知らせ
「遅い!」
アルリフィーアは執務机に顎を乗せて、両頬を膨らませた。
「公爵、眉間の皺が取れなくなりますよ」
「む、左様か」
アルリフィーアは眉間を左右に引っ張ったり指でこすったりした。皺を伸ばしているつもりらしい。
昨日からアルリフィーアの機嫌が悪く、エメレネアらを困らせていた。侍女や家臣に当たり散らすことはないが、基本的に笑顔の公爵がしかめっ面をしているだけで宮殿の雰囲気が暗くなる。原因は、婚約者であるウィンが予定の日になってもフロンリオンにやって来ないことにあった。
「副伯にもご都合がありましょう」
「でも早く会いたいのじゃ」
アルリフィーアにも分かっている。アルリフィーアがフロンリオンをそうそう離れられないように、ウィンもドルトフェイムを頻繁に空けるわけにはいかない。理屈では分かっているのだが……。
やるせない想いをぶつけるかのように、先ほど書き損じた紙をぐちゃぐちゃと丸めてぽいと放り投げた。少しすっきりした。
床に転がった紙をエメレネアが拾おうとしたので、それを制して自分で拾いに行った。
アルリフィーアが紙の玉を拾い上げて執務机に戻ろうとしたとき、扉がたたかれた。「サルダヴィア卿がお見えです」と言うボルティレンの声が聞こえる。アルリフィーアが応じると、ベルロントが入ってきた。ひどく困惑した顔をしている。
「いかがした?」
「ドルトフェイムが何者かに攻囲されております」
「ん?」
「ラフェルス副伯領が攻撃されているのです」
「……え? どういうことじゃ?」
「ラフェルス副伯が攻撃を……」
「それは分かったって。なぜそんなことになっとるんじゃ」
ウィンが攻撃されている? 敵に包囲されている? 誰に、どうして、ウィンは無事なのか。考えたところで分かるわけがない。
「とにかく、分かってることから順に説明せい」
ベルロントも自分が慌てていることを自覚して、一呼吸置いた。
「オールデン川を行き来している商人からの情報です。オールデン川を遡上してきた軍勢が、ラフェルス副伯領の近くで上陸したと。他に、ドルトフェイムが大軍に囲まれているのを見たという者もいるそうです。そうした噂をフロンリオンの船着き場の者が聞いて、報告してきたのです」
「なるほど。ラフェルス副伯領はオールデン川から近いというからの。川づたいに噂が入ってきたというわけか」
「どういう状況なのか分からないため、バルエイン卿を偵察に出しました。3日後には戻るでしょう」
ウィンが危機に瀕しているかもしれないというのに、詳細が分かるのに3日もかかるのか。何とも歯がゆいことだとアルリフィーアは唇をかんだ。とはいえ本来なら片道でも4日かかる距離だ。バルエインは相当無理をするつもりなのだろう。
「取りあえず、援軍の準備を」
「それはなりません」
「なぜじゃ!」
「ラフェルス副伯領はパルセリフィン・グライスに属します。パルセリフィン・グライスからの要請がない限り、カーリルン公がラフェルス副伯領に兵を送ることはできません」
「なっ!」
ラフェルス副伯領の問題はラフェルス副伯領で解決する。ラフェルス副伯だけでは対処不能であれば、ラフェルス副伯領が属するパルセリフィン・グライスが対応する。他のグライスは原則として介入できない。当該グライスの要請があったときのみ、周辺のグライスの介入が許される。ガリトレイム・グライスに属するカーリルン公がラフェルス副伯領に派兵するには、パルセリフィン・グライスの長官の要請が必要なのである。
「夫の危機に、妻は何もできんのか」
「それが帝国法です。婚姻関係や血縁関係を理由に紛争への介入を許せば、戦火が連鎖的に拡大してしまいます。そうさせないためのグライスなのです」
諸侯や貴族の婚姻関係は複雑で、そこから派生する血縁・親族関係は際限なく広がっている。その中にはさまざまな利害関係が絡まっている。元々の紛争に関係のない親族が、これを口実として相手方の親族と武力衝突を起こす、ということもあり得るし、グライス制度や帝国平和令の発布以前には実際に多発していた。
アルリフィーアは両手を握り締めて耐えるしかなかった。ベルロントの言う通りだ。カーリルン公としてウィンを助けることはできない。自分一人だけなら、帝国法に背こうが処罰されようが構わない。だが、家臣を巻き込むわけにはいかなかった。
「ワシは……何もできんのか」
「残念ながら、現状では」




