マガイモノの聖女
控えめなノックの音にはっとして、梨緒は血がにじむほどに噛み締めていた唇をほどくと、慌てて顔をうつむけた。
一晩中泣くのを我慢していたせいで、顔がひどいことになっている。一度も染めたことのない長い黒髪を、暖簾のように顔の横に垂らして周囲を遮る。こんな情けない顔、見られたくなかった。弱みなど、見せたくなかった。このクソみたいな世界の、誰にも。
頑なに返事をせずにいると、ノックがもう一度。それから、許可もなく勝手に部屋のドアが開けられた。これまでならばそんな無作法されることはなかったし、許さなかったのに。
だけど……それも仕方のないことなのだろう。この部屋はもう、梨緒のものではなくなるのだから。
思えばはじめから、自分のものなどなにもありはしなかった。
このやわらかな寝台も、クローゼットにぎっしり詰まった華やかなドレスも、ジュエリーケースからこぼれるほど贈られた希少な宝石の数々もすべて。
今日には残らず没収されるのだろう。
(別に、ほしかったわけじゃない)
みな梨緒に取り入ろうと勝手に押しつけてきたものだ。
そして今度は勝手に取り上げていく。すべて梨緒が悪いのだとでも言うように。
床を睨みつけていた視界に、靴のつま先が映った。昨日まで自分の護衛騎士だった男の、落ち着いた静かな声が頭上に落ちた。
「あなたの処分が決定したそうです。ご同行を」
梨緒は精一杯、不遜な態度で顔を上げた。どうしてわたしが罰を受けなくてはいけないのよ、というように、つんと澄まして、足を組む。見上げた先に護衛騎士――ヴィンセントの秀麗な顔がそこにあった。重たげな黒の騎士服を着て、腰に剣を履いて、感情の読み取れない紫紺の瞳で梨緒を見下ろしている。それがあまりにいつも通りで、抑え込んでいた苛立ちが途端に爆発した。
「処分ですって? ふざけんじゃないわよ、自分たちが最初に間違えたのを棚に上げて!」
梨緒の言ったことがすべてだった。
最初に間違えたのは、この世界の人間だった。
世界を救うために召喚されるという聖女。
しかし召喚されたのは、ふたり。
そのふたりのうち、梨緒こそが聖女だと、誰も彼もが確信を持ってそう言った。
梨緒はひと言だって、自分が聖女だなどと名乗った覚えはないというのに。
状況を見極めているうちに、いつの間にか聖女として担ぎ上げられていただけだ。
それなのに、すべての責任が梨緒に押しつけられた。
王族も貴族も神官たちも、みんなみんな滅べばいい。革命でも起きて、民主主義の国家に成り変わってしまえ。そうすれば梨緒もいくらか気が晴れる。
憎しみを込めて睨むも、ヴィンセントは一切動じることなく、梨緒は寝台から引き上げられた。相手は男で、一見細身だがこれでも鍛え抜かれた騎士。聖女の護衛を任されるほどの精鋭。敵うはずもない。
シャラ、と。動くたびに手錠の鎖が鳴る。その度に心がすり減っていくような気がした。
シャラ。シャラ。シャラ。
手錠があるのに、逃げないよう腰をしっかりと抱かれて歩かされる。ヴィンセントの手は硬くて冷たい。誰かを守るための騎士の手だ。これももう、梨緒のものではなくなる。
なぜだろう、それだけが不思議と悲しかった。ほしくもなかったドレスや宝石を取り上げられるよりも、ずっと。
連れていかれた広間には、召還されたときと同じ顔ぶれがあった。
あのときと違うのは梨緒を見る彼らの、蔑むようなその目くらいだろうか。
梨緒は気丈に、待ち構えていたひとりひとりを射殺さんばかりに睨みつけた。神官長、神官、貴族……そして、王族。第二王子のアーノルドのところで、つかの間怯んだ。嫌悪をあらわに見下されるなら、まだ耐えられた。どんな視線にも受けて立つつもりでいた。
それなのに……。
彼は梨緒を見てすらいなかった。
あれほど愛していると言ってくれてたのに。
彼の瞳に映るのは、梨緒ではなく、本物の聖女――小春。
梨緒とは血の繋がらない、同い年の……義妹。
「……なんでここにいるの」
声が震えた。
ここにいたらいずれ、過酷な魔王討伐の旅に出なくてはならなくなる。
召喚された日のことを忘れたのだろうか。
誰もが梨緒を担ぎ上げ、小春のことは不用品として追放した。
そんな世界の人間を、なぜあの子が助けなくてはならないのか。
(……ああ、だけど)
答えなど簡単だ。
本物だから。
本物の聖女様だから。
苦しんでいる人たちを見捨てられない。
そんな人たちのために、命を懸ける。
それが当然のことだというように。
いつもそうだった。
小春はいつも、あるがままの自分でいるだけで、いつの間にか周りに愛されてしまう子だった。
親の再婚で姉妹になったが、生まれも育ちも悪い紛い物の梨緒とは、なにからなにまで違っていた。
同じ土俵にすら立てない。
もしかして、この異世界でなら……と。
そう期待したいのに、とんだ思い違いだった。
期待など、するのではなかった。
だからいつか、こんな日が訪れるのではないかと、ずっと怯えていた。
梨緒が聖女だと言われたあの日から、ずっと。
はじめてあの子に勝てたのだと嬉しかった反面、やはり怖かったのだ。
そして心のどこかでわかってもいた。
自分のような人間が、聖女の器ではないのだと。
国を欺き聖女を騙った悪女。
『マガイモノの聖女』
それが梨緒の今の肩書きで、今の梨緒を表す、すべてだった。
梨緒は小春とともに隣に並び立つ黒髪の騎士へと目を移した。彼は梨緒の視線を受けて、まっすぐに強い意思を返してくる。
その精悍な顔つきに、そういえばこんな顔だったなと思い出して少し笑った。彼がいる限り、小春が王子の方に目を向けることはないだろう。
あの青年は最初から小春しか見ていなかった。聖女の護衛として選ばれたのに、追放された小春について行った。
聖女という肩書きでしか人を見ない王子につけ入る余地などない。いい気味だ。いい気味なのに……なぜだろう、胸が痛む。あんな男、こっちから願い下げだというのに。
奥歯を噛み締めていないと、膝から崩折れてしまいそうだった。未だ梨緒の腰を抱いたままのヴィンセントには震えていることが伝わっているだろうに、彼はなにも言わなかった。表情からも悟らせない。このときばかりはそのそっけない表情がありがたかった。
「梨緒」
広間に凛とした声が響いた。小春が一歩、前に出る。最後に会ったときと、なにかが違う気がした。肩までだが、髪が伸びている。華奢で小柄な体はそのままなのに、堂々と胸を張っているからか。眩しいくらいに、美しくなった。隣の男のおかげだろうか。
(わたしだって……)
あんな風に、誰かに愛されたかった。誰かひとりだけでいい。自分だけを見てくれる人に、愛されてみたかった。
(もう、叶いっこないけど……)
愛を囁いてくれたアーノルドは、梨緒が聖女でなかったと知るとあっさりと手のひらを返した。
元の世界に帰ることもできない梨緒は、この世界では稀代の悪女だ。それどころか、聖女を騙った罪で死罪もあると脅されていた。……一度は好きになった人に。もう、笑うしかない。
投げやりな気持ちで小春を睨みつける。
「……なによ。やっぱり自分が聖女で、収まるところに収まって、満足? よかったじゃない。そこにいる王子も神官も騎士たちも? みんなあんたの味方についたんでしょう? 恋人もできたみたいだし、さぞ愉快でしょうね。散々あんたをいじめてたわたしを、こんな風に断罪できるのは」
(ああ……なんでわたしは、いつもこうなんだろう……)
殺さないでと、泣いて命乞いをすればいいのに。跪いて、ごめんねって、謝ればいいのに。小春ならばきっと、仕方ないねと言って許してくれるはずなのに。わかっているのに、憎まれ口しか出てこない。この性格は簡単には変えられない。おそらく小春もそれをわかっているのだろう、悲しげな顔で梨緒を見つめていた。
「聖女になんて口を! それに、いじめていただと? よくもそんな卑劣な真似を……!」
アーノルドが掴みかかって来るのが見えて、とっさに身を守るために腕を上げた。衝撃に備えて身を強張らせ、目を瞑る。次いで、がつ、と鈍い音が響いて、小春の小さな悲鳴が聞こえた。
それなのに、どうしてだろう。恐れていた痛みはいつまで待っても襲ってこない。この世界の誰も、梨緒のことなんて、守ってくれるはずがないのに。
(……?)
恐る恐る目を開けると、梨緒の前には黒い壁があった。ぽかんとして、視線を少し上げる。ひとつに括った長い銀色の髪が揺れ、ちらりとこちらを振り返るヴィンセントの菫色の瞳と目が合った。
彼の頰に、さっきまでなかったはずの傷を見つけて、梨緒は目を見開いた。アーノルドの指輪で切ったのだろう。手を伸ばしかけ……引っ込める。梨緒に傷を癒す力はない。
(なん、で……)
彼が梨緒を庇う理由なんてないというのに。
いつも傲慢に命令もしていたし、毎日こき使った。物を投げたりして八つ当たりもした。
それが、なぜ。梨緒の代わりに殴られているのだろうか。もはや護衛ですらないのに。わけがわからない。アーノルドですら、そんな珍妙な顔をしていた。訳知り顔だったのは意外にも小春だけで、それがまた癪に障った。
その小春が、毅然と、ヴィンセントとアーノルドの間に立ち塞がるように動いた。小柄だから、まるで大人に挟まれた子供のようだ。
その子供みたいな容姿のせいで、みなが小春ではなく梨緒を聖女と間違えた。
「やめてください、王子殿下。今はわたしと梨緒が話している最中です。彼女の処遇はわたしに一任されているはず」
勝手に手を出すなと、彼女のにこりとした微笑みからそんな心の声が聞こえた気がして、しばし驚きに固まった。いつからそんな性格になったんだろう。梨緒が突き放して強くなったのだろうか。そうじゃなくて、本当はそんな強かな一面を持っていて、隠していたのかもしれない。だったらもう、敵いっこない。
梨緒は白旗を揚げたい気持ちだった。本当に正反対だ。横暴でわがままで自分勝手で、弱い。自分の脆弱さを見せてしまわないように、周りにきつく当たる。そのくせ誰かに愛されたくて手を伸ばすのに、自分の想いを素直に言葉で伝えるのが難しい。だから結果はいつも空振り。なにも掴めず、ほしかったものはいつも、砂のように指の間からさらさらと流れ落ちていく。
梨緒はもう諦めていた。
なにかに手を伸ばすことすら億劫だった。
それなのにこの子はまだ、梨緒をこの茶番劇から下ろしてはくれないらしい。
小春が梨緒を向いた。まっすぐな眼差し。逸らせなかった。見抜かれたくなくて、ヴィンセントの背中から一歩踏み出て、挑むように対峙した。
「なによ、わたしのことなんて、大嫌いなくせに。殴られればよかったって思ってるんでしょう? あんたなんかに、泣きながら許しを請うなんてこと、絶対してやらないから! 反省なんかしない。悪いのは全部こいつらじゃない!」
梨緒は被害者だった。……小春も。
どれだけわめき散らしても、小春はなにも言わない。
ふ、と。緊張していた糸が切れたように、肩の力が抜けた。
(……ああ、もう、疲れた)
どこか静かな場所で休みたい。
それがたとえ地下牢でも、ここにいるよりはずっとましに思えた。
「……さっさと幽閉するなり、殺すなり、すれば?」
また思ってもないことばかり口をつく。死にたくなんてないのに、これで本当に死罪だったら、目もあてられない。
梨緒がうなだれたとき、ようやく小春は口を開いた。
「……ねえ、梨緒。帰りたい?」
訝しんで、なけなしの気力で顔を持ち上げる。
「……は? なに言ってるの、帰りたいに決まってるじゃない。こんなクソみたいな世界、一秒だっていたくない!」
本心だった。たとえ待っている人がひとりもいなくても、ここよりはいい。ずっといい……はず。
でも。
「帰れないんでしょう?」
「そうだね」
あっさり言った小春は、それでも、どこか寂しそうに微笑んでいた。
きっとこの気持ちは、この場にいる誰にも理解できないだろう。自分たちふたりにしかわからない。無理やり違う世界に連れて来られた、ふたりだけにしか。
「パパになにも伝えられなかったことはたしかに心残りだけど、わたしの幸せを一番に思ってくれると信じてる。それに……もう、あの家にわたしの居場所はないからね」
小春は目を伏せて寂しげにつぶやいた。そのときはじめて、帰りたくないのだということに思い至った。冷たくて残酷なこの世界は、彼女にとっては、自分らしく生きられる幸せな場所なのか。梨緒にはこんなに、厳しい世界なのに。
「ねぇ、梨緒。なんでわたしを見捨てたの?」
「あんたが邪魔だったから」
「それは建前だよね?」
「……」
「本当は違うこと、わたしは……わたしだけは、わかってるから」
ぐ、と喉からカエルでも潰れた声がもれた。これまで小春にやり込められたことなんて、ただの一度もなかったのに。泣きそうになったことを悟られないように、眉根に力を込めることで耐えた。
「梨緒がわたしのことをよくわかっているように、わたしもあなたをよく見て知ってるんだよ」
「わたしは、あんたのことなんて知らない。あんたなんて……大嫌いだった!」
言いたいことも言わずに我慢してばかりの小春が、昔から大嫌いだった。
梨緒の母は、養父の見ていないところで小春を虐げていた。
梨緒は母の鬱憤が自分に向かないように、母の見ているところで小春を罵ったりもした。
そうすると母は満足するのだ。
満足して、それ以上、小春のことを傷つけたりはしないから。
「嫌いでも、いいよ。わたしは梨緒のことをちゃんと知ってる。わかってる。討伐から無事に帰って来てきたら絶対に会いに行くから、それまでは幽閉先でしっかりと謹慎してて」
討伐、という単語を聞いて、梨緒はいつの間にか下を向いていた顔を勢いよく起こした。その瞬間、自分の処遇のことなんてどうでもよくなった。血相を変えて小春に詰め寄ろうとしたが、すかさず肩をヴィンセントに押さえられた。視線の端でアーノルドが眉をひそめたが、どうでもいい。どうしても近づくことは叶わず、手錠のかけられた両手を振り回して叫んだ。
「血が苦手なくせに! ホラー映画ですら、見れないのに! あんたなんかっ、無事に帰って来られるわけないじゃないっ……!」
小春なんて大嫌いだ。
大嫌い……だけど。
死んでほしいなんて思ったこと、一度だってない。
だってずっと、小春は梨緒に、優しかったから。
過酷な旅になると聞いた。死ぬこともあると。
だから梨緒は、自分が聖女ではないのではないかという疑念を、口に出すことができなくなった。口を閉ざすしかなかった。
だって小春が死んだら悲しむ人がいる。
最初に自分が選ばれたとき、実の母親にすら愛されていない梨緒で、自分でよかったのだと、本気でそう思ったのだ。
どうせ悲しむ人なんてどこにもいないのだから。
どの世界にも、いないのだから。
ヴィンセントの腕の中でもがき暴れていると、ふいに、小春の隣の騎士が口を開いた。いかにも誠実そうで、真面目そうで。……とても、お似合いで。
「私が全力で守り抜くと誓います。だから、安心してください」
「し、心配なんて、これっぽっちもしてない……!!」
「これ以上は無理だ! この罪人を連れ出せ!」
それが誰の声かもわからなかったが、どうでもよかった。騒然とする中、ヴィンセントに肩を抱かれて退出を促される。おとなしく従う足とは反対に、顔だけ振り返って、縋るように小春だけを見つめる。
「帰りたい?」
小春の口が、そう動いた気がした。
梨緒は、は、と掠れた笑いを漏らす。
「この状況で帰りたくないなんて選択肢、あるわけないじゃない……」
ヤジが飛ぶ中、ぽそりと漏れた本音を小春は正確に聞き取った。
「わたしが帰って来たときも、そう言える?」
その瞬間、体ごと逆らって、立ち止まる。知ったような顔をしてして笑う小春が腹立たしかった。この状況で、帰りたくなくなるとでも言うのか。
「言えるに決まってるでしょ! あんたなんて……っ、後悔すればいい! やっぱりやめるなんて、聞いてやらないんだから! いい、わかった!? 死んだら、許さない! 許さない許さない許さない! 絶対に、絶対に、許さないんだからっ……!!」
どれだけ暴れてもなにも言わないヴィンセントの腕に抱き込まれながら、閉まっていく扉の向こうへ延々と悪態をつきながら、梨緒はこの世界に来てはじめて、泣いた。
広間を出るとヴィンセントにさっと抱き上げられた。もう暴れることはしない。暴れたところでどうにもならないとわかっていた。だから、泣き顔をみられまいと、目の前にあった男の胸に顔を埋める方を優先させた。
彼はそんな梨緒にやはりなにも言わずに馬車へと乗り込む。まるで予定調和だとでもいうように、ゆっくり馬車は動きはじめた。
その間もヴィンセントは黙って梨緒に胸を貸し続けていた。
王都を離れてどれくらい経った頃だろう。梨緒はぼんやりとする頭でヴィンセントの横顔を見上げた。腫れた頰からにじんだ血が固まっている。絆創膏ひとつ持っていない自分に腹が立った。
自分の代わりに傷を負ったのに、お礼すらも言えていない。
なぜ庇ってくれたのか。真意はわからないが……。
梨緒は袖口でぐいっと雑に涙を拭ってから、彼の頰にそっと指を触れさせる。熱を持っているのか、体温よりも熱い。
一瞬びくりとした体を揺らしたヴィンセントが、少しだけ驚いた様子で梨緒を見た。
「どうかされましたか?」
「なんで……庇ったの? 見捨ててくれれば、こんな怪我……」
そこまで言って、でも、どうしてもうまく感謝が告げられなかった。
ありがとう。
その一言が、梨緒にはこんなにも難しい。
もどかしく思っていると、彼の頰に触れていた梨緒の手を包むように、ヴィンセントの手がそえられた。
「わかっています」
なにが、と視線で問うが、その答えはない。
それなのに、不思議と、梨緒の胸に渦巻く感謝や謝罪の言葉の数々をすべて受け取ったとでもいうように、彼は優しげに目を細めた。
どう反応していいかわからず、梨緒は手を引っ込めると、視線をずらした。窓の外に流れる景色は、すでに建物よりも緑が多くなっている。小春の言った幽閉先とはどこなのだろうか。
「……これから、どこに行くわけ?」
「静かなところに」
「……そう」
説明する気はなさそうなので、聞き出すのは早々に諦めた。
馬車に揺られて半日ほど。のどかな田園風景の広がる裾野から、さらにゆっくりと緩やかな坂道を登って行く。到着したのは小高い丘に建つ別荘のような邸宅だった。
馬車から降りるとすぐ、梨緒は手錠を外されて驚いた。いいのだろうかと思いつつも、口にしたことでまたつけられたら嫌なので口をつぐむことを選んだ。
ヴィンセントは忌々しげに手錠をその辺に捨てると、戸惑う梨緒をよそに、我が物顔で邸の中へと入って行った。ひとつひとつ室内を確認して回り、数少ない使用人に指示を出して、窓を開けて空気の換気をして、荷物をほどいて――と、てきぱきとよく働く。
梨緒はほとんど置いてけぼりだ。
「ここは、誰の家なの?」
家政婦なのだろうか、年嵩の女性に尋ねると、彼女はふっくらした頰でころころと笑った。
「奥様の家ですよ」
(奥様……? どこの?)
その奥様が誰か知りたいのに、詳しくは説明してくれないらしい。
「奥様のお部屋はこちらになります」
導かれるまま彼女について行くと、日当たりのいい広々とした部屋を見せられた。家具は最小限だが、風に揺れるレースのカーテンやアンティーク調の花が描かれた壁紙のセンスはいい。
「あちらのドアは、隣の旦那様のお部屋につながっていますよ」
ふぅん、と梨緒が適当に相槌を打っていると、ヴィンセントが廊下の向こうから歩いて来るのが見えた。
梨緒は彼の姿を目にしただけでほっとして、そんな自分が嫌になった。彼に頼れるのも、今だけだ。どうせ彼も、梨緒をここに置いて行ってしまうのだろう。
だって彼は、ヴィンセントは、聖女の護衛なのだから。
捨てられるのには慣れている。
だから自分から切り出した。
「もう帰らなくていいの? あんたも……討伐に、行くんでしょう? だったら早く行きなさ――」
「行きませんよ」
さらっと言ったヴィンセントに、梨緒は仰天した。
「え!? だって……」
「聖女の護衛は辞めました」
「はあ!?」
なんで、と問い詰めかけて、そこではたと気づく。
「わたしの、せい……?」
「違います」
そんなはずない。それ以外に彼が辞める理由がないのに。
「だったらなんで……。あんただって、わたしのことなんか、嫌いでしょう?」
「いいえ? いつ俺が、あなたを嫌いだと言いましたか?」
梨緒はしばし過去を振り返った。たしかに口では言ってはいない、が。
「目が言ってた! 全身で嫌いだオーラ出してたじゃない!」
「そうでしたか?」
「そうだった!」
はじめの頃、一緒にいるのさえ嫌そうにしていた。仕事でなければ誰がこんな女守るかというような、ちくりとした皮肉を何度も浴びた。こちらが気づいていないと思っていたのだろうか。
ヴィンセントもその自覚があったのだろう。ほんの少しだけ恥じ入るような表情をして頭を下げた。
「最初は、あなたのことを誤解していたんです」
絶句する梨緒へ、顔を上げてすかさずひと言。
「ですがあなたの言動にも問題はあるかと」
わかっているが、それを実行できないのが梨緒だ。現に今も眉をひそめただけで謝ることはしない。
それができたらこんなことにはなっていないのだ。罪人となって地方送りになどならなかった。
「それであんた、これからどうするの? まさか畑を耕して自給自足の生活をするとでも?」
似合わなさすぎて、笑えるところが想像することさえ脳が拒絶してしまう。
「それでもいいですが、騎士を辞めたわけではないので」
だったら地方に左遷されたということなのだろうか。
そうなったのはやはり梨緒が原因だろう。表情を曇らせると、ヴィンセントがそっと梨緒の髪に触れて囁いた。
「あなたが気にする必要などありません。俺が好きで、ここにいる」
「……バカな人ね」
あのまま小春の護衛についていれば騎士としての名誉を得られただろうに。
梨緒についたばかりに、すべてを失った。
この先、どう償っていけばいいのだろうか。
「なにか、わたしにできることはある?」
「あなたがそばにいてくれることが俺の幸せです」
その言葉を聞いて梨緒は落胆した。罪人の手など必要ないということか。
それもそうかと納得の自嘲をし、わかったとつぶやくと、ヴィンセントの手から逃れるように一歩後退した。一線を引くように。
ここから先、立場上馴れ合うわけにはいかないだろう。
「それで? わたしはこの家のどこにいればいいの? ここ、地下牢でもあるの?」
梨緒がそう尋ねると、ヴィンセントが目を見張って固まった。言葉を失うようなことを言った覚えはないのだが。
「別に逃げたりしないわよ?」
梨緒が逃げたとなれば、真っ先にヴィンセントが疑われ、罰せられるだろう。それは望むところではない。
それに梨緒に、行くところなんてないのだ。……どこにも。
「……ここまで伝わらないとは」
ヴィンセントが秀麗な顔を歪めてなにやらうめく。
「なに?」
「あなたはここの、女主人になるのです。外には出してあげられませんが、敷地内ならどこにいても構いません」
「え? ここって誰かの家じゃないの?」
首を傾げた梨緒にヴィンセントが今度は低くうなった。
「俺が、この邸を買いました」
「あんた……意外と貯め込んでたのね」
梨緒は若干引きながらそう言った。
ヴィンセントはまだ、二十代前半だったはずだ。護衛についているときから、趣味もなく娯楽にも女性にも興味なさそうな、見た目がいいだけのつまらない男だなと感じてはいたが、地方とはいえ家一軒買えるだけの金額を貯め込んでいたとは。
「……それだけですか?」
「……? すごいじゃない?」
梨緒にはめずらしく、素直に他人を褒めた。疑問形になりはしたが。
「あなたと暮らすために買ったと言ったら?」
「……意味がわからない」
「あなたを、愛しています」
梨緒は瞬き、ヴィンセントを見つめた。冗談を言っている顔ではないが、だけどそれが本気だとして、なんになるのだろうか。
梨緒に残された未来は聖女を騙った罪人として静かに生きて死んでいくだけ。
それをわかっていて言っているのだとしたら、たちが悪い。
それにだ。小春ならまだしも、梨緒が人に好かれる要素などなにひとつもないのだ。
きっとヴィンセントは職務に忠実すぎて、それを愛だの恋だのと錯覚しているのだろう。それなら理解できる。
だったら冷たく切り捨てて、現実を直視させてやればいい。梨緒がどんな人間であるか、改めて思い知ればいい。すぐに冷めて、次に行くだろう。どの世界でも、人なんてみんなそういう生き物だ。
「わたしは嫌い。この世界の人間なんて、みんな大嫌い。二度とそんなこと言わないで」
この世界への嫌悪と憎しみを込めてそう言った梨緒をヴィンセントは静かに見据えていたが、窓の外に視線を流すと、おもむろにこう切り出した。
「見えますか、あれが」
「はあ?」
いきなりなんだと思いながら、梨緒は窓に近づき、外の景色を眺めた。なだらかな丘を下った先に小さな村が見えた。来たときは通らなかった。意図的に避けたのだろう。その村は、魔物に襲撃を受けた痕跡が至るところに残されていた。
「あれはあなたが最初に慰問した村です」
梨緒は震える指先をきゅっと握り込む。
風が草を揺らしながら丘を下っていく。あのとき壊れて動かなくなっていた風車が、ゆっくりと動いている。少しでも、復興しているのだ。
「あなたはたしかに、聖女だった」
「……違う」
梨緒はなにもできなかった。だからこうしてお払い箱となった。魔物を倒すことも、傷ついた人を癒すこともできない。
「あなたが、俺のことも、この世界のことも嫌いでも構いません。嫌われても、何度だって言いますよ。素直になれないあなたが好きだ」
真摯なその瞳から逃れるように目を逸らす。
憎まれ口すら出ずに、途方に暮れた。
なんと答えればいいのか、本当にわからなかった。
お茶を淹れることは騎士の職務ではないと、かつてそう言っていたヴィンセントが、今は当然な顔をしてお湯を沸かしている。
ヴィンセントが買ったという邸に移送されて早数日。
梨緒は疑心暗鬼のまま息を殺すように過ごしていたが、恐ろしいことなどなにひとつ起こることもなく、想像よりもずっと穏やかな日々を過ごしていた。
「お茶を淹れました。どうぞ」
そう言われて手をつけないのも無作法なのでカップに口をつけた。
隙あらば目の前に座るヴィンセントのことを観察しているが、相変わらずよくわからないでいる。
これまでずっと、好き嫌いのはっきりしたわかりやすい男のように思っていたが、まったくわかっていなかったらしい。
今や思考の多くが彼に奪われている。
必要以上に顔を合わせたくないのに、彼がいなければ梨緒にはお湯も沸かせない。なにをするにも魔力というものが大なり小なり必要で、梨緒にはそれがまったくないのだ。本当に異世界人に不親切な世界である。
(わたしを、愛してる……? それはどう考えてもあり得ない)
それでも彼の真摯な瞳にも、まっすぐな言葉にも、嘘はない気がした。
それなら頭でも打ったのだろうか。その可能性が一番高そうだ。そうでなければ、彼が梨緒を好きになるはずがないのだから。
しばしの沈黙に、喉が乾いているわけでもないのにひたすら飲み続けて間を繋いでいると、
「……かわいいですね、あなたは」
「ごほ、かはっ……」
変なことを言うせいで気管に入った。慌てて立ち上がったヴィンセントが、苦悶の表情でむせる梨緒の背を労わるようにさする。
「予想通りの反応でしたが……すみません。つい心の声が漏れました」
「ごほっ、ちょ、本当に、あんた誰!? 前と違いすぎて気持ち悪い!」
中身が入れ替わったと言われたら信じるくらいに別人なのだ。
「違っていて当然です。以前は護衛騎士として節度を持って接していましたが、今はあなたに堂々と求愛できるので」
「……それ、本気なの?」
「あなたが拒まなければ」
「じゃあ、嫌よ」
なぜ梨緒のような性格の捻くれた女を選ぶ必要があるのか、理解できない。出世がふいになったのだとしても、ヴィンセントならもっと気立がよくて器量のいい娘を娶れるはずだ。
冷たく突き離したのに、ヴィンセントはどこか優しげな面持ちで梨緒を見つめていて、一転して戸惑いが増す。そんな目、これまで一度だってしなかったのに、急にそんな態度を取られるとこちらも反応に困ってしまう。
「本当に、大丈夫なの……? もしかしてアーノルドに殴られておかしく――」
それ以上言う前に、梨緒の唇がヴィンセントの指で封じられた。
「殿下の話は聞きたくない」
(なにそれ)
それではまるで、嫉妬のようではないか。
バカな考えを一笑に付そうとしたが、不機嫌そうな彼の目は梨緒を咎めるように射貫いている。
もしかすると本当に、嫉妬、なのだろうか。
じとりとした視線に晒されると、どうにも据わりが悪くなる。自分はなにひとつ悪くないはずなのに、バツが悪いような気持ちになる。
「こんなことを言うべきではないと承知していますが、俺は性格が悪いのではっきり言います。殿下はあなたに、魅了の力を使っていたと思います」
梨緒は目を瞬いた。
「魅了……?」
「相手に恋心を誘発させて自分の思いのままに操る、精神操作系の魔法です」
「ああ……」
なんとなく、理解できた。そして腑に落ちもした。同時にがっかりもした。それはアーノルドに愛されていなかったことよりも、自分が彼を本当に愛していなかったことへの落胆の方が大きかった。
(わたしも人並みに恋ができたと思っていたのに……)
それなのに、バカみたいだ。
はじめから利用するつもりだったのだろうか。
きっとそうなのだろう。
そんな魔法を使わなくとも、梨緒のような小娘を恋に落とすことなど、容易かっただろうに、ご苦労なことだ。
「おそらく、まだあなたの精神に干渉していると思います。ですから、まだ殿下のことを想っておられるのなら、それは――」
「間違いだって?」
ヴィンセントが言葉を止める。その目にあるのは、憐憫、だろうか。
同情などされたくない。
この世界の誰にも。小春にだって、許すものか。
「あんたにそんなこと言われる筋合いはないし、人の気持ちを勝手に決めつけないで!」
八つ当たりだとわかっていた。
善意で教えてくれたのだろうが、余計なお世話だった。
驚いた様子のヴィンセントに、引っ込みがつかなくなって逃げ出した。女主人の部屋と言われていたが、ここ以外、どこを使っていいのかもわからないからとりあえずで使わせてもらっている自室へと。
梨緒の居心地がいいようにと工夫された部屋が、今は居心地が悪くて仕方ない。
このような待遇、受ける資格などないのに。
薄暗くてじめじめした牢でよかった。そうしたら気兼ねせずに悲観に暮れて泣けたのに。
ベッドに突っ伏して、必死に泣かないように自分を抑え込む。
泣いたって誰も助けてくれない。
誰も助けてはくれないのだ。
オレンジ色の夕日が窓から差し込み、枕に顔を埋めていた梨緒は、少しだけ視線を待ち上げて空を見た。この時間はあまり好きではない。ゆっくりと、だが確実に、夜に呑み込まれていく様が切ないから。
ぼんやりとしていると、躊躇いがちなノックの音が響いた。そっとしておいてくれればいいのに、律儀なヴィンセントは梨緒を慰めに来たらしい。
梨緒が聖女だった頃、彼は職務としてずっと梨緒の部屋の、ドアを挟んだ向こう側に立っていた。あの頃の距離感を思い出す。どこにいても、自分たちの間にはいつも、ドアが一枚、隔たっている。
「俺が配慮に欠けていました。……申し訳ありません」
違う。ヴィンセントは事実を伝えただけだ。後回しにして梨緒が引きずり続けるよりはと、先に伝えたのは彼なりの気遣いだと理解している。
なにも返さずにいると、苦悩のにじむ声音でヴィンセントが囁いた。
「……難しいですか?」
うまく聞き取れずに、身を起こす。
「殿下のことを忘れるのは、難しいですか?」
その瞬間、梨緒はベッドから飛び起きて駆け出し、感情に任せてドアを蹴りつけていた。
「あんな男、人のことを切り捨てた時点でゴミにしか思ってないわよ! バカにすんな!」
ドアに八つ当たりしたら、少し冷静さが戻ってきた。ここは梨緒の家ではなく、ヴィンセントの家だ。彼が自腹を切って買った家だと思うと、それ以上、足を振り上げることはできなくなった。
「……みんな嫌い」
「はい」
ドアの向こうでヴィンセントが答える。そこに非難の色はない。
「わたしが、悪いの?」
「いいえ。あなたはなにも、悪くはありませんでした。口以外は。ああ、それと、足も」
いつも通りの口調で、ちょっと皮肉を織り交ぜる彼に、思わず、ふ、と笑ってしまった。
「あなたもたしかに聖女でした。少なくとも……そうあろうとしていた」
だけど、そうあろうとするだけでは、だめだった。
だからといって、偽物だの悪女だのと詰られ、まるで罪人のような扱いを受けなければならないほど、悪いことをしたとは思わない。
最初に間違えたのは、この世界の人間なのに。
それなのにすべての責任を梨緒ひとりに押しつけて。
梨緒はこの世界が嫌いだし、自分のことを聖女だと持ち上げ、手のひらを返すように排除しようとした、すべての人が嫌いだ。
大嫌いだ。
「あの子が無事に戻って来なかったら、わたしは城も神殿も焼き尽くしてやる」
「どうぞ、ご自由に。そのときは俺も手を貸しましょう」
平然と賛同されて、呆れて憎悪がわずかに減衰した。そこは絶対に煽るべきところではない。
「止めなさいよ、騎士なんだから。あんたの手は人を傷つけるためのものじゃなくて、人を守るためのものでしょうに」
「……」
ドアの向こうで彼がなにかつぶやいたようだが、聞き取れずに聞き返す。
「なに?」
「いえ……あなたのそういうところが、改めて好きだなと思っただけです」
「……」
梨緒ではなく、ヴィンセントが精神操作されているのではないだろうか。
そうでなければおかしいレベルで梨緒に愛を囁いてくる。
「コハル様はきっと無事に帰って来ると思います」
少し引き気味だった梨緒は、はっとドアノブに触れる。
だが触れただけで、開く勇気はなかった。
「それまでの間、あなたはあなた自分自身のことだけを考えて過ごしてください。ほかの誰でもなく、あなたの幸せを」
そんなことを言われても、わからない。
考えたところで無駄なのだ。
梨緒の幸せなどありはしない。
もうどこにも、ありはしないのだから。
その晩、梨緒はこの世界に来てからのことを夢に見た。
聖女だと持て囃されて、そんなはずはないと心のどこかで思いながらも、求められることに喜びを感じていた。
そんな中、ヴィンセントだけは梨緒を特別扱いせず、それどころか、ただの口の悪いわがままな小娘として扱った。
自分がちっぽけな存在なのだと驕らずいられたのは彼のおかげだろう。
だけど周囲の期待はそれ以上で、期待されればされるほど不安が増して、なにもできない自分がもどかしくて。
そんなときだ。
王都近郊が魔物に襲撃され、襲われた人たちが城に詰め寄せて来たのは。
梨緒はほとんど動けなかった。
小春が駆けつけなればどうなっていたかわからない。
あのときの彼らの失望した顔が、今でも眼裏に焼きついて離れない。
聖女ではないと断罪され、非難され、白い目を向けられ、だけど自分が聖女ではなかったことに誰よりも納得して安堵もしていて。
それなのに、そんな梨緒に、ヴィンセントは相変わらずまめまめしく従っている。
むしろ以前よりも甲斐甲斐しいくらいに、梨緒の世話を焼いていた。
食欲がなく、食事に誘われても部屋から出て行かなかった梨緒の元に、ヴィンセント自ら食事を運んできたのは昼過ぎのことだ。
「……仕事は?」
「しばらくのんびりしてから働きます。蓄えはまだあるので、ご心配なく」
頑なにベッドから出ずにいると、彼は呆れるでも同情するでもなく、当然のようにベッドに腰かけ、ちらりとも視線を向けずにいる梨緒へとポタージュをひと匙すくって差し向けた。
「少しは食べないと」
「……小さな子供じゃないんだけど」
そう言ったものの、小さな頃だってこんな扱いはされたことがなかったことを思い出して、それ以上言葉を続けられずに口を閉じた。知らないくせに、知ったような口は利けなかった。
梨緒は母が再婚するまで施設で育った。それ以前の母の恋人たちが梨緒の存在を煙たがったから。
「ひと口でも食べてください。あなたが食べないと、俺も食事が喉を通らない」
ヴィンセントは騎士らしく、結構食べる。動くので食べないと持たないのだ。梨緒の三倍はゆうに超える量をぺろりと平らげているのに、鍛えているからか太ることはない。そこはなんとなく腹立たしい。
そんな彼が自らを交渉材料にするという卑怯な手口を使ってきた。そんな風に言われたら、食べないわけにはいかないだろうに。ヴィンセントを睨んでから、仕方なく、本当に渋々、ひと口食べた。
「……なに?」
なにか文句でもあるのかと見据えると、ヴィンセントは狼狽したように目を逸らした。その顔がなぜか少しだけ赤い気がする。
ヴィンセントはすぐに気を取り直したように、もうひと匙すくって素直に開いた梨緒の口に入れた。次はフォークで野菜を。ちぎったパンをと、忙しいのに、どこか楽しそうだ。
こんな病人の介護みたいなこと、嫌ではないのだろうか。
ベッドに入っているが、梨緒は病人ではなく、罪人なのに。
暗い思考に支配されてそうになって、慌てて別のことへと意識を向けた。テーブルに用意されていた、手つかずの彼の分の食事へと。
「あんたは食べないの?」
「食べてもいいのですか?」
「いいんじゃない?」
なぜだめなのかわからない。
そう思っていたら、ヴィンセントは梨緒の食べ残しを片付けはじめた。
そういう意味で言ったのではないが、嫌そうではないので口を挟まず、結局食事のほとんどを彼が平らげた。それなのに相変わらず涼しい顔だ。お腹も出ていなさそう。
「なんでそんなに入るわけ?」
「体質でしょうか? あなたは普段からあまり食べませんね」
「子供の頃からあんまり食べる物がなかったから、体が順応したんだと思うけど。…………なに? 変な顔して」
ヴィンセントがあっけに取られたような顔で梨緒をまじまじと見つめている。
「いえ、聖女様の住んでいる元の世界は、ここよりもずっと進んだ世界だと聞いていたので……」
「ああ、そういう……。食べ物を捨てる人もいるし、飢えて死ぬ子供もいる。そんなのどこだって同じじゃない?」
どれだけ進んだ世界でも、貧富の差はなくならない。
それでも梨緒はまだいい方だ。飢え死にすることもなく、施設ではあるが屋根のある場所で寝られて、誰かに暴力を振るわれることもなく生きて来れたし、実の親はひどかったけど、養父には恵まれた。
「そうですね、どこも、同じだと思います」
「……あんたは?」
突っ込んでいいものか迷ったが、彼は特に気分を害することなく端的に告げた。
「俺は貴族の庶子なので、それなりの生活はさせてもらっていました」
貴族の庶子。愛人の子供という認識で合っているだろうか。
「ふうん。父親が最低限まともでよかったわね」
「え?」
そんなことはじめて言われたというように、少しだけ気を悪くしたようなヴィンセントに、梨緒は苦笑した。父親とはあまり関係はよくないようだ。
「わたしの実の父親は、妊娠したって言った母に堕胎するお金を渡して、そのまま音信不通だったらしいから」
たとえ愛情はなくても、子を作った責任を自覚してお金を出してくれるだけ、恵まれているのかもしれないが。
(産まれる前からそんな風だったから、運よく産まれたって、わたしの居場所なんてどこにもない)
「……だからですか?」
「なにが?」
「あなたのその、自分自身の扱いがあまりにも軽いのは、そのせいですか?」
「……別に軽くないけど」
「あなたはコハル様が生きてさえいれば、自分は死んでも構わないと思っている」
それのどこがおかしいのだろうか。
「だって、わたしが死んでも誰も悲しまないから」
「俺が悲しむ」
真摯な瞳で面と向かってそう言われると怯んでしまう。
「……なんで?」
なぜヴィンセントが悲しむのか、わからない。
本当にわからない。
それは彼自身もそうなのか、困り顔をしている。
「本当に、なんででしょうね……? ですが、あなたが死んだら、悲しくて生きていけない気がします」
「そんなこと……」
戸惑う梨緒の手をヴィンセントが握った。不思議と振り払おうとは思わなかった。
「あなたが他人に理解されないことをもどかしくも思いますし、自分だけが本当のあなたを知っていることに、優越感を覚えることもある。あなたがつらいときにはそばにいるのは、自分でありたい」
「八つ当たりされるのに?」
そう訊くと買ったばかりの家のドアを蹴られたことを思い出したのか、ヴィンセントは少しだけ意地悪そうに口角を上げた。
「どうぞ、存分に傷つけてくださって構いません。傷が増える度に、おそらくあなたはここに囚われて離れられなくなると思うので」
それはものすごいその通りな気がして、梨緒は思い切り顔を顰めて、代わりにヴィンセントは愉快そうに笑った。
ヴィンセントは本当にしばらく仕事に復帰するつもりはないらしい。
その代わりに敷地を囲う柵の強度を高めたり、イングリッシュガーデン風の庭を作ったりと、庭仕事に精を出しているが、この男ほど野良仕事が似合わない人もいないのではないかと、梨緒は内心そう思っている。
朝からずっと外で土いじりをしているが、疲れないのだろうか。
梨緒は部屋の窓から離れて陽気に誘われるように庭に出ると、気づいたヴィンセントがタオルで汗を拭いながら、こちらへと駆けてきた。
「どうかしましたか?」
「外の空気が吸いたくて」
「それはいい兆候ですね」
ヴィンセントにテラスに案内され、パラソルのついたガーデンチェアへとさっさと座ると、ちょっとだけ不満げにこちらを見る目と目が合った。
「椅子くらい、自分で座れる」
「そうやってあなたはいつも男の楽しみを奪おうとする」
なにが楽しみだ。そうやってあまやかした結果、腑抜けになったらどうしてくれるのか。今以上にヴィンセントなしでは生きていけなくなってしまう。
「お茶を用意するので少しお待ちください」
その間、梨緒はぼんやりと作りかけの庭へと目線を流した。涼やかな若木とハーブの緑が目に優しい。まだ三分の一ほどの進捗具合だが、完成した庭を想像力で補うと、素直に素敵だと思えた。
ヴィンセントが淹れてくれたお茶はいつも同じ味がしてほっとする。
彼が向かいに腰を下ろしたことを確認してそっと安堵していると、
「だいぶあなたの心が読めるようになってきた気がします」
「なに急に」
「俺に休憩してほしいから、庭に出て来た。必然的にお茶を飲むことになり、俺が休むことになるから。違いますか?」
図星を指されて、唇をわななかせ、頰がみるみる赤くなる。するとヴィンセントがますます調子づく。
「あなたはいつも俺の心配をしてくれていた。きっと、はじめから、ずっと……」
「あんただけ特別に思ってるわけじゃ……」
「それはわかっています。俺が、あなたが嫌う大勢の中のひとりでしかないことも」
なぜそんな風に悲しげに笑うのだろうか。
本音を言えば、ヴィンセントのことは嫌いではない。
自分によくしてくれているのは嫌というほど理解しているし、人の好意を無視できるほど梨緒も人でなしではない。
すっと立ち上がって、ハーブの茂みからひとつ葉をちぎると、目を丸くしていたヴィンセントに差し出した。
「虫刺されに効くから」
彼は袖捲りをしたシャツから覗く腕に虫刺されの跡があることにたった今気づいたらしく、ちょっとだけ顔を顰めてから、梨緒とちぎられた葉を交互に見た。
「虫刺されくらいで薬なんてもらえなかったから、公園でいつも葉っぱをちぎって塗り込んでたのよ」
気休めかもしれないが、ないよりはましだった。
彼の表情が途端に厳しくなり、それから、困ったように優しくなる。その瞬間の顔はわりと好ましい。
「ありがとうございます」
そう言って塗らないところが警戒心の強い彼らしいなと、梨緒は思わず笑ってしまった。
断罪された後から急に態度を変えられて戸惑っていたが、ヴィンセントはヴィンセントなのだ。ほっとして、だけど次の瞬間、なぜか急に体を引き寄せられて、バランスを崩してその膝へと乗り上げてしまった。
「ちょ、」
文句を言って離れようとした梨緒だが、とても嬉しそうに緩む彼の表情を目にしてしまうと、途端になにも言えなくなった。
「笑った」
「え?」
ぎゅっと抱きしめられ、どうしていいのかわからない。
わからないからじっと待っていると、腕の力を緩めて抱擁を解いた彼と、思いのほか近い距離で視線が絡んだ。
先ほどまでとは空気が一変し、それが肌でわかるから、途端に呼吸が浅くなる。心臓がうるさい。
その先になにが起こるのか。わからないわけがない。……二度目だからこそ、余計に。
一度目の相手はアーノルドだった。
愛していたはずなのに、そのときの梨緒はなぜか、やんわりと拒絶した。
今ならなんとなくわかる。魅了されていたから、無理やり心惹かれさせられていたから、本能が彼と口づけることを拒否していたのだろう。
梨緒の手を握るわけでも、背に腕を回すわけでもなく、ヴィンセントが逃げる隙を与えてくれていたことには、後になってから気がついた。
頰に触れた手は冷たくて優しい。
押し返さなければと思って、慌てて持ち上げようとした腕は、結局動かないままで。
唇に吐息が触れて、それがきっと拒める最後のチャンスだった。
動かない梨緒の唇に、躊躇いがちに、それでも想いを、熱を伝えるように、重ねられた。
拒めなかったのか、拒まなかったのか。
どちらでもきっと同じこと。
はじめてのキスは甘酸っぱいと聞いていた。あれは嘘だったのかもしれない。
ヴィンセントの淹れるお茶の優しい味がした。
暇なので日中庭仕事を手伝うようになってわかったが、梨緒の方が明らかに手慣れていて仕事が早い。
忸怩たる思いを隠しもしない悔しげなヴィンセントは、自分の本業がなにか忘れているようだった。
できればそのまま、あの日のことも忘れていてほしい。
あの口づけの後、我に返った梨緒が逃げ出したことを責めるでもなく、追及するでもなく、普段通り接してくれている彼が、本当はどう思っているのかはわからない。
だから黙々と作業のできる庭仕事が異様に捗る。
日常のサイクルが確立すると、梨緒も余計なことは考えず、自然とそう行動するようになり、そのおかげで健康的な生活を送れるようになってきた。
たまに自分が罪人であることを忘れそうになる。
それは接する人が極端に少ないからだと最近になって気がついた。
だからヴィンセントはこんな辺鄙な場所に建つ邸を買ったのだろうか。
梨緒が心穏やかに暮らせるように、と。
自分が世間でどう言われているのかわかっている。だからあまり人と会わなくてもいいという環境は救いでもあるが、なにも知らずにいるだけで自分のことが悪く言われていると思うと、それはそれで悲しかったり苦しかったり腹が立ったりもする。
そのすべての感情をぶつけられているヴィンセントは、そろそろ音を上げてもいい頃合いなのに、相変わらず梨緒を見捨てず、そばにいる。
ふいに小春のことが浮かんだ。すでに討伐に出発しているが、人づき合いがないことが裏目に出て、噂のひとつも入って来ないのだ。
あの日見た小春ならば、無事帰って来ると信じてもいい気がしているが、それでもやっぱり、どうしたって不安はある。
日が落ちてから、梨緒はヴィンセントの部屋を訪ねることにした。彼は大きく目を見開いてなにか物言いたげにしていたが、梨緒が引かないとわかると肩をすくめて中へと入れてくれた。
「話があるんだけど……」
「なかったことにはしません」
間髪をいれずそう返されて瞬く。
「……なかったこと? なんの話?」
本気で困惑する梨緒の様子に、なにやらため息をついたヴィンセントは、やるせなさそうに首を振ってからベッドにどさりと座った。
「いえ、別件だと思ったので。思い詰めた顔をしていましたし。……いえ、そうですね。あなたがそうやって心を砕くのは、もはやひとりだけ。コハル様のことしかありませんね」
「心を砕いているわけではないけど、だいたい合ってるわね」
「でしょうね。あなたの心にはあの方しかいない。本当に、妬ましいくらいに」
「心配するなって言う方が無理でしょ? 生きるか死ぬかの戦いに行ってるんだから」
「……そう、ですね。あちらは順調なようです。元気に魔物をバタバタ薙ぎ倒しているとか」
ヴィンセントには情報が入っているだろうと思っていたが、その通りだった。内容は思った以上だったが。
「……そう」
無事ならよかった。少し肩の荷が降りた。
あの子はきっと、梨緒が守ろうとしなくてもやっていけるのだろう。
この世界では。
ひとつ安堵の息をついて、それから気になっていた部分を尋ねた。
「ところで、別件って?」
「あえてそこを追及してくるところが、あなたらしくはありますが。……あのことを、なかったことにしてほしいと頼まれるのかと」
「なにを?」
ベッドにかけたヴィンセントが、少しだけ恨みがましげに梨緒を睨めつけて言った。
「キスを」
「……」
自ら墓穴を掘ってしまった。
「嫌だったのかと」
「嫌だったら拒否してる」
アーノルドのときのように、体が勝手に拒絶するだろう。
だから、つまりは、そういうことなのだ。
そう考えるとすとんと腑に落ちた。
この世界に来てからずっと、彼だけがそばにいてくれた。最初は嫌々だったかもしれない。だけど特別扱いも、罪人扱いもせず、普通の人として接してくれた。
聖女ではなかったと断罪されて、それでも手のひらを返したりはしなかった。
それどころかこんな自分を、愛しているなどと言ってくれる。
いい加減、与えられる好意を無視できなくなっていた。
ずっと誰かに必要とされたかった。
世界にひとりだけでもいいから。
誰かに愛してほしかった。
そして誰かを、愛したかった。
梨緒がヴィンセントの隣へと腰を下ろすと、彼はわずかにたじろいだ。
「自制はしていますが、これは結構、ギリギリです」
そういえばこの世界は、夜に男女が部屋に一緒にいるだけで問題になる、奥ゆかしい風潮があるのだった。
だがここには今、自分たちしかいないのだから、誰に咎められることでもないだろうと堂々としていると、ふいにヴィンセントがなにかに気づいたように眉を顰めてから、はっと口元に手を当てた。
「……いや、ちょっと待ってください? 今……嫌だったら拒否してる、と言いましたか?」
「わたしは、感謝とか、好意とか……そういう言葉を、どうしてもうまく伝えることができない」
「? そうですね」
「でも、嫌なことは嫌ってはっきりと言える。しかも、罵詈雑言つきで」
「……確かに」
そこをしみじみ納得されると立つ瀬がないが、自業自得だ。
迂遠な返答だったが、察した彼の目に期待の色が広がった。
「それなら……」
梨緒はなんとなく恥ずかしくなって、そっぽを向く。
「嫌じゃなかった、だけだから」
「嫌じゃないのならそれで十分です」
「……え、そういうもの?」
嫌いじゃない=好き、ではないと思うのだが。
「あなたに関してはそういうものです。試しにもう一度しても?」
え? と思いはしたが、うぶな娘のように狼狽したと思われたくなくて、強がった結果、口が滑った。
「好きにすれば?」
やってしまったと梨緒が思ったときにはわりと手遅れで。
ふたりの間に彼が片手をつくと、そのままぐっと身を乗り出してきた。
「は? 正気ですか? そんな風に煽って、キスだけで止めてもらえると?」
「え?」
「では、遠慮なく好きにさせていただきますよ」
気づいたときには梨緒は彼によってベッドに寝かされており、髪がシーツに広がっていた。両手が縫い止められて逃げる隙を封じられ、迫ってきたヴィンセントの顔に、覚悟を決めてぎゅと目を閉じる。
(……!)
しかし思った場所――唇とは違う曝け出された額に、ごく軽い口づけを落とされて、ぽかんとしたまま目を開くと、彼はわりと真剣に説教をする顔をしていた。
「夜に男の部屋に無防備に入ってきて、しかもベッドで、好きにしたら? そんな愚かなことを言う女がどうなるか、わかりましたか?」
「わ、かりまし、た……?」
本気ではなかったと知り梨緒が安堵していたところで、ちゅっと唇を奪われた。
「……え……えっ、そこは説教して終わる流れじゃないの!?」
「いただけるものは、もらわないと。割に合わない」
しれっと言うヴィンセントの胸を両手で押しやり、梨緒はわなわなしながら叫ぶ。
「次やったら本当に嫌いになるから!」
嫌いになると言ったはずなのに、彼は嬉しそうに笑っている。
「嫌いになる、ということは、今は好き、ということですね?」
「……はあ!? 勝手にそう思ってれば!?」
梨緒は寝返りを打って丸くなり、自分の失言に身悶える。
背中にくすりという笑い声が聞こえたが、徹底的に無視を貫いた。
***
「コハル様、お疲れですか?」
川縁の岩場に腰掛けた小春の背中に、セドリックの声がかかった。
すぐに、ううん、と振り返って笑う。
夜空の星座の位置が異世界でも同じなのがおもしろいなぁと思って見上げていただけで、疲れてはいない。
聖女の務めとはどんなものかと思っていたが、えいやっ、と力を込めるだけで魔物がバタバタ倒れていくし、瘴気は消えるし、魔物にやられた傷なら綺麗に治る。思った以上にめちゃくちゃな力だと思う。
「だったら、なにを?」
「梨緒のこと」
「妬けますね」
「家族だからねー」
「妬けますね」
「あはは」
小春が声を出して笑うと、彼が隣に座った。指先がちょこんと触れると、自然と繋がれる。小春はこの手が大好きだった。
小春が追放されて困っていたとき、大丈夫だというようにしっかりと繋いで、連れ帰ってくれた優しい手。
(まあ、最初は小さな男の子だと思われてたんだけどね……)
少女ですらないのはなぜなのか。解せん。
「思ったよりもリオ様の件が広がっていないようでよかったですね。魔物に襲撃を受けた村を慰問していたというのもよかったのでしょうが」
「そうだね。聖女を騙っただの、紛い物を掴まされただの言ってるのは、王族と貴族と神殿関係者だけだからね」
みな聖女を神聖視しているようだが、聖女は名誉職ではない。
聖女とは、災厄を前に神に捧げる生贄と大差ない存在だと小春は思っている。
わざわざ別の世界から無理やり連れて来るところがいかにもではないか。
このよそ者の命を代わりに捧げるから、この世界の者たちは見逃してくれという、生贄。
聖女とは、人身御供のために連れて来られたまれびとだ。
大多数の人にとっては、本物さえきちんといたのならそれで終わりな話でもある。
いろいろと考察のし甲斐があるが、自分のことだと思うとどういう結論に至ってもおもしろくない気がするので、小春は別のことを口にした。
「なんでふたり一緒に召喚されたのかは、ちょっと考えるところだよね」
「それは、リオ様がコハル様を守るために必要な盾だったからではないでしょうか?」
「盾?」
「アーノルド殿下はリオ様に魅了の力を使っていました。あの方は聖女を娶るくらいのことをなさねば王位を狙えないので」
討伐に出るまでに聖女を落としておきたかったのだろうが、直前で小春と梨緒が入れ替わったので焦ったのだろう。結果、その事実が露呈した。
聖女を操ろうなどけしからんと、神殿も王族への抗議を入れていたので、後はみんなで仲良く話し合って処分なりなんなりしてくれればと思う。小春には関係のないことだ。
「聖女の精神が他者に干渉される状態が討伐になんらかの影響を与える恐れが――」
「いや、セドリックは考えすぎだと思うな。案外真相はシンプルなものだよ、きっと」
「……では、なぜだと?」
「そんなの決まってるじゃん。わたしが寂しくないように!」
「……」
「あ、バカにしたな?」
「まさか」
目は口ほどにものを言うという言葉を今こそ使いたい。目を逸らしてももう遅い。
「孤独はうさぎを殺すよ?」
「残念ながらうさぎは寂しくても死にません。逆に構いすぎるとストレスで体調を崩すそうです」
それはうさぎに限らず誰だってそうだろう。
(……まあ、理由なんて、どうでもいいんだけどね)
もしかすると本当にただの巻き込み事故だった可能性もあるのだから。
「あーあ。早く帰っておいしいご飯が食べたいなぁ」
もちろん小春が帰りたいと望むのは別の世界にある生まれ育った家ではなく、セドリックの家である。転がり込んで住み着いた、我が家。
「そろそろ梨緒も、新しいお家に馴染んでいる頃かな」
ヴィンセントという騎士が梨緒と暮らすのために家を買ったと聞いたとき、ちょっと引いたのは内緒だ。
だってそんなの、囲い込む気満々ではないか。
だが、そのくらいの相手の方が梨緒には合っているのかもしれない。
だから梨緒の処遇を幽閉にした。
もう二度と、外の世界の醜さを目にしなくていいように。
このまま一生、その優しい檻に囚われていてほしい。
「次にお会いしたとき、リオ様はまだ帰りたいと言うと思いますか?」
「言うんじゃないかな。梨緒だもの」
いつものようなつんけんした態度で、本音を素直に曝け出さずにこう言うのだ。
「帰りたいに決まってるでしょ?」
だから小春もこう言うと決めている。
「梨緒ならそう言うと思った!」
梨緒の気持ちなどお見通しだという訳知り顔で笑ってやる。
小春は夜空を仰ぎながら足をばたつかせた。つま先が川の水面を軽く蹴ると、水滴が星のように煌めいて散る。
「そうと決まれば、さっさと討伐完了して、ド派手に凱旋帰国してやりますかー!」
梨緒が安心してこの世界で暮らせるように。
精々、命をかけて世界を救おう。
***
「今もまだ、元の世界に帰りたいと思いますか?」
窓辺で星を見上げていると、隣にいたヴィンセントにそう尋ねられて、梨緒はしばし逡巡した。
小春相手なら、「当たり前でしょ?」と返すだろう。
帰りたいに決まってるでしょ、と。
迷っている時点で答えが出ているようなものなのだが、笑みを噛み殺しているヴィンセントには気づかず、梨緒はそっけなく、それでも今言える精一杯で応えてみせた。
「……あんたが死んだら、そう思うかもね」
別におかしなことは言っていないのに、ヴィンセントは一度瞬いてから、おかしそうに笑い出す。
「それなら俺は、あなたより先には死ねませんね」
「精々騎士らしく、最後までわたしを守ることね」
彼は幸せそうに微笑んで、恭しく胸へと手を当た。
「仰せのままに」
聖女を騙ったマガイモノの聖女という不名誉な肩書を背負ったまま、後ろ指を指されながら、梨緒はこの世界で生きていく。
最後までお読みいただきありがとうございました!
【人物紹介】
梨緒(19)
黒髪ロングの大和撫子(見た目詐欺)
召喚時、おろしたての清楚な白いワンピースを着ていたため、聖女だと誤認された
無自覚だが最初に惹かれたのはヴィンセント
アーノルドの横槍(魅了)がなければ、もっと早くにヴィンセントを意識していた
一生ヴィンセントの家に幽閉される予定
ヴィンセント(24)
銀髪紫眼の美形の騎士
聖女とは心清らかな美しい女性である、という言い伝えを信じていため、梨緒のその言動に一瞬で幻滅した
しかし接するうちに不器用な梨緒の内面を知り、もどかしく思うようになる
最初の好感度が最悪だったため、知れば知るほど目が離せなくなり、いつしかそれが恋に
ちゃっかり梨緒の囲い込みに成功した人
独占欲は強め
小春(19)
茶髪(地毛)ショートボブの童顔聖女
異世界転移も、巻き込まれ転移も、一瞬で察して理解したラノベ育ち
かなり小柄で、召喚時にダボッとしたパーカーとジーンズ姿だったため、少年と間違われ追い出された
セドリックには一目惚れ
梨緒とヴィンセントのことは、美男美女でお似合いだと思っている
セドリック(22)
黒髪の精悍な騎士
召喚に巻き込まれて所在なさげに立つ小さな少年を子供の頃に亡くなってしまった弟と重ねてしまい、聖女の護衛という栄誉ある職務を放棄して助けたらまさかの女性だった
とりあえず家に連れ帰ったら居つかれたが、わりとすんなりつき合う流れに