下がっている。結城が補強した吊りループが三つ、横棒の重さを受けている。安全ひもが三本、横棒と天井フレームの間に白いロープで渡してある。


黒瀬がステージの上手にいた。照明担当の生徒に指示を出している。いつもの格好。袖まくり、結束バンド、カラビナ。


俺は客席側に立って、黒瀬から渡された動線図を確認した。垂れ幕の真下にハッチングで「立入禁止」と書いてある。パイプ椅子を横向きに置いて、自然な通行止めにする。


椅子を並べながら、胸の音を聞いていた。体育館に入ってから、間隔が短くなっている。圧迫感が一段強い。身体がこの場所を怖がっている。


リハーサルが始まった。進行役の三年生がマイクでプログラムの順番を読み上げ、ステージ上の転換が始まる。照明が変わる。音響が流れる。垂れ幕はステージの背景として静かに吊られている。


俺は客席側の端で動線を管理していた。「そこは通れないから、右から回って」。ほとんどの生徒は素直に従った。


プログラムの中盤。ダンス部の通しリハーサルが始まった。六人がステージで踊っている。曲が流れて、照明が切り替わる。床が振動する。


その振動が——垂れ幕に伝わった。紅い布が、微かに揺れていた。空調ではない。人の動きが床を通じて横棒に届いている。


俺の胸の中で、音の間隔が急に詰まった。金属の擦過音が連打のように来た。


天井を見上げた。


横棒の左端。ワイヤーとフレームの接続部。金具が——わずかにずれていた。振動で、固定が緩んでいる。


横棒が、ほんの少し左に傾いた。


安全ひもが張った。左端の一本が、横棒の重さを受けて、ぴんと直線になった。ロープが軋む音が——した気がした。現実の音か、予感の音か、分からなかった。


横棒は傾いたまま止まった。落ちてはいない。安全ひもが支えている。結城のループも切れていない。


でも——傾いた。段取りの外側から、力がかかった。


ダンス部の六人は気づいていなかった。踊り続けている。照明が客席側に向いていて、天井の金具は暗がりだったので、客席側の生徒も、誰も天井を見ていなかった。


気づいたのは——俺と、黒瀬だけだった。


黒瀬はステージの上手から、天井を見上げていた。腕を組んだまま、微動だにせずに。その目が金具のズレを捉えていた。俺と目が合った。一瞬だけ。


黒瀬が目を逸らして、ステージ袖に消えた。


リハーサルは続いた。ダンス部の演目が終わって、次のプログラムに移った。誰も何も気づかなかった。垂れ幕は傾いたまま、でも落ちないまま、ステージの背景として在り続けた。


何も起きなかった——ように見えた。


先生にも、他の生徒にも、何も起きていない。金具がわずかにずれただけ。安全ひもが張っただけ。垂れ幕が数センチ傾いただけ。事故ではない。けが人もいない。報告する事象がない。


でも俺と黒瀬は知っている。あの金具は明日までに直さなければならない。今日は数センチだった傾きが、明日の人数と振動の中では——分からない。


---


リハーサルが終わった後、体育館の裏手の非常階段に行った。


黒瀬がいた。コンクリートの段差に座って、予備の金具をいじっていた。ステージの工具箱から持ってきたのだろう。固定の強度を手で確かめている。


「……直すのか」


「今日中に。生徒が帰ったあと、明日の朝までにワイヤーを張り直す」


黒瀬は金具を手の中で回した。


「先生には言ったんだ。実は」


「……言った?」


「さっきの金具のズレ。吊り物が不安定だから、明日の体育館使用を見直せないかって」


「で?」


黒瀬は鼻で短く息を吐いた。笑いではなかった。


「『金具は直せばいいだろ。安全ひもも張ってあるし、問題ないじゃないか』だと。——『毎年やってるんだから大丈夫だよ』って、笑ってた」


黒瀬の声に、怒りはなかった。諦めに近い温度だった。


「中止になんかならない。文化祭は学校行事だ。前日に『予感がします』で止められるわけがない。金具がずれましたって言っても、直せば終わり。怪我人が出てない以上、先生にとっては何も起きてない」


「…………」


「だから——自分で直す。先生が大丈夫だって言うなら、大丈夫にするしかない。段取りで」


黒瀬は金具をポケットに入れた。壁にもたれた。


しばらく黙っていた。非常階段に風が吹き込んで、コンクリートの壁が冷たい空気を跳ね返した。


「……去年の話、聞くか」


黒瀬が言った。こちらを見ずに。


「お前に話す義理はないが、明日本番だ。何も知らないまま突っ込むよりはましだろ」


黒瀬はカラビナの鍵束を外して、手の中で握った。金属の音が止まった。


「一回目は——妹だ」


「妹?」


「去年の文化祭の準備期間。初日。妹が職場体験で学校に来てた。体育館でステージの搬入を見学してるときに——大道具のパネルが倒れた。妹に当たった」


黒瀬の声が、平坦になった。


「頭だった。額を切って、血が出た。意識はあったけど、救急車を呼んだ。病院で縫った。六針」


「…………」


「額に傷が残るかもしれないって医者に言われた。妹は泣いてなかった。でも母親が泣いてた。俺は——何もできなかった。搬入を手伝ってたのに、パネルの固定を確認してなかった。十メートル離れたところで、倒れる音を聞いてただけだった」


黒瀬は壁に頭を預けた。


「その日の夜、家に帰れなくて学校に残った。家庭科室にいた。なんでそこにいたのかは覚えてない。で——替えボタンの箱の中に、あのブリキの箱を見つけた。紙を読んだ。信じなかった。でも読み終わったとき、手がボタンを握ってた。制服の第2ボタン。——紙に書いてあった通りにやったら、戻れるのかって」


黒瀬は鍵束を握った。


「ちぎった。朝に戻った。搬入の前にパネルの固定を全部確認した。妹を体育館から出した。——パネルは倒れなかった。妹は怪我しなかった。誰も消えなかった」


「血縁だから」


「そう。血縁は対象外だった。妹の額には傷がない。母親も泣いてない。——なかったことになった。代わりに、ボタンが本物だと分かった」


黒瀬の声が一段低くなった。


「二回目はその三日後。リハの日。照明のフレームが外れて、脚立ごと倒れた。下にいたのが三上だった」


「——三上?」


「三上沙耶。去年は二年で、実行委員の照明担当。脚立のすぐ横で作業してた。フレームの角が顔に当たった。——目の横だった。あと二センチずれてたら目に入ってた」


黒瀬の声が止まった。一拍置いて、続けた。


「切れて、血が出て、三上は顔を押さえてしゃがみ込んだ。周りが騒いで、保健室に連れていかれた。——傷は残るって言われた。女の顔に、傷が残るって」


「…………」


「三メートル横にいた。また何もできなかった。妹のときと同じだった。目の前で人が血を流して、俺は突っ立ってるだけ」


黒瀬は俺を見た。


「ちぎった。朝に戻った。フレームの固定を直した。事故は起きなかった。三上の顔に傷はない。——代わりに、三上が消えた。俺のことを忘れた。名前も、顔も、一緒に実行委員をやってたことも」


さっき昇降口で見た三上の姿が重なった。「舞台担当の方、まだ体育館にいますか?」。黒瀬の名前が出てこなかった三上。胸元に手を当てた三上。


あれは——二回目の代償だった。


「三回目から先は——」


黒瀬は言いかけて、止まった。鍵束を握り直した。金属の音が止まった。


しばらく沈黙があった。非常階段に風が吹き込んで、コンクリートの壁に当たって返ってきた。


「……六回で五人。それだけ分かってればいい」


それ以上は語らなかった。語れなかったのか、語る必要がないと判断したのか。どちらでも同じだった。黒瀬の声が止まった場所に、三回目から六回目までの重さが沈んでいた。


黒瀬はカラビナをベルトに戻した。金属音が一つ、コンクリートに響いた。


「そのあとボタンを箱に入れた。二重底のブリキの箱。紙と一緒に。二度と使わないように。——でも予感は消えなかった。六回分の蓄積が身体に残ってる。文化祭が近づくと胸が鳴る。金属の音がすると息が詰まる。段取りを組まないと怖くて立っていられない」


黒瀬は立ち上がった。


「先生に止められないなら、自分で止める。段取りで。それしかない」


黒瀬は俺を見た。


「お前も同じだろ。ボタンを手放せないのは、怖いからだ」


返す言葉がなかった。


黒瀬は階段を降り始めた。三段目で足を止めて、振り返った。


「金具は今夜直す。お前は明日、動線を守れ。それだけでいい」


黒瀬の足音が、階段を降りていった。コンクリートに金属がぶつかる音が、壁に反響して、長い残響を引いた。


一人になった踊り場で、しばらく座っていた。


あいつは去年、たった一人で六回のループを回した。助けたい人を助けるたびに、助けたい人が消えていった。それでも止まれなかった。止まれなかったから、六回になった。


俺は二回だ。まだ二回。でも——黒瀬の去年と、俺の今が、同じ道の上にある気がした。


---


リハーサルが終わって、校舎に戻った。夕暮れの廊下をオレンジ色の光が染めている。


教室に寄って鞄を取った。教室にはまだ数人残っていて、看板の仕上げをやっていた。ほのかはいなかった。もう帰ったのだろう。


昇降口で靴を履き替えていたら、後ろから声がかかった。


「すみません——」


振り返った。三上沙耶だった。実行委員の三年生。プログラムの確認表を手に持っている。


「舞台担当の方、まだ体育館にいますか? 明日の進行表を渡したくて」


「黒瀬なら、まだ中にいると思います。金具の修理があるって言ってたので」


「黒瀬……さん」


三上はその名前を口の中で確かめるように繰り返した。知っている名前を思い出すときの反応ではなかった。初めて聞いた名前を記憶に留めようとする反応だった。


「二年の、舞台担当の」


「……はい」


「ありがとうございます」


三上は会釈して、体育館に向かって歩いていった。その途中で一度、胸元に手を当てた。小さな仕草。本人は無意識だったと思う。手を当てて、すぐ離して、そのまま歩いていった。


残響。三上の中にも、黒瀬の痕跡が残響として残っている。名前は思い出せない。顔を見ても分からない。でも胸の奥に、理由の分からない何かがある。


五人分の残響を抱えた人間が、五人いる。そしてその残響も、日ごとに薄れていく。


昇降口を出た。冷たい風が吹いていた。


---


夜。自分の部屋。


制服を椅子にかけた。第2ボタンが、背もたれの上で鈍く光っている。


スマホを開いた。メモアプリ。


使うな

白鳥玲奈(消えた)

藤崎ほのか(消えた)


三行。四行目は空白。


明日。文化祭。


段取りは組んだ。安全ひもは三本——明日の朝には、金具を直した上でもう一本追加して四本になるはずだ。吊りループは返し縫いで補強済み。動線は椅子で制御する。黒瀬が見張り、結城が縫い、俺が誘導する。


できることは全部やった。


結城の声が頭に残っていた。


「文化祭が終わって、何も起きなかったら。そのときは——来て」


あの場で頷けなかった。結城は待っている。文化祭の向こう側で。何も起きなかったら、という条件付きで。


黒瀬の声も残っていた。


「お前も同じだろ。ボタンを手放せないのは、怖いからだ」


その通りだ。結城に頷けなかったのは、縫い止めたらボタンが使えなくなるからだ。使えなくなることが怖いからだ。明日、何かが起きたときに、何もできない自分が怖いからだ。


ポケットに手を入れた。白い布切れに触れた。五センチ四方。返し縫い。ほどけない糸。結城が昨夜、一人で縫ったお守り。


握った。


ベッドに横になった。目を閉じた。


音が来た。金属が軋む音。布が引っ張られる音。今日、体育館で現実に聞いた音と、身体の内側で鳴る音が、混ざっていた。


音の輪郭が、何かを描こうとしていた。脳が勝手に繋ぎ合わせている。天井の高さ。紅い色。横棒。でも像は結ばない。映像にはならない。ただ、音だけが形を探して、闇の中を漂っている。


その音の中に——ひとつだけ、身体が反応するものがあった。


音ではなかった。温度だった。今日の昼、家庭科室で、結城の指が手のひらに触れたときの温度。布を挟んだ指先の、あの圧。


その温度が、音の輪郭の中に混ざっていた。


意味は分からなかった。予感なのか、ただの記憶なのか、区別がつかなかった。


でも——胸の奥が、きゅっと締まった。恐怖とは違う締まり方だった。


目を開けた。天井の蛍光灯。


明日。明日何かが起きるとして——そのとき、垂れ幕の下に立っているのは誰だ。


分からない。予感は場所を教えても、人を教えない。身体は怖がっている。でも、誰のために怖がっているのかが分からない。


椅子にかけた制服を見た。第2ボタン。


使わない。明日は使わない。段取りで守る。


——でも、もし。


もし段取りの外側から何かが来たら。


もしその下にいるのが、俺の知っている人間だったら。


右手を見た。まだ何も握っていない。まだ何もちぎっていない。でもこの手は——そのときが来たら、自分の意思とは関係なく動くのだろうか。黒瀬の六回目のように。気がついたら引きちぎっていた、というように。


左手で、ポケットの中の布切れを握り直した。ほどけない糸。結城の返し縫い。


布団を頭まで引き上げた。目を閉じた。


音はまだ鳴っていた。金属と、布と——指先の温度。


明日が来るのが、怖かった。


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