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後書きでだいぶ補足しますが、それでも長くなりました。

短編で終わるはずだった当初の構想どこ行った……。

また後日、設定ページみたいなの作って詳細語りするかもしれません。



式は挙げたものの、簡略に済ませただけのファビアンとアンジェリクは結婚指輪などは交換していない。当然、いま彼女の左手の薬指にあるものはファビアンが与えたものではない。

ただのファッション……と思えるほど、ファビアンは能天気ではないし楽観的に考えられる状況でもなかった。


その時、長椅子に横たわるアンジェリクが身じろいだ。彼女がわずかに目を開けた次の瞬間、ファビアンは衝動的に行動に出た。


「……っ!?」


ファビアンの手がアンジェリクの口を塞いだことで、彼女の悲鳴は完全に抑え込まれてしまった。覆いかぶさってくる男を、アンジェリクが驚愕に目を見開いて見上げる。

もう一方の手で、ファビアンはアンジェリクの左手首をつかみ、指輪が見えるように掲げさせた。


「この売女め!俺が何も知らないと思うなよ!王姉だろうが、こんな醜聞は許されまい!」


騎士として鍛えているファビアンだったら、アンジェリクの細い手首など片手でもへし折れそうだった。口を塞ぐ手でアンジェリクの頭を長椅子に抑えつけ、彼女の抵抗を防ぐ。

――それで、完全に抑え込めたと思い込んでいた。


「いっ……!?」


口を抑えていた手を噛まれた。

所詮、守られるしか能のない女とファビアンが甘く見ていたのは事実だが、普段の物静かな……薄幸そうな姿からは想像もつかないほど、アンジェリクは容赦なく反撃してくる。


痛みに顔をしかめ、思わず力を緩めてしまったファビアンをアンジェリクは引き寄せ――突き飛ばされていたら、ファビアンは耐えただろう。だが、掴まれた手首をそのまま自分のほうへ引き寄せてファビアンを自ら近付けるというのは予想外な行動だった。普通は、恐怖で相手と距離を取りたがるものなのに。

荒事に慣れている――彼女の行動は、どう反撃したら女の自分でも男にダメージを食らわせられるか、分かっている人間のそれだ。


バランスを崩してアンジェリクの上に倒れ込んでしまったファビアンの急所に、思い切り膝が入った。

言葉にならない悲鳴を上げ、前かがみになったまま悶絶するという無様な姿を晒すファビアンの下からアンジェリクは素早く逃げ出し、這うようにして壁際にくっついて、自分のお腹を両手でぎゅっと庇いながら強く警戒した表情で敵に振り返る。

――その姿で確信した。間違いなく、彼女は妊娠している。


「こ、この……っ!」


なんとか苦痛をやり過ごしてうずくまっていた長椅子から立ち上がろうとしたファビアンは、一瞬、息が止まった。

何が起きたのか分からず、急反転する視界の中で目を白黒させ、背中に強い衝撃を受けて数秒間、息ができない状態が続いたように思う。


ゴホゴホと激しくむせ込んでいるファビアンの首を、ガシッと誰かがつかんだ。

アンジェリクではない。男の首を、声も出せないほどの力で圧迫し、壁に押し付けたまま片手でファビアンを軽々と持ち上げるこの手の持ち主が、女のわけがない。

首を絞めつける手を引きはがそうと必死でもがきながら見下ろし、ようやく視界を取り戻したファビアンは……自分を見上げる男と目が合って戦慄した。


王兄ミシェルだ。

ファビアンの身体を持ち上げるほどの力でファビアンの首をつかんでいる男は、アンジェリクの兄ミシェル。その顔には何の表情も浮かんでおらず、怒りも、憎しみも感じさせなかった。

ただ殺意だけが、ファビアンに向けられている。


長椅子でうずくまっていたファビアンの背後からミシェルは音も立てず、気配も完全に殺して素早く近付き、首根っこごと襟をつかんで彼を反対側の壁へと放り投げた――襟をつかまれたことでファビアンは一瞬息が止まり、されるがままとなった。

そうして壁に激突し、息苦しさに咳き込んでいるファビアンに大股で再び近付いて、ミシェルは完全に彼を捕らえた。


ミシェルのもう一方の手が、彼が腰に提げている剣へと伸びて。

……その手に、指輪があることにファビアンは気付いた。アンジェリクと同じ左手の薬指に、彼女が身に着けているものと同じ指輪を。

二人とも、平時は手袋を付けていたから知る由もなかった。


――知るべきではなかった。

ファビアンは察した。後悔した。


ミシェルにとって唯一無二の相手を襲い、知ってはならない真実を知ってしまった。もはや、彼にはファビアンを始末する理由しかない。

部屋の片隅で自分たちを見つめるアンジェリクの目には、ファビアンへの憐みの色があった――。


「母様……?何かあったの……?」


その声が聞こえてきた途端、人ならざるもののような空気を帯びていたミシェルの顔に、急速に人間らしい表情が戻った。わずかに目を見開き、ファビアンの首を掴んでいた手がパッと離された。

床に放り投げだされたファビアンは無様に尻もちをついて倒れ込み、またゲホゲホと咳き込む。


アンジェリクは内扉を開けて寝ぼけながら部屋に入ってきた息子に急いで駆け寄り、ガブリエルの視界を塞ぐように抱き寄せる。

まだ眠いガブリエルはしきりに目をこすり、目の前の母の姿すら見えているのか曖昧な様子だった。


ミシェルは椅子の背にかけっぱなしになっていたアンジェリクのガウン……と、その下にあった子ども用のガウンを手に取り、いつもの優しい伯父の顔でガブリエルたちに近付く。


「こんばんは、ガブリエル。今夜は甘えん坊をして、アンジュと一緒に寝てたのか」

「甘えん坊じゃないもん……。伯父様がいない間は、僕が母様とお腹の赤ちゃんを守ってあげなくちゃいけないから、一緒にいてあげただけだもん」


ミシェルの指摘は、ズバリ図星だったのだろう。

甘えたくなって、今夜は母の寝室に来ていた。ガブリエルの照れ隠しにミシェルは笑い、妹にガウンを着せてからガブリエルの頭をポンと撫でる。


「――君たちを迎えに来た。そろそろ城へ帰ろう。アンジュとガブリエルがそばにいてくれないから、僕は一人ぼっちで寂しくて堪らないよ」


言いながら、ミシェルは甥にもガウンを着せていく。

まだ頭が回らないガブリエルは伯父の言葉が意味が分からないらしく、ぼんやりとした表情で、自分を抱き上げるミシェルにもたれかかってウトウトとし始めた。


片手で甥を抱き、もう一方でアンジェリクを抱き寄せて。

部屋を出ていく三人を、まだ床にへたり込んだまま放心しているしかできない状態で、ファビアンは見ていた。

部屋を出る直前、ミシェルが一瞬だけ足を止めて言った。


「ロジェ、片付けておけ」


まったく気が付かなかったが、部屋にはミシェルだけでなく執事長のロジェも駆けつけていたらしい。

しかしファビアンが彼の姿を確認するよりも先に意識が遠のき、視界は真っ暗になった。




「――起きろ……ファビアン・ド・バシュレ!さっさと起きんか!」


ファビアンの意識は、自分に向かって呼びかける怒号によって浮上した。ガクガクとかなり乱暴に身体を揺さぶられているような気もする。

だが……意識はあるのに、身体が異様に重い。瞼は接着剤でくっつけたかのように動かず、なんとか開いた隙間からは、自分と同じ制服を着る男の顔が見えた。見覚えは……あるような気がする。直接関わったことはないが、ファビアンの先輩騎士の一人。

ファビアンが目を覚ましたことを確認した騎士は、ファビアンをどこかから引きずり下ろし、床の上で抑えつけてきた。


ファビアンは抵抗もできず、されるがままとなって……何をする、と叫びたかったのに、身体はまったく言うことを聞かない。ファビアンの身体は、まるで別物のように……。


「完全に泥酔しているようだね。抑えつけずとも、まともに立ち上がることすらできないようだ」


嘲笑する声が聞こえる。この声にも、聞き覚えがあった――声の主はファビアンの前を通り過ぎ、ベッドのサイドテーブルに手を伸ばしてワイン瓶を取る。

どうやらファビアンはベッドの上に横たわっていたらしい。目だけを動かして周囲を確認してみれば、ここはかつてのファビアンの部屋だった。


騎士はファビアンを抑えつけている男だけでなく、複数いるようだ。

……なぜ、騎士たちがこの屋敷に?


「なかなか良い酒だ。飲み過ぎてしまう気持ちは分からなくもないが……だからと言って、殺人を許す理由にはならないな」


殺人、という単語にギョッとなった。冷や水を浴びせられたような衝撃で正気をさらに取り戻し、鉛のように重い身体をファビアンは必死で動かした。それでも、わずかにもぞもぞと動いただけだったが。

床に抑えつけられたまま頭上を見上げ、自分のそばに立つ男が王兄ミシェルと……ファビアンの上司でもあるデムラン侯爵であることをようやく把握した。




「ろくでもない男だが、あれはこの国の王だ。そんな男の愛人を殺めたとあっては、とても庇い立てできまい」

「殿下のおっしゃる通りにございます。此度の不祥事……申し開きの仕様もございません」


デムラン侯爵は王兄ミシェルに深々と頭を下げ、陳謝する。

城から国王の愛妾アリソンの姿が消えたと密かな騒ぎになり、騎士団でも捜索隊が組まれていた頃、ファビアン・ド・バシュレの家の召使いが血相を変えて騎士団へと駆け込んできた。

――ご当主様の部屋で、見知らぬ女性が血まみれで倒れている。


いつものように主人の部屋に掃除をしに来た侍女が、部屋に入って主人のベッドに横たわる男女の姿を見つけ、腰を抜かしながら大絶叫した。そうして複数の家人が駆けつけて部屋に入って、血まみれの女性と、その隣で眠りこけているファビアンを目撃する。

女主人は城へ戻って来ていたので急いで城に来て報告すると、たまたま居合わせた王兄ミシェルから、騎士団に報告して騎士を何人か自分のもとへ来させろ、と命じられた。


『妹と甥が醜聞騒ぎに巻き込まれるのは御免だ。秘密裏に、僕たちだけで状況を確認する。騎士団にとっても悪い提案ではないだろう』


ファビアンの上司でもあるデムラン侯爵は、王兄の提案に頭を下げるしかなかった。

そして信頼も実力もあるベテラン騎士だけを集めて王兄と共に侯爵がバシュレ邸へと向かってみれば、遺体となった件の愛妾と、眠るファビアンを発見した。

――そして、いまに至る。


「侯爵。その男は即座に始末してしまうことを勧めるよ。共に酒に入った毒で心中を図ったということにしてしまおう――下手に真実を暴くと、義弟が騎士団全体の責任を問うてくるのは見え見えだ。優秀な人材をこんなことで失ってしまうのは……僕としては残念でならない。できることなら、回避したいと思うのだが」

「殿下の寛大なご采配に感謝いたします」


デムラン侯爵はさらに深々と頭を下げ、床に抑えつけられているファビアン・ド・バシュレ以外の騎士全員が王兄に対して深い感謝の思いを抱いた。


一介の騎士が、国王の愛妾を殺した。

とんでもない大失態だ。あの国王なら、ファビアンを処刑しただけでは腹の虫が収まらず、ファビアンと少しでも関わりのあった騎士も全員首を刎ねてしまえと言い出しかねない。

上司であるデムラン侯爵も例外ではない。


妹の名誉のために穏便に収めたい王兄の厚意に騎士団も乗るべきだろう。

デムラン侯爵が部下に命じて「片付け」を急がせる傍らをミシェルは通り抜け、部屋を出る直前に一度だけファビアンに振り返った。

フラーズ商会から取り寄せた特別製の酒をしこたま飲まされたファビアンは、まだ騎士によって床に抑えつけられたまま。意識はそこそこ取り戻したようだが、指先一つ動かせまい。


ミシェルは、独り呟いた。


「とても残念だ。君なら、妹の子の、良い父親になれると思ったのに」




国王の愛人と騎士が、許されざる恋の果てに心中した。そんなゴシップが町でにわかに広がり、様々な憶測が飛び交って……そんな話題への関心も薄れた頃。

マチルドは、長年働いている店の店長から呼び出された。


「レスコー……ですか?」

「ああ。うちもずいぶん軌道に乗って来たからね。レスコーに新店舗を開店させる準備ができたんだが……どうだろう。いずれは支店長を継いでもらうつもりで、本店からは君に行ってもらいたいんだ」

「遠いですね……」


マチルドの指摘に、店長が気まずそうな顔をする。実は、と申し訳なさそうに打ち明けてくる。


「王都から離れているし、戻ってこれるとは限らないから、なかなか引き受けてもらえなくて……。それで君に白羽の矢が立ったところはある。もちろん、君にも断る権利はあるよ。だが、君の実力を高く評価して勧めていることだけは信じてくれ――」

「分かってます。いいですよ。私も、町を離れたいなって思ってたところですから」

「本当かね!?いやぁ、助かるよ……!」


予想外の展開だが、いまのマチルドには願ってもない話だった。

いまのマチルドには……新しい土地、新しい日常が必要だ。


レスコーへ出発するまでに、やっておかなくてはならないことがたくさんあって、マチルドは別れを悲しんでいる余裕もなかった。

それでも、出発の前夜、最後にどうしても行っておきたかった場所へと向かう。


かつてはマチルドが愛した男の屋敷――いまは跡形もない。ほんの数か月前には、ここには立派な屋敷が建っていたのに。

いつか……ファビアンの妻として認められて、その屋敷の門を正面からくぐることを夢見ていたこともあった。屋敷の塀の門だったようなものは残っているが……。


ほとんど更地と化したそこは静かで、人の気配はない。こんなところ、訪ねるような物好きは自分ぐらいか。マチルドが自嘲して残骸と化した門をくぐろうとした時、ヒヤリとしたものがマチルドの首筋に触れた。


「なぜここへ来た?過去に戻りたくなったか?」


まったく知らない男の声。静かに問いかけてくる声に、マチルドはヒュっと息を呑み、心臓がバクバクと嫌な音を立てて脈打つ。

なぜか――理屈なんか何もなく、ほとんど本能でマチルドは察した。自分はいま、命の危機に瀕している。答えを誤れば、自分は殺される――。


「ちょっとだけ……感傷的な気分になっただけよ……。もう二度と、ここに戻ってくることはないから……明日から、私は完全に新しい人生を歩むわ。だから……さよならを言いに来ただけ」

「そうか」


首筋に触れていたものが消えた。男の気配が遠のいて行くのを、マチルドは背中越しに感じていた。

……たぶん、マチルドでも分かるようにあえて気配を感じさせていただけで、本来は何も気付かせることなくマチルドのことなど始末できる人間だったに違いない。


「その言葉を肝に銘じておくことだ――自ら口にしたことを守っていれば、私もおまえのことを忘れることにしよう」


気配は完全に消えたが、男の声だけが闇に響く。

しばらくの間、マチルドはその場に立ち尽くし……長く息を吐いてから、周囲を見回した。マチルド一人しかいない更地は、風が吹き抜けるだけだった……。




バシュレ邸跡地から戻ったロジェは、王城の奥へと真っすぐ向かっていた。


主から命じられたことは、これで終わった。念のためマチルドが王都を出ていくまで自分の部下に見張らせるが、もう自分が出しゃばるほどのことは起こるまい。

部屋にいた主にそう直接報告すれば、彼女はホッとしたように答えた。


「そう……良かった。これでお兄様も、彼女のことはもう見逃してくれるわね。王都を離れて、二度と戻ってくることのない人なんだから……。そんな人が遠い町で何を喋ろうとも、この城にまで届くことはないでしょう」


静かに頭を下げ、ロジェは彼女に同意を示す。

ファビアン・ド・バシュレがアンジェリクの妊娠について余計な情報を周囲の人間に漏らしていたのではないか――疑わしきはすべて始末してしまえという兄の魔の手からマチルドを救いたくて、アンジェリクはロジェにあれこれ動いてもらっていたのだ。


ため息を吐き、アンジェリクはロジェを見た。


「お兄様にあれこれ言われたら、命じたのは私だって、ちゃんと反論するのよ。あなたのことまで罰するような短気な真似はしないとは思うけど……」


話している間に、部屋の外がにぎやかになった。誰が訪ねてきたかは明白で、ロジェは出入り口まで彼を出迎えに行く。

――二人の予想に違わず、ガブリエルが部屋に入ってきて、寝台に腰かけている母のもとへ一目散に駆け寄ってきた。


「母様、エブリーヌはどこ?まだ寝てる?」


アンジェリクはクスクス笑い、ロジェに頼んで別室のゆりかごで眠っている娘を連れてきてもらう。ロジェの腕に抱かれて寝室に入ってくる妹を、ガブリエルは目を輝かせて見つめていた。




一方その頃、王城のとある一室。宰相ジャルベールの報告を、国王サロモンは退屈そうに聞いていた。

話をどこまで聞いているのか――あくびをする王に宰相は表情をぴくりとも動かさず、長々とした報告を最後に簡潔にまとめた。


「――以上の調査により、ブリジット様とロリオ子爵にかかった姦通罪はアリソンを中心に、彼女の取り巻き連中が仕組んだ冤罪だったということが判明致しました。ブリジット様を排除すれば、自分こそが陛下の寵愛を独占できると、浅はかにもそう考えたのでしょう」

「ふーん。ブリジットとロリオ子爵は残念だったな。賠償金をたっぷり払っておけ。遺族がやいやい言ってこないように。それで十分だろう」


これで話は終わったとばかりに寝室に引っ込もうとする王に、宰相は続けた。


「ブリジット様とロリオ子爵の処刑は、まだ執行されておりません。陛下が署名なさった後、執行書はミシェル殿下のご要望で彼の御方が預かるところとなりまして……法務大臣に確認したところ、まだ執行書が届かなかったので、刑も執行されぬままだったと」


――他ならぬ国王自身が一族郎党の処刑を命じたのだから、本来ならブリジットたちに遺族などいるはずがないのだが。コロっと忘れている王の愚かさを指摘するような野暮な真似はせず、宰相は淡々と報告する。

恥知らずの国王は、そうか、とどうでもよさそうに相槌を打った。


「だったら賠償金は安く済むな。無駄遣いするなといつも僕に説教するおまえにとっては、良いことだったじゃないか」

「……まことに」


話が終わったならさっさと出て行け、と言わんばかりの態度をとる王に頭を下げ、宰相は王の私室を退出する。

――国王サロモンは最近、新たな愛妾を迎えたばかりで、いまは彼女を寝所に呼びつけることが何よりの楽しみなのだ。

すっかり飽きて興味のなくなった女の行く末など、彼にはどうでもいいこと。

勝手に死んだ愛妾のことも、処刑されるはずだった愛妾のことも、気に掛けることはなかった。




王の私室を出た宰相は、執務室へと戻る廊下の途中で王兄ミシェルとすれ違う。

この辺りは王族のためのプライベートなエリアだ。当然、ミシェルもここを出入りしている。いまの時間は……たぶん、アンジェリクの部屋へ向かう途中だったのだろう。彼も宰相に劣らず、「後始末」が忙しくて、こんな時間になってようやく妹のもとへ戻れるようになったらしい。


頭を下げて王兄を見送ろうとした宰相の前で、ミシェルが立ち止まった。


「――ジャルベール。僕が何も知らないと思わないことだ。君が最近、バシュレという領地について頭を悩ませていたこと――僕がついで始末してくれないかと期待して、アンジュの夫になるよう根回ししたことぐらい分かっている」

「バシュレ領について悩んでいたことは事実ですが、その縁でファビアン・ド・バシュレという男の人となりを知り、アンジェリク様の夫役を欲しがっている王兄殿下のお眼鏡に適う男だと判断しただけのこと。まさか、アンジェリク様に関心を寄せて余計な詮索をしてくるとは思いもしませんでした――そんなことにも思い至らない男だと侮っていたことについては、たしかに私の落ち度です」


ジャルベール公爵領は、隣接するバシュレ領からならず者がしょっちゅう入り込んでくるので、宰相にとっては悩みの種であった。

どうやら先代当主の跡を継いだ男が不良執事に一任して領地をほったらかしているらしく、領はずいぶんと荒れ果てて、隣接する領地はおおいに迷惑していた。


直系当主の処刑後は妻のアンジェリクが領地を引き継いでる。彼女が託してくれたので、ようやく宰相もこの問題を片付けられそうだ。

……こんな結末になるのではないかな、と。考えたこともなかったと言えば嘘になるが。


「予想外の展開も、見事にまとめあげてみせる殿下の腕前はさすがでございます。おかげさまで、私の友人も命拾いしました」

「そうだろうとも。ブリジットなど、君にとってはどうでもいい人間のはず。君が助けたい人物は、ロリオ子爵のほうだろう――解決してやったのだから、しばらくはアンジュに余計な負担をかけないことだ」


愛想の良い笑顔を浮かべて話し続けているが、ミシェルの声色は険しい。いまは……ちょっとの刺激でも、彼の堪忍袋の緒はたやすく千切れてしまう状態のようだ。

アンジェリクの状況を考えれば、当然である。


「アンジュは君を友と呼んでいる。僕は可愛い妹の意思を尊重する優しい兄でいたいが……そのために妹が害されるとあっては本末転倒だ。僕が妹に嫌われないよう、君も慎んでくれ」


本当は、いますぐにでもミシェルは宰相を始末してしまいたがっている。

国政を自分の望む通りに動かすため、宰相はミシェルを利用する――そのミシェルを利用するためには、アンジェリクの協力が必要不可欠。しょっちゅう妹を利用しにやってくる男など、ミシェルにとって許せるわけがない。

……が、アンジェリクが宰相ジャルベールを許してあげてと懇願するので、ミシェルは渋々彼を見逃していた。


だがいまは――。




奥の寝室から、子どもの笑い声が聞こえてくる。

寝室に入ってみれば、寝台にはアンジェリクとガブリエルが並んで腰かけていて、ガブリエルは母が腕に抱く赤ん坊の顔をのぞき込んでいた。


「やあ、ガブリエル。君も夜更かしして、母様と妹の夜這いにやってきたのか」


ミシェルは冗談めかして言ったが、アンジェリクからは思いっきり非難がましい目を向けられてしまった。ガブリエルは母のそんな表情には気付かず、えへへ、と伯父に向かって笑う。


「だって赤ちゃん、すごく可愛いから。ずっと一緒にいたくなるんだよ」

「その気持ちはよく分かる。妹というのはとても愛しく、身命を賭して守りたいと思うのが自然だ」


ミシェルの言葉を幼い甥は無邪気に聞いていたが、妹は複雑な表情をしている。ガブリエルを挟んで自分もアンジェリクの隣に腰かけ、妹の顔に手を伸ばした。


「顔色もだいぶ良くなった。とんだ醜聞に巻き込まれ、おまえもずいぶんショックを受けた状態での出産となってしまったから、僕も心配だったんだよ。予定よりもずっと早くに生まれてしまって」


白々しい、と妹は目線でミシェルに訴えてくる。

公にはそういうことにしているだけで、アンジェリクは本来の予定通りに娘を生んだ。何もかも偽りだらけの出産だった。自分たちの罪を背負う憐れな存在が、また増えてしまった……。


「エブリーヌ」


アンジェリクの腕に抱かれた赤ん坊に、ミシェルが呼びかける。まだ視力がはっきりしない娘は、緩慢な動きで目線を動かし、ぼんやりとミシェルのほうを見た。

きっと、エブリーヌにはミシェルがちゃんと見えているわけではないのだろうけれど、ミシェルにはそれで十分だったようで、姪に向かって優しく笑いかけた。


――歪みと偽りしかない関係だが、王兄ミシェルの彼女への愛情は本物なのだと思う。

こんなのは間違っている、と。アンジェリクがすべてを壊す勇気が抱けないぐらいには、彼女も兄の気持ちを否定できなかった。


「アンジュも元気になってきたなら、ユベルドーを城に呼んで、エブリーヌの部屋も本格的に作らせよう」

「……亡くなった夫の屋敷にあった家財道具は、彼に引き取らせたのよね」

「長年、私腹を肥やしていた執事長のおかげで、大したものは残っていなかったけれどね。でもそれなりに歴史的価値はあったようで、ユベルドーは満足そうだった。そう言えば、おまえもいくつか気に入っていたな」


嫌味が遠回し過ぎて、ミシェルにはまったく通用しなかったようだ。

国王の愛妾と密会し、殺人の現場ともなったバシュレ邸は、王兄の命令で取り壊されている。まったく実情のない関係だったとしても、アンジェリクが他の男の妻として暮らした建物が残っていることが、ミシェルには耐えられなかったらしい。

屋敷は取り壊されたという報告だけを後から聞かされたアンジェリクは、ショックを受けた。


「心ない召使いたちのせいで荒れてはいたけれど、素敵な屋敷だったもの」

「そうか。なら郊外に、僕らの別荘として同じものを建てさせよう。ユベルドーに引き取らせた家具も取り寄せて。おまえと子どもたちだけで過ごせる家を作るのは悪くない」

「そういうことじゃないんだけどね……」


そこで暮らしていた人たちの想いが込められていたから、なんて言っても、きっと兄は理解してくれない。

兄は自分たちが育った場所すら何の思い入れもなく取り壊してしまうような人間だし――不義の子として疑われて流刑となった結果あんな場所に追いやられたのだから、思い入れがないのも当然なのかもしれないが。


「僕たち、また違うお家で暮らすの?」


アンジェリクとミシェルに挟まれて座るガブリエルが、伯父を見上げて言った。

そうなるかもしれないね、とミシェルが言えば、ガブリエルは何やら考え込んでいる。


「お城よりも母様とゆっくり過ごせるのは嬉しいけど、伯父様と離れ離れになっちゃうのは嫌だな。前のお家にいた時も、伯父様とさよならしないといけないのはすごく寂しかった」


ガブリエルの言葉に、ミシェルは甥を抱き寄せ、額に口付ける。

その姿は、我が子を真摯に愛する父親そのもので。

――ガブリエルのほうも、真実を知らないまま、伯父を父親同然に慕っている。


こんな光景を見せられては、アンジェリクも兄から離れることはできなかった。

我が子はどうしても手放せない。そして、子どもたちにはミシェルが必要だ。これから先も、罪を犯し続けていくと分かっていても。



アンジェリク

国王とは母親違いの姉弟。ぼんくらな弟でも見捨てられず、

そんな弟のせいで犠牲になる人たちも放っておけないので

利用されていることは分かった上で宰相たちの相談によく乗ってる。

同母兄のことは家族としては愛情があるので、本当はただの兄妹でいたい。

色々と嫌気も差しており、すべてを捨てて尼僧になりたいとすら思っているのだが

子どもは絶対に捨てられないのでいまも王城で暮らしている。


ミシェル

実の妹を女として愛する異常者。良心や恐怖心などが著しく欠如している。

自分と妹に都合のいい生活を送れるからという理由で王兄の地位にあるだけで

出世欲なども乏しい。政治にも関心はないのだが、ぼんくらな国王が

唯一頭が上がらない人物ということで強制的に関わる羽目になることが多い。

妹のことを本気で愛してはいるが独りよがりな愛情で、

自分から逃げたがる妹を縛り付けるために子を生ませるという狂気っぷりである。

生い立ち自体は結構苦労人で、正統な第一王位継承権を持つ王子だったのに

流刑地育ちな上に王子としての地位を取り戻しても戦場に出ずっぱりだったりと、

こんな性格じゃなければ病んでるレベルに壮絶な過去の持ち主。


ロジェ

ミシェルの腹心の部下。本編でもちらっと語ったように

ミシェル、アンジェリクの乳兄妹で共に流刑地で育った幼馴染み。

兄妹への忠誠心は強いがミシェルのような性格破綻者ではないので、

すぐ殺人に走る兄を止めたいアンジェリクに心情は寄っている。

ただし、兄妹のためなら自身も手を汚すことは厭わない。


ファビアン・ド・バシュレ

アンジェリクと二人目の子どもが欲しかったミシェルのために選ばれた生贄。

他に惚れてる女がいるらしいのでアンジェリクには興味を示さない

=ミシェルに始末されるようなこともしないのでは、という期待はあった。

アンジェリクの妊娠を知ってしまったことでミシェルが彼を始末する計画が進んでしまう。

浅はかで短絡的、愛人にもモラハラ気味な愚かな男として描かれたが、

ミシェルのモラハラサイコっぷりは彼の比ではないので、運と間が色々悪かった男。

ちなみに王侯貴族の女性にとって髪を下ろしている姿というのは

とてもプライベートな姿でもあるため、絵描きの場に乱入して

アンジュの寛いだ姿を見てしまったこともミシェルの殺意をかなり高めてる。


マチルド

ファビアンの愛人。良識的な女性で、ファビアンの女を見る目はたしかだった。

貴族と平民は結婚できないという決まりがあるのでファビアンとの関係は

愛人止まりだったが、ファビアンが身分を捨てて彼女との将来を選んでいれば

たぶん幸せになれた。

残念ながらファビアンのほうが温室育ちで覚悟が足りず、貴族としての生活に

しがみついたままだったのでマチルドにも愛想を尽かされてしまう。


サロモン

国王としてはぼんくら、男としてはろくでなし……なのだが、

「血が繋がってる兄妹に発情するとかありえない」という部分だけは

真っ当な感性なので、アンジェリクを性的な目で見ることのない

唯一の男としてミシェルから見逃されている。

ちなみに異母兄の本性は知っているのでめっちゃ怖がっている。


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