ワルヴァソン公
皇帝宮殿の奥深くにある皇帝の私室。ここは皇帝の他はごく限られた者しか入ることを許されない。あくまでも皇帝が1人でくつろぐための部屋である。
今、この部屋にいるのは皇帝と宮廷道化師のピンテルの2人だけだった。
「皇帝陛下は長男に冷た過ぎるのではあるまいか?」とピンテルは語りかけた。皇帝は答えない。
「それとも甘やかし過ぎと申すべきでしょうや。ああ偉大なる帝国の偉大なる支配者よ。迷いなき統治者よ。ただ一つ、長男の扱い方だけはいかんせん」
それを聞いて皇帝は自嘲するように口角を上げた。皇帝の内面にまで踏み込んで差し出口を挟むのはピンテル以外にない。宮内伯が同じことを口走ったら、長剣でその頭蓋をたたき割るかもしれない。権力者を揶揄し、時に公然と批判することも許されているのは宮廷道化師だけの特権であった。彼らの揶揄は、皇帝自身ですら気付かなかった葛藤を浮き彫りにすることもある。
「余が長男に甘い? どこがだ。それぞれにふさわしい義務を求めている」
「さてさて、本当にそうでありましょうや? この件になりますと、自己評価まで甘くおなりのようで」
「言いたいことを言ってくれる」と、皇帝は苦笑した。
「陛下、ワルヴァソン公が面会を求めてまいりました」
扉の向こうから、侍従長のマーティダが呼び掛けた。ヴァル・マーティダ・トーシイエは、ムトグラフに協力していたディーイエの兄である。
「ここに通せ」
「はっ」
しばらくして、ワルヴァソン公インゼルロフト4世が入ってきた。アートルザース3世と同じく41歳で、白髪が目立つ黒髪とほぼ白くなった長い顎髭を蓄えている。一喝するだけで城門を吹き飛ばした、睨んだだけで馬が死んだなどと恐れられている男であった。
彼は枢機侯かつワルヴァソン公国の主であるだけでなく他に1つの公爵位と2つの伯爵位も持つ大貴族であり、彼を頂点とするカーンロンド家の構成員にも諸侯がいる。この強大な権力を持つがゆえに、皇帝の敵、皇帝の競争者と目されている。
だが彼を皇帝の単なる競争者と見なすのはものを知らぬ者である。彼は枢機侯として帝国の運営に参画しており、皇帝と鋭く対立することもあるが、よしとしたことについては皇帝に積極的に協力もする。
常に反対するだけでは軽んじられる。反対することが分かっているなら、ワルヴァソン公の存在を除外して事を進めればよい。最初から頭数に入れなければよいのだ。しかし、ワルヴァソン公は賛成もする。必要と認めれば助力を惜しまない。ゆえに、彼は枢機会議において欠くことのできない重鎮として扱われる。賛成するにしても反対するにしても、彼の発言は常に重い。
「これはこれは泣く子も黙る恐怖公。髭は白いのに腹の中は真っ黒なまま」
ワルヴァソン公を見て、ピンテルが囃す。
「相変わらずこしゃくなやつよ」
ワルヴァソン公は苦笑すると、金貨を親指ではじいてピンテルに投げ与えた。
「ピンテル、しばらく2人にしてくれ」と皇帝が言うやいなや、ピンテルは深々とおじぎをして退室した。
「あやつ、毒も笑いも薄まりましたな」
「やつも歳を取ったのだ。自分でも感じておろう」
「ところで陛下」
「陛下はやめろインゼルロフト。今は2人だ」
ワルヴァソン公は左の口角を上げて「ふん」と笑った。
「相変わらずこの宮殿は無駄な人間が多過ぎるな。扉を開け閉めするだけの係だと? 扉くらい自分で開けろ」
「下々に仕事を与え、養うのも君主の務めよ。カネはため込むのではなく与えることで価値を生む。扉係がカネを使うことも経済対策の一環だ」
「ふん」
「今日は宮殿の人事制度への意見具申に来たのか?」
「そこまで暇ではないわ。ではアートルザースよ。例の監察使、大活躍のようではないか」
「セレイスのことか」
「他に誰がいる」
「どうせ、ナルファストにもお前の間者が入っているのだろう?」
「アートルザースも人のことは言えまい」
2人は互いに「ふん」と鼻で笑った。
「カーンロンドの娘が産んだ子が継いだと思ったら、自分の娘を嫁がせるとはな。いつから考えていた?」
「さてな。今のナルファスト公が生まれたときからかな」
皇帝自ら、棚からぶどう酒の瓶とガラスの杯を取り出し、卓に並べた。
ワルヴァソン公は、「おっと、毒味役を連れてくるのを忘れたな」などと憎まれ口をたたいた。
「ふん」
皇帝はぶどう酒を杯に注ぐと、軽く杯を上げてから飲み干した。ワルヴァソン公もまた、何の躊躇も見せずに飲み干す。
「さすがは皇帝陛下。いいぶどう酒だ」
「その呼び方はよせ」
再び2つの杯をぶどう酒で満たす。
「で、何だ。言いたいことがあるから来たのだろう?」
「一つ相談があって参った」
「相談? お前が? 気味が悪い」
「無礼なやつだな。まあ聞け」
「聞いている」
「ラエウロントの娘の件だ」
「カーリルン公のことか」
「アルリフィーア、だったかな? その娘のことだ」




