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縫い止め

角に立っていた。


昨日と同じ時間、同じ場所。空気は乾いていて、日差しだけが季節を進めている。電柱の影が足元を横切るのを見ながら、イヤホンもせずにただ立っていた。


昨夜、スマホのメモに四行目は書かなかった。三行で止めた。


使うな

白鳥玲奈(消えた)

藤崎ほのか(消えた)


四行目が空白のまま残っている。その空白を埋める名前がまだ決まっていないのではなく、書いてしまえば次が来ると思ったからだ。


足音が聞こえた。


ほのかだった。一人で歩いていた。鞄を右肩にかけて、少しだけ前かがみに。朝の光が横顔を照らしていて、まつげの影が頬に落ちている。


近づいてくる。十メートル。五メートル。


目が合わない。


ほのかの視線は俺の手前三十センチくらいを通り過ぎていく。避けているのではなく、そこに誰かが立っていることに意味を感じていないのだ。風景の一部。電柱や郵便ポストと同じ。


通り過ぎた。


シャンプーの匂いが一瞬だけ届いて、消えた。ほのかの背中が遠ざかっていく。歩幅はいつもと同じ。姿勢もいつもと同じ。何も変わっていないように見える。ただ、俺のことを知らないだけ。


胸に手を当てる仕草はなかった。昨日はあった。一昨日もあった。今日はない。


残響が、また一層薄くなっている。


五十メートル先で、ほのかが角を曲がった。見えなくなった。


俺はそのまま少し立っていて、それから歩き出した。


---


教室に入ると、黒板に大きく「文化祭まであと2日!」と書いてあった。赤いチョークで、感嘆符のところに星の落書きが添えてある。教室の後ろ半分はすでに段ボールと模造紙に占領されていて、机が前方に詰められている。


「おー、相沢。今日ガムテ持ってきた?」


颯太だった。制服の袖をまくって、段ボールカッターを片手に振っている。


「……ああ。ロッカーに入れてある」


「サンキュ。あとで取りに行くわ」


何でもない会話。何でもないはずの会話。でも颯太の目が俺を見るとき、ほんの一瞬——探るような間がある。俺の輪郭が薄れているせいだ。颯太は俺を覚えている。名前も、席の位置も、ガムテを頼んだことも。ただ、声をかけるまでの間がコンマ数秒だけ長い。本人は気づいていない。


出席確認が始まった。


「相沢」


「はい」


担任が名簿から顔を上げる。一瞬、俺の顔と名前を照合するような目をした。昨日まではなかった動作だ。


一限の英語。教科書を開いた。


二列隣に、ほのかが座っている。窓際の席。頬杖をついて、ノートは白紙のまま。何かを考えているような顔だったが、それが俺に関係のある何かである可能性は、もうほとんどない。


胸の奥に、小さな金属音がした。


耳で聞こえたのではない。身体の内側で鳴った。薄い、硬い、何かが擦れるような音。ボタンを使ったことによる副作用——まだ起きていない悪いことが先に身体に来る、という、あの感覚。


昨日はなかった。今日、来た。


場所も時間も具体的な映像もない。ただ、何かが近づいている、という警告。胸の内側を小さな爪で引っ掻かれるような圧迫感。


二回の使用で、この程度。黒瀬は六回だ。あいつの身体には、毎日どれほどの圧が積もっているのか。


ノートに視線を落とした。文字が書けなかった。


---


昼前の休み時間に、それは起きた。


颯太が席を立って、教室の後ろの段ボール置き場に向かった。その途中でほのかの机の横を通りかけて、足を止めた。


「ほのか、これ」


颯太がほのかの机の端を指で叩いた。机の隅に、シャーペンが一本置いてあった。透明な軸に青いインクを流し込んだような柄で、グリップのところにNASAのロゴシールが貼ってあるやつ。中学のとき修学旅行の土産屋で買った。クラスで持ってるのは俺だけだ。


「それ恒一のじゃん。NASAのやつ」


颯太が軽く言った。


ほのかが顔を上げた。シャーペンを見て、颯太を見た。


「……え?」


ほのかがシャーペンを手に取った。NASAのシールを親指でなぞって、軸を回して、グリップの感触を確かめるように握った。


「これ……誰の?」


「だから恒一の。相沢恒一。お前の幼馴染」


颯太がからかい半分で言った。でもほのかは笑わなかった。


「……幼馴染?」


その声は、冗談を聞き返す声ではなかった。本当に分からない人間の声だった。


ほのかの顔が、みるみる赤くなった。混乱の赤だった。恥ずかしさではなく、自分の中に説明できない空白があることへの、純粋な困惑。


「え、待って——なんで私、これ持ってるの?」


ほのかは椅子から半分立ち上がって、シャーペンを両手で握った。颯太の視線を追うように教室を見回して——俺のほうに目が止まった。止まったが、すぐに外れた。誰を探せばいいのか分かっていない目だった。


「えっと……相沢、くん?」


颯太に確認するように聞いた。颯太が「そう、あいつ」と俺を指さした。ほのかの目がもう一度、俺に来た。


「ごめんなさい。これ、あなたの……?」


名前を言われたのに、「あなた」。名前と顔が結びついていない。


「……ああ」


声が掠れた。


「ごめんなさい、本当に——なんで私が持ってたんだろう。全然覚えてなくて——」


ほのかは本気で申し訳なさそうだった。顔を真っ赤にして、シャーペンを両手で差し出してきた。借りていたものを返す角度ではなかった。知らない人の持ち物を間違えて持っていた人間が、必死で返そうとする角度だった。


「本当にごめんなさい」


頭まで下げた。


教室の空気が、少しだけ変わった。周りの何人かが振り向いていた。


「いや——いいよ。気にしないで」


それしか言えなかった。


ほのかがシャーペンを俺の手に置いた。指が触れた。ほのかの指は冷たかった。


ほのかはまだ赤い顔で、小さく会釈して、席に戻った。


颯太が俺の横に来た。声を落として言った。


「……お前ら、なんかあった?」


「何も」


「いや、何もって——あいつ、マジで知らない人に返す感じだったぞ。幼馴染にあの態度おかしいだろ」


颯太の顔から、からかいが消えていた。代わりに、少しだけ引いたような、測りかねるような目をしていた。


「喧嘩したのか? いや、喧嘩であんな風にはならないか——」


「……何もないよ。たぶん、寝ぼけてたんだろ」


颯太は納得していなかった。でもそれ以上は聞かなかった。段ボール置き場に向かって歩いていく背中が、一度だけ振り返って俺を見た。


机の上に、NASAのシャーペンが戻っていた。透明な軸に青い柄。グリップのシール。少し前に貸したまま戻ってこなかったやつだ。ほのかがずっと持っていて、今日「あなた」として返されたシャーペン。


握った。


まだ、ほのかの手の温度が残っていた。冷たかった。


---


昼休み。


家庭科室のドアを引いた。


結城がいた。今日は窓際の作業机に、布の端切れを広げて何かを縫っていた。小さな四角い布に、白い糸で細かい針目を入れている。


俺がドアを開けた音で、結城は手を止めた。顔を上げて、少しだけ目を見開いた。


「…………今日は早いね」


声の温度が、いつもと微かに違った。


「……ああ」


「ちょっと待って。今、いいところだから」


結城は針を布に刺したまま、糸を引いた。返し縫い。一針戻って、二針進む。布の表面に小さな直線が並んでいく。


俺は近くの椅子を引いて座った。結城の手元を見ていた。


「……何縫ってるの」


「練習」


「何の」


結城の手が一瞬止まった。


「……ループの補強。黒瀬くんに頼まれた」


視線を落としたまま、結城は言った。


「垂れ幕の吊りループ。布が古くて劣化してるから、返し縫いで補強してほしいって。直接言いに来た。昨日の放課後」


「…………」


「同じ厚さの布で試してから本番のを縫う。失敗できないから」


結城の指が動いた。針が布を貫いて、糸が引かれて、また戻る。同じ動作の繰り返し。でも一針ごとに、縫い目が少しずつ強くなっていくのが分かった。


「結城」


「うん」


「昨日の——ボタンの件」


結城の手が、はっきりと止まった。


「……縫い止め」


「うん」


昨日、結城は俺のボタンを縫い止めようとした。俺が断った。結城は針を道具箱に戻して、「縫い止めたくなったらいつでも来て」と言った。


「まだ、決められない」


正直に言った。


結城は布に刺した針を抜いて、糸を切った。端切れを机に置いて、初めて俺のほうを向いた。


「……知ってる」


結城は椅子ごと少しだけこちらに向き直った。窓からの光が横顔に当たって、睫毛の影が頬に落ちていた。


「相沢くんが決められないのは、分かってる。昨日の顔見たら分かる」


「…………」


「だから今日は、ボタンの話はしない」


結城はそう言って、道具箱から新しい端切れを取り出した。また練習を始める気だった。


「でも——」


結城が、少しだけ俺に近づいた。椅子に座ったまま、身体をこちらに傾けて。


「ちょっと、じっとして」


「え——」


結城の指が、俺の制服の胸元に触れた。


心臓が跳ねた。


ボタンではなかった。ボタンの少し上——襟の合わせ目のあたりを、結城の指先がすっと撫でた。


「……糸くず」


結城が指を離した。人差し指と親指の間に、小さな白い糸くずをつまんでいた。


「ついてた」


結城はそれをふっと息で吹き飛ばした。何でもないことのように。


でも、指が触れた場所が、まだ熱かった。制服越しなのに。布一枚挟んでいるだけなのに、結城の指の圧が皮膚に残っていた。


「…………」


「顔、赤い」


「赤くない」


「赤いよ」


結城の唇が、ほんの少しだけ上がった。笑ったのだとしたら、今日初めて見る笑みだった。


「……ちゃんと食べてる?」


結城が聞いた。


「食べてる」


「嘘。目の下、くま」


「…………」


「今日、パン買った?」


「……まだ」


結城が机の端に手を伸ばした。小さなビニール袋。中にクリームパンが一つ入っていた。


「二つ買ったから。一つ余った」


嘘だと思った。最初から二つ買う人間が、一つ余らせるわけがない。


でも受け取った。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


結城はまた端切れに向き直った。針を持って、布を押さえて、返し縫いの練習を再開した。


パンの袋を開けた。クリームパンを一口かじった。甘かった。昨日から何も味がしなかったのに、甘いと感じた。


家庭科室に、ミシンの匂いと、午後の光と、結城の針が布を刺す小さな音だけがあった。


しばらく、何も言わずにそこにいた。


結城が時々、手を止めて窓の外を見た。また縫い始めた。俺はパンを食べ終わって、袋を小さく畳んでポケットに入れた。


「結城」


「うん」


「……リハーサル、明日だろ。ループの補強、間に合いそう?」


「間に合わせる。今日の放課後、本番の布を持ってきてもらう約束してる」


「手伝おうか」


結城の手が止まった。俺を見た。


「……裁縫、できるの?」


「できない」


「じゃあいい。近くにいられると針が曲がる」


「なんで」


「気が散るから」


結城はそう言って、視線を布に戻した。耳の先が、少しだけ赤かった。


見間違いかもしれない。窓の光のせいかもしれない。


でも——見間違いではないと、思いたかった。


---


五限が終わって、体育館に向かった。


文化祭の準備期間中は、午後の二コマが作業時間に充てられる。二年の舞台班が体育館を占有していて、一年はクラスの出し物と共用スペースの装飾を担当する。


体育館の扉を開けた瞬間、胸が鳴った。


金属音ではなかった。もっと鈍い、重たい振動。床から伝わってくるような低周波。身体の芯が一瞬だけ揺れて、すぐに消えた。


ステージ上では、黒瀬が指示を出していた。脚立の上に立っている生徒に「もう十センチ右」と言い、結束バンドの束をポケットから出して一本ずつ渡している。袖をまくった腕にガムテープのカッターを巻き付けて、腰のカラビナには鍵束がぶら下がっている。


垂れ幕が、ステージの上手から下手にかけて吊るされていた。まだ途中で、下端が床に届いている。布地は厚く、色は深い紅。横棒が上部に通してあり、その両端がワイヤーで天井のフレームに固定されている。


あの日——ほのかが事故に遭った日の放課後。この垂れ幕の横棒が傾いた。吊りループの一つが劣化していて、重さに耐えきれなかった。ほのかの真上で揺れて、俺が肩を掴んで引き離した。


今日、同じ垂れ幕が、同じ場所に吊られている。


「相沢」


黒瀬の声がステージから降ってきた。


「安全ひも、確認してくれ。下手側の三本」


それだけだった。俺の名前を呼ぶとき、黒瀬には間がない。六回のループで鍛えられた記憶か、俺が同類だから忘れようがないのか。


ステージの下手に回った。安全ひもは、垂れ幕の吊りループと横棒を二重に留めるための補助ロープだ。黒瀬が予感をもとに最初から取り付けたもの。六回の蓄積が、まだ見ていない危険を身体に教えて、事前に手を打たせている。


三本の安全ひもを一本ずつ確認した。結び目は固い。ロープの太さも十分。だが三本目に触れたとき——指先が震えた。


緩んでいたわけではない。結び目はしっかりしていた。ただ触れた瞬間に、胸の奥の圧迫感が一段強くなった。身体が何かを訴えている。


「……大丈夫か」


声が近かった。振り向くと、黒瀬がステージの端にしゃがんで、俺を見下ろしていた。


「安全ひも、三本とも問題ない」


「お前の顔の話だ」


黒瀬の目は細かった。観察する目。俺のある場所に一瞬だけ視線が落ちて、すぐに戻った。


「……来てるだろ。予感」


周囲に聞こえない音量だった。


「…………少し」


「少しか」


黒瀬は立ち上がった。体育館の全景を見回した。生徒が十数人、それぞれの持ち場で作業している。垂れ幕、照明、看板、床のテープ貼り。文化祭の二日前。誰もが忙しく、誰もが楽しそうだった。


「俺は今日、朝からずっと鳴ってる」


黒瀬はそう言って、自分の胸を拳で軽く叩いた。


「ここが。ずっと」


それ以上は言わなかった。ステージの中央に戻って、脚立の生徒に「もういい、降りろ」と声をかけた。


---


体育館の裏手の非常階段。コンクリートの狭い階段で、普段は使われない。踊り場に錆びたパイプ椅子が一脚放置されていて、壁には「関係者以外立入禁止」のプレートが曲がって貼りついている。


黒瀬がそこにいた。結束バンドの束を手の中でくるくる回しながら、コンクリートの手すりに背中を預けている。カラビナの鍵束が動くたびにコンクリートに当たって、乾いた金属音を立てる。


「さっきの三本目」


俺が階段を上がってくるのを見もせずに、黒瀬は言った。


「気になっただろ」


「……ああ」


「結び目はちゃんとしてる。俺が今朝やった。ロープは大丈夫だ。——問題はループのほうだ」


吊りループ。垂れ幕を横棒に通すための布製の輪。去年も使った垂れ幕なら、ループは一年分劣化している。


「安全ひもで横棒を支える。理屈では落ちない」


「理屈では」


「……理屈では」


黒瀬は自分の言葉を繰り返した。信じきれない響きで。


「結城に返し縫いを頼んだ。今日の放課後に本番の布を渡す。明日のリハーサルまでに補強を終わらせる」


「…………」


「動線は——お前に任せていいか」


「動線?」


「リハーサル中に誰がどこに立つか。垂れ幕の真下に人を入れない配置」


黒瀬は俺の目を見た。


「俺の予感が正しいなら、文化祭当日に何かある。リハーサルで潰せるものは全部潰す」


黒瀬は手すりから背中を離した。


「——明日が勝負だ」


カラビナが鳴った。黒瀬が階段を降り始めた。コンクリートに金属がぶつかる音が壁に反響して、乾いた残響を引きずった。足音が下の階に消えてからも、金属の余韻だけがしばらく残っていた。


一人になった踊り場で、錆びたパイプ椅子が午後の光を浴びていた。


あいつは——毎日、これをやっている。予感に殴られながら、段取りを組んで、一つずつ潰して、それでもまだ足りないと知りながら止まらない。六回のループで五人を失って、それでも文化祭を迎えようとしている。


迎えるしかないからだ。時間は、ループしない限り、前にしか進まない。


---


放課後。作業が終わって教室に戻ると、ほのかがまだ残っていた。


段ボールの切りくずを掃除していた。箒を持って、教室の隅を掃いている。他の生徒はもう帰ったらしく、教室にはほのかと俺しかいなかった。


ほのかが俺に気づいた。箒を持つ手が一瞬止まって——すぐに動き出した。


「……あ」


それだけだった。目が合って、小さく口を開いて、でも何を言えばいいか分からないまま、また箒を動かし始めた。


鞄を取りに机に向かった。ほのかの横を通り過ぎる。三歩分の距離。


鞄を持って、教室を出ようとした。


「あの——」


ほのかの声が、背中に届いた。


心臓が跳ねた。


振り返った。たぶん、速すぎる動きだった。ほのかが少しだけ目を丸くしていた。


ほのかは箒を両手で握ったまま、少し困った顔をしていた。


「さっきの——シャーペン。ほんとにごめんなさい。なんで持ってたのか全然分かんなくて……」


話しかけてきた。ほのかのほうから。名前も知らない相手に、わざわざ。


「いいよ。気にしないで」


声が上ずりそうになるのを必死で抑えた。


「でも……」


ほのかは下を向いた。箒の柄を指で撫でている。


「……変だよね。自分でも分かんないの。なんでそれ持ってたのかも、いつからあったのかも。ぜんぶ——」


ほのかは言葉を探していた。見つからないものを、手探りで掴もうとするような顔。


「——ぜんぶ、空っぽなの。その辺だけ」


空っぽ。


ほのかはそう言った。記憶が消えたことを、ほのか自身はそう感じているのだ。消えた自覚はない。ただ、あるべき場所に何もない。理由もなく空白がある。それが不安で、気持ち悪くて、でも誰にも説明できない。


「……大丈夫だよ。ほんとに」


それしか言えなかった。


ほのかは小さくうなずいた。


「……ありがとう。えっと——」


名前を呼ぼうとして、出てこなかった。さっき颯太に教えてもらったばかりなのに。


「——ごめん。名前……」


「相沢」


「相沢……くん」


くん。


幼馴染が、俺を「くん」づけで呼んでいる。昨日までは——いや、ほのかは昨日、俺の名前すら出てこなかった。その前は「相沢」だった。呼び捨て。何の距離もない、ただの呼び捨て。それが当たり前だった。小さい頃からずっとそうだった。


「ありがとう、相沢くん」


ほのかは箒を動かし始めた。もう振り返らなかった。


教室を出た。廊下に出て、壁に背中を預けた。


目を閉じた。


ほのかの声が残っていた。「相沢くん」。あの声で、あの距離で、あの丁寧さで。十何年分の記憶が消えると、こうなるのだ。名前も知らない他人になる。シャーペン一本すら、なぜ持っていたか分からなくなる。


消えるとは、こういうことだった。


死ぬのではない。嫌われるのでもない。ただ、最初からいなかったことになる。存在ごと、透明になる。


——でも、生きている。


ほのかは生きている。今日も笑っていた。箒を持って掃除していた。話しかけてきた。俺の名前を忘れても、謝ろうとしてくれた。明日も学校に来る。文化祭の日も来る。


それだけで——それだけでいいと、何度でも自分に言い聞かせる。


---


夜。自分の部屋。


制服を椅子にかけた。第2ボタンが、椅子の背もたれの上で小さく光っていた。


スマホを開いた。メモアプリ。


使うな

白鳥玲奈(消えた)

藤崎ほのか(消えた)


三行。その下の空白。


四行目は書かない。書く名前がないからではない。書けば、その行が埋まる。余白がなくなる。余白があるうちは、まだ終わっていないと思える。


スマホを閉じた。


ベッドに座った。天井を見上げた。


文化祭まで、あと二日。明日はリハーサル。垂れ幕を本番の高さに上げる。照明をつける。全体の段取りを確認する。黒瀬が組んだ安全策が機能するか、初めて実地で試す日。


結城が返し縫いで補強する。黒瀬が安全ひもを最終確認する。俺が動線を作る。


三人で。三人とも、ボタンに触れた人間だ。


結城は、俺のボタンを縫い止められなかった。俺が断ったから。

黒瀬は、自分のボタンをブリキの箱に封じた。でも予感は封じられなかった。

俺は、ボタンを外せるまま残している。


目を閉じた。


暗闘の中で——音が聞こえた。


金属が軋む音。布が引っ張られる音。それだけだった。映像はない。見えてはいない。ただ、音の輪郭が勝手に形を作ろうとしていた。天井の高さ。紅い色。横棒の重さ。身体が知っている情報を、脳が繋ぎ合わせて、像を結ぼうとしている。


予感ではなく、想像だと思いたかった。でも想像は自分で止められる。これは止まらなかった。


音の輪郭の中に——誰かがいた。


顔はない。姿もない。ただ、そこに人がいるという圧だけがあった。垂れ幕の真下に、一人分の体温があるという、身体の確信。


目を開けた。天井の蛍光灯が目に刺さった。


——予感が、形を持ち始めている。


二回の使用で。まだ二回なのに。


黒瀬の六回は、どれほどの圧を抱えているのだろう。あいつの脳は、毎晩どんな輪郭を勝手に描いているのだろう。


結城の声が頭に残っていた。


「縫い止めたくなったら、いつでも来て」


明日。明日のリハーサルが終わって、何も起きなかったら——そのときは、結城に頼もう。縫い止めてもらおう。返し縫いで。ほどけないように。


でも——それは「何も起きなかったら」の話だ。


文化祭まで、あと二日。目を閉じるたびに、音の輪郭が少しだけはっきりなる。金属と布と、一人分の体温。


——それが誰なのかは、まだ分からない。まだ、分からないままでいたかった。


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