学園アイドルクイーン
白夜学園の第二音楽棟、三階の控室。午後の陽光が斜めに差し込む窓際で、玉出旭日は膝を抱えて座っていた。廊下を行き交う学生たちの足音が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
スマートフォンの画面に、ファンの健太からの個人メッセージが届いていた。
「旭日ちゃん、お疲れ様です。ちょっと気になることがあって」という彼のメッセージに、旭日は「どうしたん?」と返信した。
すぐに返ってきた健太の返事は、旭日の心をざわつかせるものだった。私の親友である美咲ちゃんの有料会員チャットに参加している彼によると、一部のファンが旭日のSNSを荒らしたり、変なゴシップを作って拡散したりする計画を立てているという。
さらに健太は、事務所関係者から聞いた話として、旭日との デュエット企画を美咲サイドがNGにしているという噂も伝えてきた。
旭日は画面を見つめたまま、指を止めた。旭日はゆっくりとスマートフォンを膝の上に置いた。乾いた笑いが喉の奥から漏れそうになる。人間とは、なんと複雑で矛盾した生き物なのだろう。
「ほんまかいな」
自然と口をついて出た言葉。怒りでもない、悲しみでもない。ただ、胸の奥で何かがじわりと燃えているような感覚があった。
白夜学園は、全国でも有数の学園アイドル育成校として知られている。本館から音楽棟へと続く渡り廊下には、歴代の学園アイドルたちのポスターが並んでいる。その中に、一年前の旭日の写真もあった。「中部地区トップアイドル」という文字が誇らしげに踊っている。
あれは高校入学直後の学園祭だった。白夜学園のメインステージに立った旭日は、緊張のあまり歌詞を飛ばしてしまった。観客席からは失笑が漏れ、SNSでは「元天才アイドル大失敗」という投稿が拡散された。
その時は、自分の失敗が原因だと思っていた。でも今思えば、あの頃からすでに始まっていたのかもしれない。親友だと信じていた子のファンたちによる、組織的な妨害工作が。
中学時代、県内では敵なしだった。テレビにも出て、CDも売れて、みんなが「天才」と呼んでくれた。でも、その輝かしい過去が、いつの間にか誰かの嫉妬を買っていたのだろうか。
でも、と旭日は思った。今更そんなことを考えても仕方がない。大切なのは、これからどうするかだ。
旭日は立ち上がり、窓から中庭を見下ろした。音楽棟の地下には最新設備のスタジオ等があり、一階には小規模なライブハウス、二階には練習室群、そして三階のこの控室。学園アイドルとして活動する上で必要なものが、すべて揃っている環境だった。
あの失敗から立ち直るために、旭日は自分なりの方法を見つけていた。裏取りをしたり、相手を攻撃したりするのではなく、ただ黙々と実力を磨く。それが彼女の流儀だった。
「おはよう、旭日」
控室のドアが開いて、佐伯悠斗プロデューサーが入ってきた。20代後半、整った顔立ちだが、どこか疲れを隠しきれない表情をしている。手には例の分厚いデータファイルと、コンビニの紙コップコーヒー。
「おはようございます」
旭日は窓際から振り返って挨拶した。佐伯はデータ主義者で、すべてを数字と客観的分析で判断する。感情や勘に頼らず、統計と実績でアイドルの可能性を見極める男だった。離婚の経験があり、娘の親権も失っているという噂がある。
「今日の選抜オーディションだな」
「はい」
短い会話の後に流れる、微妙な沈黙。佐伯はファイルを開き、グラフや数字が並んだ資料を取り出した。
「旭日、君のファン分析の結果が出た」
机の上に広げられた資料には、細かいデータがびっしりと記されている。
「君を支持しているのは、実力派志向の層が8割を超えている。見た目の可愛らしさよりも、歌唱力や人間性を重視するファンが多い」
佐伯の指が数字を追う。
「つまり、君がやるべきことはシンプルだ。正面から、実力で勝負すればいい」
その言葉には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
学園アイドル科の部室は、音楽棟の一階奥にある。壁には歴代の先輩たちの活動記録が貼られており、全国大会優勝のトロフィーも飾られている。放課後になると、学生生たちがぞくぞくと集まってくる。
「それでは、今月のソロデビュー選抜を発表します」
部長の山田先輩が立ち上がった。彼女は三年生で、来年は東京の芸能事務所への所属が内定している。
旭日の心臓が早鐘を打つ。でも、表情は平静を保った。挫折を経験してから身についた、感情をコントロールする術だった。
「ソロデビュー、玉出旭日」
部室に拍手が響く。旭日は立ち上がって深々と一礼した。
美咲も拍手をしている。その笑顔は、いつものように屈託がない。でも、旭日にはもう、その笑顔の裏にあるものが見えていた。
「おめでとう、旭日ちゃん。」
美咲の言葉に、旭日は短く答えた。
「ありがとうね。」
以前のような親しみやすさは、もうそこにはなかった。
音楽棟地下のスタジオAで、ソロ練習が始まった。楽曲は「Beyond the Dawn(夜明けの向こうへ)」。希望に満ちたメロディーと、青春を歌った歌詞が特徴の楽曲だった。音楽科の先生が基礎をサポートしつつ、歌詞や曲の方向性はプロデューサーと私で決めた。
旭日が一人で歌い始める。
昨日の涙は 旭日に溶けて
光が頬をそっと撫でる
まだ見ぬ地平へ足を進め
胸の鼓動が未来を叩く
中学時代とは明らかに違う歌声だった。技術的には以前と変わらないかもしれない。でも、そこには深みがあった。挫折を経験し、人の裏切りも知った者だけが持てる、陰影のある表現力。
スタジオには旭日一人の歌声だけが響いている。もう、誰かとハーモニーを奏でる必要はなかった。自分の声で、自分の想いを歌えばいい。
「よし、もう一回」
旭日は自分に言い聞かせるように呟き、練習を続けた。
練習を終えて控室に戻った旭日を、佐伯が待っていた。夕日が差し込む窓際で、彼はデータを整理している。
「どうやった、初回練習は」
「まあまあかな。でも、まだ息が合ってへん部分もある」
「それは時間が解決する。君の歌唱データを見たが、技術的には申し分ない。問題は...」
佐伯が言いよどんだ。
「何ですか?」
「君が、まだ過去を引きずっているということだ」
鋭い指摘だった。旭日は窓の外を見つめた。中庭では、演劇部が野外練習をしている。
「失敗するのが怖い、ということですか?」
「それもある。でも、もっと根本的な問題だと思う」
佐伯は椅子に座り直した。
「俺にも娘がいた。いや、今もいる。でも、一緒にいることができないんだ。」
突然の告白に、旭日は振り返った。
「離婚の時、俺は過去の失敗ばかりを悔やんでいた。もっとこうしていれば、ああしていれば。でも、それでは前に進めない。娘も俺から離れていった」
佐伯の声には、深い後悔が滲んでいた。
「...データは嘘をつかない。君は確実に成長している。技術も、表現力も。でも、君自身がそれを信じていない」
翌日、ついに旭日のソロデビューライブの日がやってきた。会場はステラホール。白夜学園が誇る200人収容のライブハウスで、音響設備も照明も本格的だった。
バックステージで最終準備をしている旭日は、一人静かに集中していた。もう誰かに気を遣う必要はない。自分だけの舞台だった。
「緊張してる?」
佐伯が声をかけた。
「少しだけ」
正直に答えた。嘘をつく必要はない。
「失敗を恐れているのか?」
「...たぶん」
「旭日」
佐伯は旭日の前に立ち、まっすぐに目を見つめた。
「君は過去に一度失敗した。それは事実だ。でも、その失敗があったからこそ、今の君がある」
彼の声には、今まで聞いたことのない温かさがあった。
「俺は離婚した時、すべてが終わったと思った。でも、それは間違いだった。終わりじゃない、始まりだったんだ」
佐伯は旭日の肩に手を置いた。
「過去のキミじゃない、今のキミに期待してるんだ!!」
その言葉が、旭日の胸に深く響いた。まるで凍っていた心に、温かい春の陽光が差し込んだように。何かが溶けていく音が聞こえるようだった。
「プロデューサーさん...」
「今日は、今の君で勝負してこい。それで十分だ」
ステージの袖で待機していると、客席のざわめきが聞こえてくる。200席のうち、8割方は埋まっているようだった。
「玉出旭日さん、出番です」
スタッフの声で、いよいよ本番。
旭日は一人、深呼吸をした。
「頑張ろう」
自分に向けた言葉に、もう迷いはなかった。
スポットライトが旭日を照らし、客席からは温かい拍手が響く。
「皆さん、こんばんは!玉出旭日です!」
旭日の一人でのMCが始まる。
「今日は来てくれて、ほんまにありがとう。これから歌う『Beyond the Dawn(夜明けの向こうへ)』は、新しいスタートを歌った曲です」
自然に出る三重弁が、親しみやすさを演出する。
「私一人やけど、みんなで一緒に、新しい明日に向かっていけたらええなと思います。せーの!」
観客: 「旭日ちゃん〜!」
音楽が始まった。
♪ 昨日の涙は 旭日に溶けて
光が頬をそっと撫でる
まだ見ぬ地平へ足を進め
胸の鼓動が未来を叩く
旭日の歌声がホールに響く。中学時代の技巧的な歌声とは違う。挫折を経験し、それを乗り越えようとする意志が込められた、等身大の歌声だった。
もうハーモニーはない。でも、それで十分だった。客席からは手拍子が起こり、コール&レスポンスも自然に生まれた。
「みんな、一緒に歌って!」
観客: 「輝く〜!」
旭日: 「日々へと〜!」
観客: 「向かって〜!」
一体感が生まれていく。途中、何人かの客が席を立って出ていくのが見えた。もしかしたら、例の荒らし計画の一環かもしれない。でも、旭日は歌い続けた。残った人たちの顔が、心から楽しそうだったから。
♪ 新しい私になって
歩いていこう
Beyond the Dawn
最後のフレーズを歌い終えた時、会場は大きな拍手に包まれた。
「ありがとうございました!」
旭日は深々と頭を下げた。その時、ふと佐伯の言葉を思い出した。過去のキミじゃない、今のキミに期待してる。
「今日ここに来てくれた皆さん、最後まで一緒におってくれて、ほんまにありがとう。また会いましょう!」
ライブを終えた旭日は、バックステージで佐伯と向き合っていた。
「どうやった?」
「完璧だった。客席の反応も上々だ。何より、君が心から歌っているのが伝わった」
佐伯の表情は、今まで見たことがないほど穏やかだった。
「一人でも、十分やったでしょ?」
旭日が言うと、佐伯は頷いた。
「ああ、君には一人の方が合っている。誰にも邪魔されない、純粋な表現ができる」
その時、遠くから美咲の声が聞こえてきた。きっと他の部員たちと話しているのだろう。でも、旭日はもう振り返らなかった。
歌うこと。それが何より好きで、それを通じて人とつながることの喜び。
その夜、旭日は自分の部屋で携帯を開いた。ライブの感想が続々と届いている。
ファン_健太: 今日のライブ、最高でした!旭日ちゃんの歌声、心に響きました
新規ファン: 初めて見ましたが、感動しました!次回も絶対行きます
地元応援団: 三重弁のMCも可愛かった!旭日ちゃんらしさが出てて良かったです
荒らしコメントもいくつかあったが、それを遥かに上回る温かいメッセージが心を満たしていた。
旭日は窓を開けて、夜空を見上げた。星がよく見える夜だった。
「明日からまた頑張ろう」
自然に出る三重弁。佐伯プロデューサーの言葉が、まだ胸の奥で温かく響いている。
過去の失敗は消えない。でも、それに囚われる必要もない。大切なのは今の自分で、これからの自分だ。
玉出旭日、16歳。元中学トップアイドルで、高校で挫折を経験した少女。でも今夜からは違う。今夜からは、新しいスタートラインに立ったアイドルだった。
白夜学園の音楽棟に、静かな夜が訪れる。でも、旭日の心には小さな光が灯っていた。それは希望という名の、消えることのない光だった。