多汗症のネバ山くん
もう誰もいない、高校の教室の隅で咲いている花に水やりをする。
これは僕の日課だ。
放課後の静かな教室でひとりでいるのは落ち着くしホッとする。
騒がしいのは苦手だ。なぜなら……
「あ、高山くんまだ教室にいたのかい!」
突然の大声に僕の心臓はびくりと跳ねた。
それと同時に額から汗が流れ出る。
顔を隠すように伸ばした長い前髪が濡れて不快だ。
「あ、あの奥田くん……突然大きな声で話しかけられるとびっくりするから」
汗はだらだらと流れ続ける。分厚いハンドタオルはもうびしょびしょだ。
とまれ。とまれ。
焦れば焦る程汗は止まらなくなる。
「君がすぐに寮に戻って来ないからだよ」
「花の水やりがあるって昨日も言ったじゃないか……」
「そんなのすぐ終わるだろう? 今日は一緒に勉強すると約束したよね」
「え、いや、約束した覚えは……」
「こうしている間に予定が狂うよ、早く行こう」
そう言うと奥田くんは小さな手を伸ばし僕の手を引っ張って歩き出した。
相変わらずものすごくせっかちで強引。
奥田くんは特別悪い人ではないんだけど、こういうところが苦手だ。
よく言えば生真面目で努力家。毎日のルーティンが決まっていてそれが狂うのを病的なほどに恐れている。
そして何故か僕もその日常に取り込まれている。
奥田くんいわくルームメイトだから一緒に行動するのは当たり前、だそうだ。
よくわからないけれどひとりの行動が好きな僕にとっては奥田くんと四六時中行動を共にする事は苦痛でしかない。
人間関係が苦手な僕は人と居ると常に緊張して汗が止まらなくなる。
手をガッチリ握られて早足で歩かされている今も汗が止まらない。
早く止めないといけないのに。
寮の部屋に戻り奥田くんが僕の手を離すと少し落ち着いてようやく汗が止まった。
ふぅ。危なかった。
「さぁ今日は英語の復習をしよう」
「うん……」
「高山くんそういえば数学の成績が上がっていたね。この前僕と勉強した成果が出たんじゃないのかな。よかったね」
「あ、うん、そうかな……?」
「きっとそうだよ。今日も頑張ろう」
「うん」
なんで奥田くんはこんなにも成績にこだわるんだろう。
前に将来の目標についてそれとなく聞いてみたんだけれど、特に何もないと言っていたんだけどな。
まるで成績を上げる事自体が目標のようだ。
ふと目線を奥田くんに向けると真剣な顔でノートを見つめていた。
歳のわりに身体が小さく童顔な彼が熱心に机に向かう姿は少し憎めない気もする。
1時間半くらいみっちり勉強して窓の外はすっかり暗くなっていた。
今日は満月が明るい。
それに気が付いた奥田くんは何故だか寂しげに窓の外の暗闇を見ていた。
それから気を取り直すように時計を見てノートを閉じた。
「さぁ高山くん夕飯の時間だよ。食堂へ急ごう」
これから食堂で夕飯を食べてその後は部屋で読書。
それから風呂に入り歯を磨いて早めに寝る。
これが毎日の決まりだ。
正直言うと息が詰まる。
午後8時55分。
奥田くんは髪をドライヤーで乾かし終え、明日の授業の準備をしている。
「あれはある。あのノートも準備した。服も用意したしもう大丈夫だ」
ぶつぶつと確認の独り言を言うとさっそくベッドに横になった。
「じゃあおやすみ。高山くん」
そう言うと奥田くんは目を閉じた。
相変わらず時間通りの決められた行動。
奥田くんは眠る時には必ず小さなライトをつけっぱなしにする。
なかなか寝付けない時は小さくラジオをかけたりもする。
そして一度眠りにつくと朝までぐっすり起きない。
僕は奥田くんが完全に寝たのを確認するとそっとベッドから降りた。
物音をたてないように部屋の扉を開けて廊下に出る。
バレていない。うまくいったみたいだ。
ようやく自由だ。
やっとひとりの時間を手にして僕はホッとしていた。
初めてやった試みだったけどうまくいったようだ。
うす暗く冷たい、そして静かな廊下が僕の緊張していた心身を癒してくれる。
誰もいない誰にも話しかけられない廊下をひとり歩いているとふわふわとした開放感があった。
寮のある高校なんて本当は嫌で仕方がなかった。
人を避け続ける僕を心配した両親が入学を無理矢理決めてしまったのだ。
社会に出る前に人との関わりに慣れなければいけない。
だ、そうだ。
確かにその通りかもしれない。けれど僕にとってそれは慣れるようなものじゃない。
人と居ると心底疲れる。
できればずっとひとりきりでいたい。
そう思うようになったのにはきっかけってものがある。
小学生の時に同級生にからかいを受けた。
小さい頃から多汗症だった僕はその事でよく注目を浴びてしまっていた。
ある日の授業中僕は先生からの問いに答えられなかった。
その事を先生に揶揄うように叱責され恥ずかしさのあまり汗が止まらなくなった。
自分に視線が集まれば集まる程汗はとめどなく溢れ出てくる。
それを同級生に笑われてパニックになった僕はついに教室を飛び出してしまった。
旧校舎まで全速力で走りトイレに立てこもった。
その後も汗は止まらずそして不思議な事に流れ出る汗は突然粘り気を帯びてきた。
粘液のようにネバネバと僕や便器にまとわりつき絡みつきついには僕は完全に動けなくなってしまった。
扉の向こうでは教師たちが出てくるように説得している。
動けないと訴えてもその理由を説明できず嘘をつくなと扉越しに怒鳴り声を浴びた。
その後僕のあだ名がネバ山になったのは小学生の残酷さゆえか。
あの日ようやく自身の汗からの拘束がとけた時には夜中になっていた。
僕は夜が好きだ。
夜の暗闇と静けさが、肌を乾かすような凛とした空気が僕に安心感を与えてくれる。
そんな事を考えながら結構長い間廊下を歩き続けていた。
そんなひとりの夜の時間を邪魔されたくはなかった。
だけどそんな願いは虚しく静寂は突如奪われることになる。
慌ただしさを帯びた足音が近づいてきていた。
自身の心臓の音が騒々しく聞こえた。
近づいてくる足音の方を振り返ると血相を変えてこちらに向かって走ってくる奥田くんの姿が見えた。
「どうしたんだよ高山くん! 探したじゃないか!?」
そうヒステリックに叫びながら奥田くんは僕の肩を掴んだ。
僕は一瞬血の気が引いた後で全身から汗が噴き出るの感じた。
あの日の出来事を身体中が思い出したかのように、手足が震えて上から下までの汗腺中から液体が流れ出てくる。
「え……高山くん? 大丈夫かい?」
奥田くんが僕に向かって手を伸ばす。
「近づかないでくれ! 向こうに行ってくれ!!」
そう言って奥田くんの肩を突き飛ばそうとしたがもう手遅れだった。
あの日と同じように僕の汗は粘り気を帯びその粘液は唐突に奥田くんの身体を取り込んでしまった。
やってしまった。
恐れていたことを。
「わ、わあ?! な、なんだこれ??」
あっという間に汗は僕と奥田くんに絡みつき身動きが取れなくなってしまった。
「な、どういう事これ?? ネバネバする!」
「え、ええと。だから僕はネバ山なんだよ……」
「どういうこと?!」
あぁなんと説明すればいいのやら。
とりあえず僕は兎にも角にも奥田くんに黙ってほしかった。
「あの奥田くん……一旦落ち着いてほしい。あと、この状態はしばらくどうしようもないと思う……」
「えっえっ?! こまるよ。そんなの。早く寝ないといけないのに。だってもうすぐ……」
そう言いかけて口を閉じた奥田くんは心配そうな顔をしている。
僕に構わず勝手に寝ていればよかったじゃないか。
なんでわざわざ探しにきたんだよ。
君がそうしなければこんな事には……
奥田くんを責める言葉がどんどん溢れ出てきたが僕は口には出さなかった。
何よりこの状況が気まずくて仕方がない。
ちらっと奥田くんを見ると彼の目は壁にかかった時計に釘付けだった。
怯えたように見開いた目が揺れた。
「あ、あ」
時計の針が10時を指した瞬間に廊下中の電気が一斉に消えた。
消灯時間だ。
「う、うわあああぁ……」
あたりを暗闇が襲った瞬間、夜の静寂を打ち破ったのは奥田くんの悲鳴のような叫び声だった。
「うわあああ暗い暗い暗いよおぉ!!」
「ど、どうしたの奥田くん……?!」
「暗い!」
「だ、大丈夫だよ。消灯しただけだよ」
「せまい、せまいよ、冷たいこわいよぉ……」
泣き出しそうな声で取り乱す奥田くんを見ているとこちらまで苦しくなるようだ。
「ごめんなさいごめんなさい」
「何を謝っているのさ」
「ちゃんと勉強するから、もっとべんきょうするから……」
「うん、うん」
「ここから出して、、もうひとりは嫌だ……」
奥田くんの感じる恐怖や悲しみが、皮膚を通して伝わってくるような気がする。
怖かったんだ。
そして今も、ずっと怖いんだ。
きっと暗闇とひとりになる事が。
恐れるものは僕とは真逆だけど、何かのトラウマに今も苦しんでいる事は同じだ。
「怖いね。怖いね」
「うん」
「怖かったね。でももう大丈夫だよ」
「うん」
精一杯優しく聞こえるように話す僕の声を聞きながら奥田くんは子供のように頷いた。
その様子はどうにか平静を取り戻そうとしているようだった。
僕は僅かに動く手で奥田くんの肩を撫で続けた。
大丈夫大丈夫大丈夫。
そうしているうちに雲に隠れていた満月が顔を出して暗闇を照らした。
それを見た奥田くんの目に安堵感が宿った。
「大丈夫?」
「う、うん。すまない高山くん。見苦しいところを見せてしまって」
いつものしっかりとした奥田くんに少し戻った様子だ。
「いやまぁ、僕の方こそ」
僕がそう言うと奥田くんは気まずそうに微かに笑った。
「暗いのが苦手なの?」
「うん、まぁ、少し」
少しどころじゃなさそうだけれど。
「ごめん。この状況下手すれば朝までどうにもできそうもない」
「そ、そうなのかい?」
「ごめん。こういう体質なんだ」
「……そうなんだ。なんか僕も悪い事したのかも。申し訳ない……」
「いやもういいんだ。あと、、単純に気持ち悪いよね。ほんとに申し訳ない」
「そんなこと……」
そう言いかけて奥田くんは下を向いた。気を遣わせてしまっているのは明らかだ。
内心ものすごく引いているのだろう。
その後奥田くんは僕の目を見て続けた。
「変に思われるかもしれないけど、なんかあんまり嫌じゃない」
「へ?」
「なんというか……あったかくて、包まれているような安心感がある……んだ」
「えぇ」
「君はほら……優しいから」
本当にそう思っているかのような口ぶりに僕は困惑した。
そんなふうに言われるなんて思わなかったから。
月の明かりが容赦することなく紅くなった僕の顔を照らしていた。
奥田くんには悪いがもう一度雲に隠れてくれないか。
安心して眠くなったのか奥田くんはそのまま眠ってしまった。
子供のような奥田くんの寝顔を見ていると僕も落ち着いたのか絡みついた汗は溶け出し身体に自由が戻った。
その後もまぁいろいろ大変だったけどなんとか奥田くんをベッドに寝かせて、僕は水をがぶ飲みした。
あれだけ汗をかくんだ異様に喉が乾く。
そうしてようやく僕も眠りについた。
なんだか長い夜だった。
朝になって起きたら奥田くんの姿はなかった。
いつもは奥田くんに起こされて一緒に食堂に行くのに。
その日の放課後も花に水をあげている僕に声をかける姿はなかった。
避けられている。そりゃそうか。
あんな事があったんだから避けたくもなる。
やっとひとりの時間を手にしたというのに何故だか落ち着かなかった。
嫌われたのなら仕方がない。
だがせめてもう一度だけ謝ろう。
そしてその後はもう関わらなければいい。
図書室でやっと奥田くんを見つけた。
相変わらず真剣にしかし苦しそうにノートを見ている。
話しかけたら悪い気がして、廊下で待っている事にした。
夕陽が沈みかけた頃やっと奥田くんが図書室から出てきた。
「あ、高山くん」
「や、やぁ」
「どうしたの?こんなところで」
「君に謝りたくて。昨日の事」
「え?」
奥田くんは驚いたような顔した。
「謝るって? 悪いのは僕だろう?」
「え」
「僕のせいでああなったわけだし」
奥田くんは言いづらそうに言った。
「君が言ったとおり僕は暗い所と、ひとりになるのが怖いんだ。馬鹿みたいだけど。だから君にまとわりついて……君は嫌だったんだよね」
「そんな」
違うと言えば嘘になる。
「君が優しいから僕は君に甘えていたんだ。昨晩その事にやっと気がついて……だから今度からは君に迷惑をかけないようにするよ」
「大丈夫なの?」
「ん、ああ。克服していかないといけないからね」
そうだ。
克服していかなければいけない。
いや克服していけるんだ。
きっと君も僕も。
「あのさ、奥田くん。君とはもっといい距離感でやっていける気がするんだ」
「え?」
「お互いにいい距離感でね」
これは嘘じゃない。
何故なら奥田くんと話していても僕はもう汗をかいていないから。
こんな事は家族以外に初めてだけど、きっともっといい関係を築いていける。
友達として。
僕はそう思う事にした。