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告白

七時十五分。アラームが鳴る三秒前に目が覚めた。


いつもそうだ。鳴ってから止めるのが嫌で、鳴る前に手を伸ばす。予測できることを予測しそこねるのが怖い——と言えば大げさだけど、要するに俺はそういう人間だ。段取りを決めて、段取り通りに動く。それだけでたいていのことはうまくいく。


ベッドから出て、椅子の背にかけたブレザーの制服に手を伸ばした。


指先が、上から2番目のボタンに触れる。


——硬い。


爪の先に、縫い目の盛り上がりが引っかかった。ボタンを留める糸が、他の三つと違う。黒のはずなのに少し灰がかって見えるし、なにより縫い止め方が強い。必要以上に頑丈というか、ほどけないように逆向きにもう一度縫い止めたみたいな、そんな手触りがある。


先週、結城が『貸して』と言って制服ごと持っていった。戻ってきたとき、ボタンだけが“元からそこにいたみたいに”付いていた。


今日は——告白する。


その一文だけが朝の空気に線を引いて、他のすべてを薄くした。


白鳥玲奈先輩。軽音部。三年。文化祭ライブの打ち合わせで何度か話した。笑うと目が細くなる。声が低い。ギターを拭くとき左手首を返す仕草がきれいだと思った。


好きだと思った。たぶん、合ってる。


言葉は決めてある。順番も決めた。放課後、校舎裏。夕方のほうが人が少ない。先輩は部室に寄ってから帰るから、17時50分に渡り廊下を通る。そこで声をかける。


段取りは完璧だ。


完璧なはずだ。


ボタンを、もう一度指で押さえた。硬い。まるで「ここにいる」と主張するみたいに、硬い。


---


階段を降りると、母がキッチンに立っていた。


「おはよ」


「おはよう。——あ、恒一」


振り向いた母が、俺の制服の前を一瞬見た。


「そのボタン、最近付け替えたの?」


「……どうだろ」


「縫い方が丁寧ね。あんたがやったにしては」


「まあ、別にいいだろ」


母はそれ以上言わずに味噌汁の鍋に戻った。テレビが天気予報を流している。晴れ。降水確率十パーセント。告白に悪い天気じゃない——と考えている自分がもう気持ち悪かった。


母が冷蔵庫を開けた。卵のパックを片手で取り出しながら、もう片方の手で冷蔵庫のドアを押さえている。パックを調理台に置こうとした瞬間——一個だけ、端から転がった。


コン、と乾いた音。


卵が床に落ちて、殻が割れた。黄身が白いタイルの上にぬるりと広がっていく。


「あーあ……」


母がため息をついた。しゃがんで、キッチンペーパーを引き出す。


「もう、このパック開けにくいのよ」


俺はそれを横目に見ながら、トーストを齧っていた。目玉焼きが一個減るなと思った。


「いってきます」


「いってらっしゃい。傘いらないって」


普通の朝だった。たぶん、帰ってきたときも普通のはずだ。


そうじゃなきゃ困る。


---


校門をくぐって、下駄箱で上履きに替えて、二年の教室がある三階へ向かう途中だった。


二階の廊下を曲がったところで、音が聞こえた。


カタカタカタ——と、ミシンが布を喰む音。家庭科室だ。朝のこの時間に使っている生徒なんて一人しかいない。ドアが十センチほど開いていて、すき間から白い光が漏れていた。


中を覗くと、結城紬が背中を向けてミシンに向かっていた。髪をひとつに束ねて、制服の袖を肘まで捲って、手元だけに集中している。ミシンの針が布を打つリズムが速い。相変わらず、うまい。


声をかけようか迷って、やめた。今日はそれどころじゃない。


けれど通り過ぎかけたとき、結城がこっちを見ずに言った。


「あ、相沢くん」


足が止まる。振り向いてすらいないのに、気配だけで分かるらしい。


「ボタン、引っ張らないでね。せっかく付けたんだから」


「引っ張ってねえよ」


「触ってるでしょ、今も」


——触ってた。右手が無意識に制服の第2ボタンに添えられていた。癖になってるのか、今日が特別だからなのか、自分でも分からない。


「取れるときは一瞬だから。ほどけたら持ってきて。また縫うから」


ミシンの音がまた速くなって、それきり結城は手元に戻った。


「……はいはい」


そう返して、廊下を歩き出す。背中にミシンの音がしばらく追ってきた。


結城紬。二年。家庭科室の主みたいな子。話すようになったのは先週あたりからで、きっかけはボタンだ。それ以上でもそれ以下でもない——はずだった。


今日の俺の頭には、白鳥先輩しかいない。


---


教室は文化祭の残り香で散らかっていた。正確には残り香じゃなくて、これからの準備の散らかりだ。模造紙、段ボール、ペンキの缶。文化祭は来週の金曜に迫っていて、クラスの出し物——化け屋敷に毛が生えたような迷路——の資材が教室の後ろ半分を占領していた。


「相沢、ちょっと」


真鍋颯太が椅子ごと滑ってきた。こいつはいつもこうやって現れる。椅子を引きずる音を気にしない。


「体育館の垂れ幕の件、お前段取り表作ってくれた?」


「昨日送った。見てない?」


「見た見た。だから言ってんだよ。細かすぎ。実行委員が見たら引くって」


「段取りは細かいほうがいい」


「出た」颯太が笑う。「お前のそれ」


「なんだよ」


「いや、今日なんか硬くね? 顔。もっと硬い」


核心が近い。こいつはそういう勘だけ鋭い。


「別に」


「嘘つけ。なんかあんだろ。——あ、告る日?」


黙った。三秒の沈黙が答えになった。


「マジか。誰、白鳥先輩? あー、やっぱ。いいんじゃね? 当たって砕けろ」


「砕けたくないから準備してんだよ」


「準備って。告白に段取り表はねーだろ」


颯太は笑った。俺は笑えなかった。


段取りがなかったら、何を信じればいいのか分からない。


---


五限が終わって、六限が終わって、掃除が終わった。


教室を出て、渡り廊下に向かう。西日が廊下のリノリウムを焼いて、足元がオレンジ色に染まっていた。


ポケットに手を入れる。右手の人差し指が、無意識に第2ボタンの輪郭をなぞる。ポケットの中から、布越しに。何度もそうしていたことに気づいたのは今日が初めてだ。


頭の中は白かった。


段取りは完璧に近い。言葉は選び終わっている。失敗する要素をひとつずつ消した。時間、場所、言い方、声のトーン、最初の一文——すべてにシミュレーションがある。


なのに怖い。


怖いから、もう一度シミュレーションを回す。「先輩、少しいいですか」。先輩が振り向く。俺が言う。先輩が笑う。先輩が「うん」と言う。——そこから先が分岐する。成功。失敗。未定。未定が怖い。だからもう一度シミュレーションを回す——


後悔しないための言葉を選ぶほど、言葉が嘘っぽくなっていく。


気づいてる。気づいてるのに止められない。正解を見つけてからじゃないと動けない。正解が見つかっても「本当に正解か?」と疑う。その疑いを消すためにまた正解を探す。


ループしてる。まだ何も始まってないのに、もうループしてる。


渡り廊下を抜けて、校舎裏に出た。誰もいない。西日が校庭のフェンスの影を長く引いている。時刻を確認する。17時46分。先輩が通るまであと四分。


四分。


四分もある。


四分しかない。


息を吸った。吐いた。指がボタンを押さえている。


---


白鳥先輩が角を曲がって現れたのは、17時51分だった。一分遅い。それだけで心臓が一回余計に跳ねた。


ギターケースを背負っていた。黒いソフトケース。歩幅が広い人で、ポニーテールが歩くたびに揺れる。夕日がケースの金具に当たって、一瞬だけ光った。


「——先輩」


声が出た。思ったより落ち着いていた。


先輩が足を止めた。こっちを見る。一瞬、目を細めて——それから口元がふっとゆるんだ。


「相沢くん。お疲れ、文化祭の件?」


「いえ。——違います」


間。先輩が首を傾ける。ポニーテールが肩の上で揺れた。


「少し、いいですか」


先輩がギターケースの肩紐を直しながら「うん」と言った。その「うん」の声が、普段より少しだけ柔らかかった。そう感じたのは俺の願望かもしれない。でもいい。今はそれでいい。


息を吸った。


「白鳥先輩が——好きです」


心臓が一回、大きく鳴った。


先輩の目が一瞬広がった。唇がわずかに開いて、それから閉じた。驚いている。でも嫌悪じゃない。絶対に嫌悪じゃない。頬にうっすら色がさしていた。夕日のせいか、別の理由か——どっちでもよかった。赤かった。先輩の頬が赤かった。


「……えっ」


先輩が半歩だけ後ろに下がった。でも逃げる後退じゃなかった。驚いて体が動いた、という感じの。目は俺から離れていない。


「……急、だね」


「すみません」


「ううん。謝んないで」


先輩が視線を少し外した。ギターケースの肩紐を握る指が、きゅっと力んでいるのが見えた。


「……ちょっと、びっくりした」


それから先輩がこっちを見た。まっすぐ見た。目が合った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


「嬉しい」


先輩がそう言った。


嬉しい。


嬉しいと言った。


体温が一気に上がった。指先が震えそうになるのを握り込んで止めた。段取りの向こう側にあった景色が、今、目の前にある。先輩の頬の赤さも、目の奥の揺れも、全部本物だ。成功する。いける。正解だった。ここまでの全部が正解だった——


先輩が口を開きかけた。目元が笑っていた。たぶん、返事をしようとしていた。


たぶん——「うん」に近い言葉が来る。


その予感が、あまりにも強かった。


強すぎた。


勝てる、と思った。このまま黙って待てばいい。先輩の言葉を受け取ればいい。それだけでいいのに——嬉しくて、安心して、張り詰めていたものが一気にほどけて——口が動いた。


---


「俺——とにかくすっきりしたくて。言えてすっきりしました」


言った。


言った瞬間、自分の顔が笑っているのが分かった。舞い上がっていた。ずっと怖くて、ずっと緊張していて、それが一気に抜けた。「嬉しい」と言ってもらえた安堵が全身に回って、気が大きくなっていた。だから口が滑った。


先輩の表情が止まった。


笑いかけていた目元がそのままの形で固まって、一拍遅れて、静かに閉じていった。


——あ。


「……すっきりした?」


先輩が繰り返した。声が低い。いつもの低さとは違う種類の低さだった。


「あ、いえ、そういう意味じゃ——」


「相沢くんは——すっきりしたかったから告白したの?」


違う。そうじゃない。


「いえ、好きだから——」


「うん。好きなのは分かった。でも今の言い方だと……」


先輩がそこで言葉を切った。ギターケースの肩紐を左手で握り直す。指に力が入っているのが見えた。


「すっきりしたいのは——相沢くんの気持ちの問題だよね」


違う。


「私がどう答えるかより、言えたことが大事だった——ってこと?」


——違う。


違うのに、否定の言葉が出ない。


なぜなら——半分、合ってるから。


すっきりしたかった。怖かった。ずっと抱えてるのが苦しかった。だから段取りを組んで、正解を選んで、完璧にして、告白した。成功した。嬉しかった。嬉しくて——自分の安堵を、先輩の返事より先に口にした。「すっきりした」。その一言は、先輩の「嬉しい」を踏み潰した。先輩がこれから何を言おうとしていたか——それを聞く前に、俺は自分の気持ちを優先した。


「……そういうの、ちょっと」


先輩の声が小さくなった。


「どうして、何も言わないの?」


返す言葉がない。


正確には、ある。候補がいくつも頭の中に浮かんでいる。「違います」「そんなつもりじゃ」「もう一回ちゃんと言わせてください」。全部ある。全部選べる。でもどれを選んでも——さっきの一言がなかったことにはならない。言い直すほど「間違いを修正しようとしてる」のが透けて、取り繕いの上塗りにしかならない。


分かってる。分かっていて、口が動かない。


---


「ごめん」


先輩が言った。


謝らせた。俺が告白して、俺が壊して、先輩に謝らせている。


「——なかったことにして」


先輩が一歩下がった。たった一歩。三十センチ。それだけで、さっきまで二人の間にあった空気がまったく別のものに変わった。


「先輩——」


「ごめんね、相沢くん」


先輩は背を向けた。ポニーテールが揺れて、ギターケースが夕日に黒く光って、渡り廊下の向こうに消えていく。その背中がどんどん小さくなる。追いかければ追いつく距離だ。走れば三秒。でも足が動かない。追いかけて何を言う。また正しい言葉を探すのか。また取り繕うのか。


先輩が角を曲がった。消えた。


なかったことにして。


その言葉が頭の中で反響する。


なかったことに? できるわけがない。この数分間に起きたことは起きた。言った言葉は言った。壊れた空気は壊れた。時間は一方通行だ。——誰だってそう思う。


なのに。


なのに俺の頭は、違うことを考えていた。


なかったことにできるなら。もう一回があるなら。あの瞬間に戻れるなら。先輩の頬が赤かったあの一瞬、「嬉しい」と言ってくれたあの声のすぐあと、俺が口を開く〇・五秒前に戻れるなら——あの言葉を飲み込んで——黙って——先輩の返事を待つだけで——


——やり直したい。


思考じゃなかった。


衝動だった。腹の底から突き上げてくる、熱くて苦い塊。後悔という名前がつく前の、もっと剥き出しの何か。喉の奥が焼ける。目の奥が痛い。拳を握ったら爪が掌に食い込んでいた。


取り返せ。


取り返せ。


取り返したい——。


---


気づいたら、右手がボタンにあった。


指先が第2ボタンを掴んでいた。朝からずっと触っていたボタン。結城が縫い直した、あのボタン。縫い目が強くて、糸の色が少しだけ違う、あのボタン。


掴んだ瞬間、指の腹に縫い糸の硬さが食い込んだ。


硬い。朝よりずっと硬い。ほどけないように縫い止められた糸が、指に抵抗するみたいに押し返してくる。


なんでだよ。


なんで余計なこと言ったんだよ。黙ってればよかった。先輩の言葉を待てばよかった。「嬉しい」の次に何が来るか、聞けばよかった。聞くだけでよかったのに。それだけでよかったのに——俺は自分の安心を先に取った。怖かったから。ずっと怖かったから。怖さから解放された瞬間に、俺は先輩の気持ちより自分の安堵を選んだ。


最悪だ。


最悪なのは状況じゃない。俺だ。俺自身だ。段取りを完璧にして、言葉を選び抜いて、シミュレーションを何度も回して——それでも壊した。壊す側の人間だった。正解を選んだつもりで、いちばん大事な瞬間にいちばん身勝手な言葉を吐いた。


先輩の顔が目の裏に焼き付いている。笑いかけた目が閉じていく、あの一瞬。あの瞬間に、俺が奪ったものの大きさが分かる。分かるから苦しい。分かるのに戻れないから苦しい。


——もう一回。


もう一回だけ。


もう一回だけ、やらせてくれ——。


引きちぎった。


ぶつ——と。


想像より鈍い音だった。糸が千切れるのと布の繊維が裂けるのが混ざったような、乾いて短い一回きりの音。丁寧に縫われた糸を、力任せに引きちぎった感触が指に残った。ボタンが手のひらに転がり落ちて、金属の冷たさが掌の真ん中に触れた。指の腹に縫い糸の切れ端がこびりついている。


——あ。


世界の音が遠のいた。


吹奏楽の音が聞こえなくなった。校庭のボールの音が消えた。自分の呼吸だけが耳の奥で反響している。夕暮れの光が——おかしい。引いている。巻き戻されるみたいにオレンジ色の光が西から東へ吸い込まれていく。影が縮む。空の色が逆回転する。


足元が消えた。


立っているのに地面がない。体が落ちていくのか世界が持ち上がっていくのか分からない。視界が白くなって、音が全部消えて——


暗転。


---


目を開けた。


天井。


白い天井。見慣れた照明カバー。右上にある小さなシミ。


——夢か。


そう思った。告白して、失敗して、ボタンをちぎって——その続きの夢。疲れてたんだ。精神的に追い込まれて、帰ってきて、倒れるようにベッドに入って、それで夢を見ている。今はたぶん夜中で、目覚ましが鳴る前で——


横を向いた。


目覚まし時計の液晶が光っている。


7:15。


朝だった。


身体を起こした。手が震えている。指先が冷たい。なのに掌だけが熱い——さっきボタンを握り潰した感触がまだ残っている。金属の冷たさ。糸が千切れた抵抗。


夢にしては、おかしい。


夢で指の腹にこんな感触が残るか? 糸を引きちぎった手応えが——縫い目が皮膚に食い込んだ痕が——こんなにはっきり残るか? 先輩の声が耳の奥でまだ反響している。「なかったことにして」。あの声のトーンまで覚えている。夕日の角度。ギターケースの金具が光った位置。全部鮮明すぎる。夢の解像度じゃない。


手のひらを開いた。ボタンはない。糸の切れ端もない。


でも記憶だけが——全部ある。


スマホを掴んだ。画面を点ける。


日付。


——同じだ。


今日の日付。告白すると決めた、今日の日付。昨日じゃない。明日じゃない。同じ日の、朝。


「…………嘘だろ」


声が出た。自分の声が部屋に落ちて、返ってこなかった。


アラームが鳴った。七時十五分のアラーム。鳴る三秒前に起きるのがいつもの俺だ。鳴る前に止める。それが——今日はもう鳴っている。止め損ねた。当たり前だ。今の俺は「目覚めた」んじゃない。


アラームを止めた。指がまだ震えていた。


ベッドの上に座ったまま、呼吸を整える。一回。二回。三回。頭の中で夕暮れの校舎裏が再生され続けている。先輩の笑顔。「嬉しい」。俺の失言。先輩の目が閉じていく。「なかったことにして」。ボタンを掴んだ。引きちぎった。光が——


椅子の背に制服がかかっていた。


昨日の夜ハンガーにかけた、いつもの制服。立ち上がって、手に取った。袖を通した。ボタンを上から順に留めていく。第1ボタン。第2——


指が止まった。


第2ボタンが—— 付いている 。


灰がかった糸。硬い縫い目。結城が縫ったあの手触り。引きちぎったはずのボタンが、引きちぎる前とまったく同じ場所に、同じ強さで縫い止められている。布の裂けもない。糸のほつれもない。何もない。


「……なんだよ、これ」


足音が階段を上がってきた。


「恒一ー、起きてるー?」


母の声。


「……起きてる」


声が掠れた。喉が干からびていた。


階段を降りた。足元がおぼつかない。手すりを掴んで、一段ずつ。キッチンに母が立っていた。味噌汁の鍋に向かっている。テレビが点いている。天気予報。


『——本日の関東地方は晴れ、降水確率は十パーセントでしょう』


聞いた。


この天気予報を、今日、聞いた。


「おはよう」


母が振り向いた。


「……おはよ」


母が俺の制服の前を一瞬見た。


「そのボタン、最近付け替えたの?」


止まった。


「縫い方が丁寧ね。あんたがやったにしては」


同じだ。


朝と同じ言葉。同じ順番。同じタイミング。母の目線がボタンに行くところも、「丁寧ね」の語尾が少し上がるところも、全部——全部同じだ。


「——恒一? どうしたの、顔白いよ」


返事ができなかった。


母はさっき——いや"前の今朝"——これと同じことを言った。俺は「まあ、別にいいだろ」と返した。それで母はそれ以上言わずに味噌汁の鍋に戻った。全部覚えている。順番も、言い方も、台所の匂いも。


夢じゃない。


巻き戻ってる。


朝七時十五分。今日の朝七時十五分に——戻ってる。


「恒一ってば」


「——……別にいいだろ、そのボタンは」


声が震えた。母が怪訝そうな顔をした。でもそれ以上は言わずに味噌汁の鍋に戻った。——"前"と同じだ。同じ反応。同じ背中。


母が冷蔵庫に向かった。


手が伸びて、卵のパックを掴む。片手で取り出しながら、もう片方の手で冷蔵庫のドアを押さえる。


知ってる。


次に何が起きるか、知ってる。


パックが調理台に向かう。端の一個が揺れる。傾く。


——落ちる。


コン。


同じ音。同じ場所。卵が床に落ちて、殻が割れて、黄身が白いタイルの上にぬるりと広がった。同じ形。同じ方向に。


「あーあ……」


母が同じため息をついた。しゃがんで、キッチンペーパーを引き出す。


「もう、このパック開けにくいのよ」


同じ言葉。同じ語尾。同じ仕草。


全部知ってる。全部見た。全部——"一度やった"。


椅子に座った。トーストが皿の上にある。テレビが天気予報の続きを流している。


しばらく座ったまま動けなかった。トーストに手をつけないまま、自分の指を見ていた。さっきまでボタンを握っていた右手。引きちぎった右手。今はただの手だ。制服の第2ボタンは胸元に付いている。先輩はまだ告白されていない。颯太はまだ「硬くね?」と言っていない。全部がリセットされている。


全部が——


——全部が、リセットされている。


その意味に、急に気づいた。


告白は夕方だった。告白して、舞い上がって、壊して、ちぎった。そして——ここにいる。朝七時十五分。告白の十時間以上前。


つまり。


まだ、何も起きていない。


先輩はまだ告白されていない。俺はまだ失言していない。あの「すっきりしました」はまだ言っていない。先輩が「なかったことにして」と言った、あの瞬間はまだ来ていない。


来ていない。


まだ来ていない。


——やり直せる。


その言葉が頭の中に落ちた瞬間、全身に熱が回った。


やり直せる。さっきの失敗はなかったことになってる。先輩の中にあの記憶はない。俺だけが覚えていて、世界はまだ「今朝」で——これから同じ一日が始まる。


何がどうなってこうなったのかは分からない。分からないけど——


今、目の前にあるのは事実だ。


朝七時十五分。同じ日付。同じ天気予報。同じ母の言葉。全部が"やり直し前"に戻っている。


トーストを手に取った。齧った。——味がした。さっきは味がしなかったのに、今は味がする。バターの塩気が舌の上に広がって、それが妙にリアルだった。


何が起きたかなんて、どうでもいい。


理屈なんてどうでもいい。今大事なのはそこじゃない。


俺は一度告白した。ほぼ成功した。先輩は「嬉しい」と言った。あそこまでは正解だった。壊したのはたった一言だ。たった一言だけ飲み込めば——先輩は、あのまま笑っていた。


今度は飲み込める。一度失敗したから分かる。何がダメだったか、どこで口を開くべきじゃなかったか、全部分かってる。先輩が「嬉しい」と言った後——黙る。ただ黙って、先輩の次の言葉を待つ。それだけでいい。


それだけで、全部うまくいく。


立ち上がった。椅子が鳴った。


「いってきます」


「いってらっしゃい。傘いらないって」


——知ってる。


玄関を出た。朝の空気が頬に触れた。冷たいけど日差しは暖かい。空は晴れている。降水確率十パーセント。風はない。


靴紐を結ぶ指は、もう震えていなかった。


今度こそだ。


今度こそ、絶対に間違えない。


歩き出した。足取りは軽かった。制服の第2ボタンが朝日の中で光っていた。灰がかった糸に縫い止められて、硬く、確かに。


——この時の俺は、まだ知らなかった。失うものがあるということを。


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― 新着の感想 ―
はじめまして!この作品を読ませていただきました優貴と申します!こんな素晴らしい作品と出逢ったことがなく、凄く共感し感動しました。ありがとうございました!(´▽`)
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