静かな部屋の向こう側へ
蓮は三十二歳になるまで、自分の子供時代が「普通じゃなかった」ことに気づかなかった。
いや、正確には気づいていたのかもしれない。ただ、それを言葉にする方法を知らなかっただけだ。
ある日、職場の同僚たちが家族の話で盛り上がっていた。「うちの親、運動会にビデオカメラ三台も持ってきてさ」「母親が作ってくれた弁当、キャラ弁で恥ずかしかった」
蓮は黙って聞いていた。自分の運動会には、誰も来なかった。弁当は、いつも祖母が作り置きした冷たいおにぎりだった。それも、一人で教室の隅で食べた。
「蓮さんは?」と聞かれて、「よく覚えてないです」と答えた。
嘘ではなかった。本当に、家族との温かい記憶がほとんどなかった。
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その夜、蓮は初めてインターネットで「子供時代 寂しかった 普通じゃない」と検索した。
そこで出会ったのが「ネグレクト」という言葉だった。
育児放棄。感情的無視。差別的養育。
画面に並ぶチェックリストを見て、蓮は震えた。
- 家族との会話がほとんどなかった ☑
- 一緒に食事を取らなかった ☑
- 学校行事に保護者が来なかった ☑
- 兄弟姉妹と違う扱いを受けた ☑
- 必要な医療を受けられなかった ☑
すべてに当てはまった。
蓮は二歳の時、母に祖母の家へ預けられた。母は酒とギャンブルに溺れ、父は別の家庭を作っていた。
祖母の家では、弟だけが可愛がられた。姉と弟は塾に通い、蓮だけが取り残された。
蓮には先天性の身体障害があった。小学生まで通っていた病院も、中学に入ると理由もなく連れて行ってもらえなくなった。
「ああ、これはネグレクトだったんだ」
画面を見つめたまま、蓮の目から涙がこぼれた。
初めて、自分の痛みに名前がついた。
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ネグレクトという言葉を知ってから、蓮は自分の生き方を客観的に見るようになった。
人に関心が持てない。
職場の飲み会は苦痛だった。みんなが笑い合う輪の中で、蓮だけが別の世界にいるような感覚。電話のベルが鳴ると、心臓がバクバクした。
「自分は冷たい人間なんだ」とずっと思っていた。
でも、違った。
これは、生き延びるために身につけた防御システムだった。
子供の頃、蓮は誰にも関心を持ってもらえなかった。だから、人に関心を持つ方法を学べなかった。
家族と会話がなかったから、コミュニケーションの練習ができなかった。
常に「自分は受け入れられない」環境で育ったから、人前に出ることが怖かった。
蓮の心は、傷つかないように感情を麻痺させていたのだ。
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ある日、友人の一人が何気なく言った。
「蓮って、いつも自分のこと後回しにするよね」
「え?」
「ランチ決める時も、映画選ぶ時も、いつも『何でもいいよ』って言うじゃん。本当は何が食べたいとか、ないの?」
蓮は固まった。
確かに、いつも自分の希望を言わなかった。誰かが決めたことに従うのが楽だった。
「我慢して誰かに利益があるなら、自分はそうする」
それが、蓮の生き方だった。
でも友人は首を傾げた。
「それって、優しさっていうより...自分を大切にしてないんじゃない?」
その言葉が、胸に刺さった。
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蓮は今、父と二人で暮らしている。
家と土地の権利は蓮に移されたが、父との会話はほとんどない。必要最低限の言葉だけ。
子供の頃と、何も変わらない。
一人暮らしをしたいと思った。でも、動けなかった。
経済的な不安。老後の心配。そして何より、「自分には無理だ」という諦め。
ある夜、蓮は夢を見た。
市場のような場所で、見知らぬ女の子が80%割引券をもらう。でも、それは一人分だけ。
夢の中で蓮は言った。
「自分のことは気にせずご飯食べに行こうよ」
目が覚めて、蓮は気づいた。
夢の中でさえ、自分を犠牲にしていた。
これは、優しさではない。子供の頃から刷り込まれた、自己犠牲のパターンだ。
「自分は我慢する役割」だと、ずっと思い込んで生きてきた。
でも...
本当にそうなんだろうか?
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蓮は震える手で、地域の相談窓口に電話をかけた。
「あの...障害があって、一人暮らしを考えているんですが...」
声が震えた。でも、言葉は続いた。
相談員は優しく話を聞いてくれた。住宅支援のこと、生活のサポートのこと、利用できる制度のこと。
「一人で抱え込まなくていいんですよ」
その言葉を聞いて、蓮は泣いた。
電話を切った後、蓮は初めて思った。
自分には、選択する権利があるんだ。
我慢するのも選択。でも、自分のために何かを選ぶのも、選択。
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祖母の妹が介護施設に入った。
親戚から「お見舞いに行かないのか」と連絡があった。
以前の蓮なら、罪悪感に押しつぶされていただろう。
でも今は違う。
「行きません」
蓮は、静かにそう答えた。
「でも、家族じゃないか」
「私を傷つけた人に会う義務はありません」
電話を切った。手は震えていたけれど、後悔はなかった。
これは、自分を守るための境界線だ。
子供の頃の大人たちとの関係は、終わりにしていい。
傷つけた人を許す必要もない。会いに行く義務もない。
自分を大切にすることは、わがままじゃない。
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父のことも、同じだった。
いつか父が亡くなる時、葬儀のこと、親戚とのやり取り、考えるだけで怖かった。
でも蓮は、少しずつ準備を始めた。
信頼できる友人に、自分の気持ちを伝えた。
「親族と関わりたくない。最小限の手続きだけで済ませたい」
友人は頷いた。
「その時が来たら、手伝うよ。一人で抱え込まなくていい」
蓮は、地域包括支援センターの連絡先も調べた。葬儀社のことも。
備えることで、少しだけ不安が軽くなった。
そして何より、こう思えるようになった。
「その時が来たら、その時に考えればいい」
今から全部背負う必要はない。
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蓮は、カウンセリングを受け始めた。
最初は怖かった。自分の経験を話すのが、恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちだった。
でもカウンセラーは言った。
「あなたが経験したことは、とても深刻なネグレクトです。あなたは何も悪くありません」
その言葉を聞いて、蓮はまた泣いた。
誰かに「あなたは悪くない」と言ってもらえたのは、生まれて初めてだった。
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カウンセリングを通して、蓮は少しずつ変わっていった。
完全に変わったわけではない。今でも人との関わりは苦手だ。
電話は相変わらず緊張する。飲み会も、できれば避けたい。
でも、それでいいと思えるようになった。
「自分は自分のペースでいい」
無理に陽気になる必要はない。人に合わせて笑う必要もない。
静かに、自分らしく生きていい。
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ある日、蓮は友人とカフェにいた。
「何飲む?」と聞かれて、蓮は一瞬迷った。
いつもなら「何でもいい」と答えていた。
でも今日は違った。
「...抹茶ラテがいいな」
小さな、とても小さな一歩。
でもそれは、蓮にとって大きな変化だった。
自分の希望を、声に出せた。
友人は笑顔で「いいね!」と言ってくれた。
蓮も、少しだけ笑った。
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蓮は今も、父と同居している。
すぐに一人暮らしをする決断はできなかった。でも、それでいいと思っている。
**焦る必要はない。自分のペースで、少しずつ。
今は、週に一度カウンセリングに通い、月に一度、友人たちと小さな集まりを持つ。
人への関心が完全に湧いたわけではない。でも、友人たちとの時間は、嫌いじゃない。
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ある夜、蓮はまた夢を見た。
あの市場の夢。
今度は、女の子が言った。
「一緒に分けて食べよう」
夢の中で蓮は、少しだけ笑った。
「...ありがとう」
目が覚めて、蓮は静かに思った。
いつか、自分も幸せになっていいと、心から思える日が来るかもしれない。
今はまだ、そこまで辿り着いていない。
でも、その道を歩き始めた。
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誰もが幸せになる権利がある。
あなたも。私も。
傷ついた過去は変えられない。でも、これからの未来は選べる。
完璧じゃなくていい。
少しずつでいい。
自分のペースで。
一歩ずつ。
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蓮は窓の外を見た。
空は、少しずつ明るくなっていく。
夜明け前の、静かな青い時間。
**まだ暗い。でも、もう朝は近い。**
蓮は深く息を吸って、新しい一日を始めた。
この物語を読んでいるあなたへ。
もしあなたが、蓮と似た経験をしてきたなら。
もしあなたが、「自分はネグレクトを受けたのかもしれない」と気づいたなら。
あなたは一人じゃありません。
あなたの痛みは本物です。あなたの経験は正当なものです。
そして、あなたには幸せになる権利があります。
今すぐ全てを変える必要はありません。
でも、いつか、自分のために小さな一歩を踏み出せる日が来るかもしれません。
その日まで、どうか自分を責めないで。
あなたは悪くない。
あなたには、価値がある。
あなたは、愛されるに値する人です。
この物語が、誰かの心に小さな光を灯せますように。




