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突発的に思いついた物語で、本当は読み切りぐらいの長さにしたかったのですが

つい話を膨らませてしまったのでちょっとだけ連載。

長くし過ぎたくないので書ききれなかったところは後書きで裏設定明かすという反則やります。


どいつもこいつも倫理観ゼロで主人公サイドが一番狂ってるというオチなので

正統派ストーリーは期待しないでください。




「私がおまえを愛することはない。私が愛するのはマチルドただ一人。おまえとの結婚は、国王より命じられた不本意極まりないものだ。私の意思ではない」


王国騎士ファビアン・ド・バシュレは、たったいま結婚の誓いを述べ合ったはずの女性に向かい、冷たく言い捨てた。

彼女を見る目は強い嫌悪に満ちており、自分の本心を取り繕うことをしない。


婚礼衣装を着用したままの新妻の顔はヴェールですっぽり覆われていたため、自分の宣言に対して彼女がどんな表情をしていたのか見ることはなかった。

――彼女がどう思ったのか、そんなことを考えるということすら彼はしなかった。


着替えのために下がっただけの彼女の部屋に無作法に押しかけ、一方的にそう言って、身勝手にもファビアンはそのまま出て行った。

この女の――この女たちの思惑通りにさせてたまるものか、と強い決意を抱いて。


不本意な結婚を強いられたせめてもの反抗として、ファビアンは何がなんでも白い結婚を貫きたかったのだ。




そんなバシュレ夫妻に転機が訪れたのはそれから半年ほど経った頃。


その日のファビアンはいつものように騎士団での仕事を終え、王城にある騎士団の詰め所で帰り支度をしていた。

同じく仕事を終えて帰り支度をしていた同僚が、ファビアンに話しかけてくる。


「今日も自宅に帰らないのか?」

「父が亡くなり母が尼僧院に入って以来、あそこを自宅と思ったことはない。マチルドの待つ家こそが、俺の自宅だ」


ファビアンの父も高名な騎士だったのだが、数年前の戦争で戦死している。父の死後、母は尼僧院に入って……ファビアンも何年かは尼僧院に会いに行っていたが、その母も二年前に亡くなった。

両親がいなくなってしまった広い屋敷に帰るのは気が進まなくなり、ファビアンは王都のはずれにこぢんまりとした別邸を購入した。それ以来、生活のほとんどはそこでしている。マチルドと出会って彼女と一緒に暮らすようになってからは、バシュレ家の屋敷に顔を出すこともなくなった。


そんな屋敷にはいま、腹立たしいことに、バシュレ夫人の称号を得た女が住み着いている。

どう暮らしているかは知らないが……。


「そんなに放置していていいのか?相手は仮にも王族だぜ?そりゃ子持ちの未亡人なんて、とんだ貧乏クジを押し付けられたもんだって、俺でも気の毒に思うけどさ……」


同僚が眉をひそめて言った。


心から自分のことを案じて忠告してくれているのは分かる。

だがやはり、この話題を持ち出されるとファビアンも表情が険しくなってしまう。


他に愛する女がいるというのに、自分たちを引き裂くように王命で結婚させられ、事情を知らない周囲からは冷やかされ、やっかみまで言われる始末――王族と結婚したファビアンは、出世街道を約束されたようなものだ、と。


「……でも、あんまり無碍にしないほうがいいぞ。アンジェリク殿下と言えば、陛下の異母姉で、王兄殿下と共に、あの国王に意見できる数少ない御方なんだからな」


同僚の忠告に、憤慨したままではあったが反論しなかった。

あの国王の姉。本来ならば雲の上の御人であって、王国騎士であるファビアンは最上の敬意を払うべき相手である。


現国王は独身で、この国には長い間、王妃が不在のまま。そのため、城の奥にある後宮は王姉アンジェリクが女主となって独占しており、我が子と共にそこに引っ込んで、王姉は表舞台にほとんど姿を現さない。


実はファビアンも、彼女の姿は年に数回ある式典で、遠目からちらっと見たことがある……という程度でしか見たことがなかったりする。

王姉アンジェリクにとっては二度目の結婚ということもあって、結婚式は屋敷に招いた神父の前で結婚の書類に署名をしただけ。不本意な結婚を強いられただけのファビアンも、華やかな式は望まなかった。

控えめながらも婚礼衣装だけはしっかり着込んだが……とにかく腹が立っていた自分は、新婦を徹底して無視した。目を合わせないよう努めた。


おかげさまで、いまもファビアンは彼女の姿をろくに知らないままであった。


「ファビアン・ド・バシュレ、君にお客だ。君の家人だと名乗っているのだが」


帰り支度が止まっていたファビアンたちのもとに、別の同僚が声をかけてくる。

家人……と呟いたファビアンの前に姿を現したのは、妻が住むほうの屋敷に勤めている男だった。母が亡くなってから雇われた若い男なので、あまり面識はないのだが。


「おまえは、たしか……」

「アポーです!執事長のランソンさんに雇ってもらっていた!」

「ああ……そんな名前だったな……」


ランソンのほうはファビアンももちろん知っている。祖父の代からバシュレ家に仕えてくれていた執事長で、ファビアンも彼を深く信頼していた。両親亡き後もファビアンを主人と仰ぐ彼に、放ったらかしにしている屋敷や領地のことを一任していた。


だが、王姉が降嫁してきて数週間後、彼は退職を申し出て、生家へ帰ってしまった。

彼が屋敷を去ってしまったことをファビアンが知ったのは、自分に充てた手紙が王城にあるこの詰所に届いてから。寝耳に水で驚いたが、新たに屋敷を管理してくれる人間が現れたのなら、高齢の自分は引退したい、故郷でゆっくり余生を過ごしたい……と書かれていては引き留められるはずもなく。


感謝の返事を送って、ファビアンもその後のことはすっかり忘れていた……。


「ご主人様、どうかお屋敷にお戻りください!あの女が来てから屋敷はめちゃくちゃです!あの女、屋敷にいた召使い全員クビにして、お城から連れてきたロジェとかいう男を執事長に据えて、まるで屋敷の主人のように好き放題やってるんですよ!?」


あの女、というのはファビアンと結婚した王姉アンジェリクのことだろう。

まるで屋敷の主人のように……と言うが、実際、彼女はいま、あの屋敷の正当な女主人である。アポーの発言こそ、不敬極まりない無礼なものなのだが――傍で聞いていた同僚はアポーの言い様に眉をひそめたが、ファビアンは妻への理不尽な敵意と怒りから、召使いの無礼さを咎めなかった。


「あの女……妊娠してるみたいなんです!ご主人様、このまま放っておいたら、どこの馬の骨とも分からない男の子を押し付けられちまいますよ!」


ファビアンとその妻は、結婚半年経っても白い結婚を貫いている。結婚式以来、ファビアンは妻と顔を合わせるどころか彼女の暮らす屋敷に近寄ってもいない。

当然、妻が夫の子を妊娠する可能性はゼロである。




ファビアンがバシュレ家の屋敷を訪ねたのは、半年ぶりだった。

馬車が門の前に到着して、一歩、足を踏み入れた瞬間から、ファビアンも違和感に気付かずにはいられなかった。

――この屋敷、こんなに美しかっただろうか。


先祖代々受け継いだ屋敷と言えば聞こえはいいが、建物は年季が入って古い。

父は騎士としての仕事が忙しくて屋敷のことには無頓着だったし、母はそれなりに気を配って手入れをさせていたようだが貴族にしては質素な生活を心がけ、召使いは必要最低限しか雇っていなかった。

だから日常でよく利用するような部屋や場所はちゃんと整えられていたが、そうでないところは割と放ったらかしだったのである。

その母が尼僧院に入ってからは、完全に召使い任せで放置していて。


半年前、簡素な結婚式のために屋敷を訪ねた時には、どんよりとした重い空気に包まれていて……ぶっちゃけると、埃くさくてカビくさくて、ファビアンの目にも掃除が行き届いていないのは明らかで、その居心地の悪さでさっさとマチルドの待つ別邸に帰りたかったという本音もあった。


そんな有様だったはずの屋敷はいま……庭は美しく整えられて、屋敷の外観も、ひび割れや無様に欠けていたような箇所は綺麗に修理され……首を傾げながら、ファビアンは門をくぐり、屋敷の入り口へと向かう。

扉をノックしようとしたら、庭から甲高い笑い声が聞こえてきて、勢いよく子どもが飛び出してきた。


男の子は輝くばかりの笑顔で飛び出してきたのだが、扉の前に立つ男を見た瞬間に笑顔が引っ込み、ぴたっと立ち止まって少し後ずさりする。

王姉には息子がいたはず、ということを思い出したファビアンは、目の前の男の子の正体を察した。


男の子のあとから彼を追いかけてきたらしい召使いが数人現れて、同じようにファビアンを見て困惑している。


「こんにちは……。どちら様ですか?」


気まずい空気の中、先に口を開いたのは男の子のほうだった。礼儀正しく話しかけてくる男の子に、今度はファビアンがオロオロとする番だった。目線をさまよわせて、あ、あ、と意味不明の音を呟くだけの自分の鼻先で、屋敷の扉が開いた。

扉の前に立っていたファビアンは慌てて飛び退いたが、中から扉を開けた男はファビアンにぶつかりそうだったという事実にはそ知らぬ顔だ――陶器人形のように美しく、冷たさを感じさせた。


男は、わずかに頭を下げた。


「お待ちしておりました、ミシェル様。アンジェリク様なら、天気が良いので今日は中庭のテラスにいらっしゃいます」


男が目の前のファビアンではなく別の名前を呼んだので、ファビアンはギョッとした。

ミシェルというのは、現国王の異母兄の名前である。ファビアンの妻アンジェリクの同母兄でもあり……ファビアンの首筋が、急にひやりとしたような気がした。


振り返れば、たったいま自分が入ってきた門から背の高い男がこちらへ歩いてくる――王兄ミシェルは貧弱な弟王と異なり、自ら戦場に出たこともある美丈夫だった。

騎士のファビアンよりもさらに背が高く、体格もまったく見劣りしない……どころか、その貫禄と迫力も加わって、ともすればファビアンのほうが小さく見えた。年齢も、さほど離れていないはずなのに……。


「伯父様!」


立ち止まってもじもじしていた男の子が、王兄ミシェルを見て目を輝かせ、飛びつく。自分に抱きつく甥を抱きとめたミシェルはその威圧的な存在に対し、やわらかくも優しい笑みを浮かべていた。

その表情のまま顔を上げてファビアンを見据えたが、なぜかファビアンは蛇に睨まれた蛙のような気分となった。


「やあ、バシュレ伯爵」


ミシェルが話しかけてくる。

王兄の声は心地よいバリトンで、偉ぶったところのない気さくな声色があった。

……なのに、ファビアンは緊張と迫力に圧され、喉が詰まって咄嗟に返事ができなかった。


「ようやく君に挨拶ができた。縁あって兄弟となったのだから、ずっと君に挨拶をしたいと思っていたのだがね。いつ屋敷を訪ねても機会に恵まれず、残念に思っていた。ようやく対面がかなって嬉しいよ」

「は、ははっ!私のほうこそ……挨拶が遅れてしまいました!」


同僚の前ではあれほど虚勢を張っていたのに、いざ対面すると騎士の性で縮こまってしまう。

――そう、これは騎士としての本能なのである。仕えるべき主を前にして、騎士として振舞っているだけ。決して、自分は彼に気後れなどしていない。


「ガブリエル。母様のところへ案内しておくれ――僕を出迎えに来てくれたんだろう?」


ファビアンに挨拶したかった、と言っていたのに、ミシェルはあっさり自分に興味を失ったように見えた。

甥に視線を移して、優しく話しかけている。

声色はファビアンに向けたものと変わらないはずなのに、全然違う、となぜかファビアンはそう思った。


伯父に抱きついていた男の子は伯父から少し離れて手を繋ぎ、こっち、と伯父の手を引っ張って歩き始めた。男の子についてきた召使いたちも、当たり前のように彼らについて行く。何人かは、困惑したようにファビアンをチラチラ見ていた――彼らの誰にも、ファビアンは見覚えがない。


二人を呆然と見送って立ち尽くすファビアンは、扉が閉まる音でハッと我に返った。

先ほど扉を開けてミシェルに声をかけていた召使い風の男が、扉を閉めてミシェルたちに同行する。


召使い風の男は一度だけ立ち止まり、ファビアンに振り返った。


「バシュレ伯爵。あなたもアンジェリク様に御用ですか?」

「あ?えっ――あっ……ああ、そうだ」

「ではあなたもどうぞ、こちらへ」


王兄ミシェル、その甥ガブリエルを先頭に、二人について行く召使いたち。その少し離れたところから召使い風の男について歩くファビアン。

当たり前のように彼らはファビアンを最後尾に置く。何も知らない人間が見たら、ミシェルこそこの屋敷の主人だと勘違いすることだろう。


屋敷をぐるっと回って中庭へ着くと、男の子は伯父からもパッと手を放してテラスに設えられたテーブルへと駆け寄った。


テーブルには日よけのパラソルも設置されており、ファビアンの角度からは男の子が駆け寄った相手の顔がよく見えない。

男の子は椅子に座る女性の膝元に駆け寄り、彼女を見上げて言った。


「母様。伯父様が来てくれたよ。あと、お客様」

「お客様?」


母子がそんなやり取りをしている間にも、王兄ミシェルは当たり前のようにテーブルに近付き、女性のそばに控えていた召使いもごく自然と女性の隣の椅子を引いた。座るミシェルに対してファビアンはまた立ち尽くすしかなく、パラソル越しに、彼女がこちらへ視線を向けるのを感じていた。


「……もしかして……ファビアン様?」


客の正体を察し、女性は立ち上がった。そのままファビアンに近付いてきて、ファビアンはようやく、障害物なしに彼女の姿を真正面からはっきりと見た。


彼女の視線が真っすぐに自分に向けられ、目と目が合う。思わず息を呑んだ。


現国王も、王兄ミシェルも容姿は整っているのだ。だから、王姉アンジェリクとてそれなりの美人に決まっている。それぐらいはファビアンも分かっているつもりだった。

そして実際に間近から対面した彼女は……。


その存在感と迫力も合わさって一目で強烈に引き付ける兄とはまた異なるタイプの魅力の持ち主で、儚げな雰囲気に吸い寄せられてしまう美しさがあった。

顔を覆うヴェール越しの対面でなければ、あの日の自分はあんな強気な宣言はできなかったことだろう。


この一瞬、ファビアンはすべての敵意も虚勢も完全に失っていた。


「……あの?ファビアン様……?」


自分を見つめたまま黙り込んでいる夫に、アンジェリクは困ったように小首を傾げながら呼びかける。ファビアンはハッと我に返ったが、あうあうと意味の分からない声を漏らすだけだった。


「バシュレ伯爵は、アンジェリク様に御用があるそうです」


テーブルを挟んでアンジェリクの席から正面にある椅子を引きながら、まともに喋れないでいるファビアンに代わって召使いの男が説明する。

そうだったの、と椅子に座りなおし、アンジェリクが呟く。


「私に何の用でしょう?」

「あ……ああ……えっと……」


この屋敷に着くまでは、ずっと、妻を見つけたら怒鳴りつけてやるつもりだった。

いったいどこの馬の骨の種を孕んでいるのか、このあばずれ女め!と。

言い訳をする暇も与えずに罵り、離縁を叩きつけてやる予定だった。だが、いまはとてもそんなことを口にすることができなくて。


自分は王国騎士で、相手は卑しくも王族。仕えるべき主君を前にすると、条件反射のように頭が下がってしまうのだ。しかも、いまこの場には罪のない無垢な子どももいる。この子の前で、母親の罪を暴露する気にはなれなかった。

――そう、これはあくまで騎士の性。人としての良心がファビアンを引き留めているだけ。決して、妻の美しさを思い知って狼狽しているわけではない。


「あ、アポーが私の職場にやって来て……。その……ずっと仕事が忙しくて帰って来れなかっただけだが……そろそろ屋敷の様子を確かめなくてはと思ったのだ……」

「アポー……ですか?」


ファビアンの話を聞き、アンジェリクがまた不思議そうに小首を傾げる。彼女の疑問に答えたのは、さっきからずっとそばに控える召使いの男だった。


「半年前に私がクビにした召使いの一人です」

「そう……そうだ!なんの権限があって彼をクビにした!?この屋敷の召使いをクビにする権限は、当主の私か執事長にしかないはずだぞ!」


ぼーっとしていたファビアンも、召使いの男の答えにようやく頭が回り始め、立ち上がって男に詰め寄る。

陶器人形のように美しくも冷たい表情をした男は、静かにまた答えた。


「私がいまの執事長だからです――申し遅れました、御当主様。お尋ねになられなかったので無用な発言を控えておりましたが、新たに執事長に任命されましたロジェにございます」

「私はおまえを任命した覚えは――!」

「僕が任命した」


激高したままロジェと名乗る新たな執事長にさらに詰め寄っていたファビアンに、冷水を浴びせるかの如く冷たさを孕んだ声で口を挟んだのは、王兄ミシェルだった。


「事の仔細は報告しておくようロジェに言い含めておいたのだが、手違いでもあったのかな。前任者のランソンは、長く君が屋敷を離れているのをいいことに、屋敷の財産を私物化し、自分に媚びへつらわぬ召使いたちを不当に罰して給料を横取りしていた。その甲斐あって、良識ある者たちは屋敷から去り、不良ばかりが残って、アンジュが嫁いできた時にはこの屋敷は悲惨な有様だった」


ミシェルはファビアンに笑いかける。その笑みは部下に裏切られたファビアンを憐れんでいるようでもあり、何も知らないファビアンを嘲笑っているようにも見えた。


「バシュレ家の歴史には疎いが、恐らく、君にとって金銭よりも価値ある由緒正しい品なども多く紛失していることだろう」

「正確な被害を把握するためにも御当主様には早急にお屋敷にお戻りいただき、状況を確認して頂きたいという旨をしたためた手紙は何度かお送りしたはずですが……そのご様子から察するに、読んではいらっしゃらなかったのですね」


ミシェルの説明に付け加えるように新しい執事長が言葉を続けたが、図星をずばり指摘され、ファビアンは言葉に詰まる。


ロジェの指摘通り、ファビアンは屋敷から届く手紙に目を通したことはなかった。

それは不本意な結婚をしてからではなく、もっと前からの癖である。

両親が健在の頃は両親から。ファビアンが当主になって以降は報告書も兼ねて屋敷の者から届くようになったが、報告ついでにチクリとマチルドのことを説教されるので、億劫になってまったく読まなくなっていた。

前執事長のランソンからの最後の手紙だけは、珍しく彼個人の名で手紙が届いたから目を通したが……。


「早急に、君のほうでも調べることを推奨するよ」


王兄ミシェルが言った。

早急に、の部分が強調されていたような気がして――だからさっさと出て行け、と言われているようにも感じた。


同じひとつのテーブルを囲んでいるというのに、ファビアンだけが異端さが抜けないのだ。

ミシェルとその妹アンジェリク、アンジェリクの息子ガブリエル。このテーブルは、この三人で完成されているように思えてならなかった。




すごすごと去っていくファビアン・ド・バシュレの姿が完全に見えなくなっても、ミシェルは彼の去っていった方向をしばらく見つめている。

兄の様子に、アンジェリクは堪らなく不安をかき立てられた。

彼がなぜこの屋敷を――自分を訪ねてきたのか、アンジェリクも本当は心当たりがあったからだ。


彼はそれを口にすることなく、アンジェリクを追求してこなかったが……ミシェルの迫力に圧されたのか、幼いガブリエルに配慮してくれたのかは分からない。どっちもじゃないかな、と思ったのだが、それを確かめるすべはなかった。自ら藪を突くほど、アンジェリクも勇敢にはなれない。


「……ロジェ。この屋敷に、主人に仕えるということがどういうことか、分かっていない人間がいるようだ」

「申し訳ありません。私の管理不足です」

「お兄様、ロジェを責めないで。それに、秘密なんていつかは知られてしまうものなのよ。妊娠なんて、隠し通せることじゃないもの」


焼き菓子をほおばって大人たちの話を聞いていたガブリエルは、幼いながらに精一杯フル回転させた頭で何かにハッと気づき、慌てて口を挟んだ。


「僕、誰にも喋ってないよ!無事に生まれるまでは誰にも言わないって、母様たちとの約束をちゃんと守ってるよ!」


身の潔白を訴える甥に、ミシェルはフッと笑う。大きな手を伸ばして甥の頭を撫で、先ほどまでファビアンに向けていたものとは明らかに異なる笑顔を浮かべ、優しい声色で言った。


「もちろん、おまえのことを疑ったりなんかしていないさ。五歳の子でもちゃんと守っている約束を、守れない大人がいるという話だよ」


ふーん、と相槌を打ちながらも、よく分からなくて幼いガブリエルは首を傾げている。そんな甥の様子に笑いながらも、ミシェルの目は危険な光で揺れている。

兄が何を考えているか――何をするつもりか、この後の展開が嫌というほど分かってしまうアンジェリクはため息を吐いた。




アンジェリク(22)

国王の腹違いの姉。愛称はアンジュ。

子持ちの未亡人で、ファビアン・ド・バシュレ伯爵と再婚して現在はバシュレ伯爵夫人。

ミシェル(25)

国王とは腹違いの兄弟。アンジェリクの同母兄。

ガブリエル(4)

アンジェリクが亡くなった前夫との間にもうけた息子。


ファビアン・ド・バシュレ(23)

父親亡き後家督を継いだバシュレ伯爵家当主。王国の騎士でもある。

王城での地位はそれほど高くない。


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