17.恐怖、中間試験の告知
あの波乱だらけの体育祭が終わり、数日が経った。騒ぎ疲れたクラスメイトたちは、ようやく日常へと戻りつつある。しかし――それは新たな試練の始まりでもあった。
「えー、みんな、ちょっと静かに! 先週も一度伝えたけど、来週の水曜から中間試験が始まるからね!」
ホームルームの時間に、先生は改まった表情で黒板をトントンと指す。そこにはすでに中間試験の科目と日程表が書かれていた。
「忘れちゃってた人はいないと思うけど……って、顔を見れば分かるね。思いっきり青ざめてる人が数名いるけど……」
教室がどよめきに包まれる。体育祭の盛り上がりが落ち着くやいなや、今度は試験が迫ってくるなんて、全く気が休まらない。
「そ、そうだ……試験……」
俺は先日の小テストのときに散々な結果を取ってしまった事実を思い出し、思わず頭を抱えた。前世では資格試験だって受けた経験があるし、勉強の要領はあると踏んでいたのに、この身体になってからというもの、教科書を読んでも頭に入ってこない。どうやら前世の学問系知識は大幅にすっぽ抜けているらしく、実際に小テストでも大苦戦。点数を聞いたクラスメイトからは「あれ、もうちょっとできると思ってたのに……」と不思議がられたほどだ。
「うう……普通に勉強できると思ってたのに……何でこんな簡単な公式も思い出せないんだろう……」
机に突っ伏しながら、顔がどんどん青ざめていくのが自分でもわかる。記憶を遡ると、たしか英語のリスニング問題で寝落ちしかけたり、数学で解答欄をズレて書いてしまったりと、散々だった。今度の中間試験は範囲も広い。まさにピンチだ。
「どうしよう……普通に勉強しようにも、時間が足りないよ……」
不安を押し殺しきれず呟くと、隣の席の日野結月が心配そうに声をかけてくる。
「美玲ちゃん、大丈夫? 慌ててるみたいだけど、やっぱり苦手科目が多い?」
「そうなんだよ……とにかく全然分かんないの……」
「そっかぁ。じゃあ、分からないところ、一緒に勉強しよ!」
結月は相変わらずの優しさで微笑んでくれるが、果たしてそれだけで乗り切れるのか。昼休み、落ち着かない気分のまま教室にいると、佐々木翔が「飯行くぞー」と声をかけてきた。だが、昼食をのんきに……という気分にもなれず、思わず思考が口を突いて出る。
「そうだ……短期テスト対策合宿しない? 私、マジでヤバいんだよ……。家だと集中できるか分かんないし……二人で協力してくれないかな」
「合宿? いきなりまた大げさだな」
翔はやや呆れた顔をするが、結月はパッと目を輝かせる。
「合宿って……放課後にどこかでお泊まりして勉強会するってこと? 楽しそうじゃない!」
「いや、楽しいかどうかは置いといて……中間試験が目の前だから、短期集中で詰め込んだ方がいいと思うんだ」
前世でも資格試験の際には数日間、図書館などで勉強していた記憶がある。合宿という単語に特別な意味はなく、要するに「勉強漬けになる場をつくる」という目的だ。翔は頭を掻きながら、「ま、別にいいけどさ」とすぐ折れてくれる。
「お前がそこまで焦ってるなら、手伝ってやるよ。オレは家が狭いから集まるなら別の場所がいいけど、結月んちとかどうだ?」
「うちはいけるかも! 家族には聞いてみるけど、リビングも広いし……。いやぁ、合宿って響きがいいね!」
結月が張り切っているのを見て、俺は少し安心する。これなら何とか勉強のペースを維持できそうだ。午後の授業が始まる前、再び小早川先生がホームルームの席に来て強調する。
「みんな、試験勉強は計画的にやってね。点数があまりに低いと補習もあるから気をつけて。特に前回の小テストが振るわなかった人は、早めに対策しておくように!」
その視線が一瞬俺のほうを向いた気がする。内心で「ひぃ……!」と冷や汗が伝う。クラスの半分は「めんどくさいな~」と気の抜けた反応だが、中にはガリ勉気質の生徒もいて「よし、きっちり勉強しなくちゃ!」と燃えている。結月もそのタイプに近いし、翔も勉強ができないわけじゃなさそう。
(私だけ……本当にヤバい。なんとかしないと……)
放課後、さっそく結月が「うちの家族に言っとくから、日程を決めよう!」と張り切り始める。一方翔は「オレが苦手なのは英語だし、教え合いすればいいんじゃね?」と気楽な調子。短期集中で一気に取り戻すしかない。俺は内心、「これで赤点だけは回避したい!」と願いを込めながら二人に頭を下げる。
「ありがとう、二人とも……! 助かるよ。絶対に今回のテストは乗り切るから!」
「うん、まかせて! 私も美玲ちゃんの力になりたいしね」
「まぁ、合宿ってほどではないが、せっかくやるなら真面目にやろうぜ。遊びは後だ!」
数十分後、3人は空き教室に机を寄せ合い、短期合宿に先立って勉強会を開いていた。まずは学校内でざっと要点を洗い出そうと決めたのだ。
「まずは数学だね。ここ、公式の応用問題……って、翔は余裕そうだね」
結月が問題集を広げ、さらりと解説しながら翔に問いかける。翔は斜めに椅子を傾け、ペンをくるくる回している。
「ああ、基本は分かるよ。ただ、英語はちょい苦手だから、そっちはよろしく」
一方、俺はそれどころじゃない。数字と文字がぐちゃぐちゃに入り混じった式を前に、思考が停止しそうだ。
「うーん、分かってたはずの公式が全然出てこない……。何でこんなに思い出せないんだよ……」
――もちろん前世の話は口に出せないが、とにかく知識がすっぽ抜けている感覚が拭えない。そうこうしているうちに結月が心配そうな顔を覗かせる。
「美玲ちゃん、またボーッとしてるよ? ここ、〇〇+〇〇=〇〇……って覚えて……」
「わ、わかった。とにかく暗記するしかないね……」
俺たちは勉強の基礎固めを進めていた。
「こんな時間にまだ残って勉強……あなたたち、意外と真面目なのね」
突然、扉のほうから聞き慣れた声が響く。スラリと立ち尽くすのは西園寺麗華。相変わらず上品な立ち姿と、どこか高飛車な雰囲気を漂わせつつ、ジロリとこちらを眺めている。
「西園寺さん……どうしたの、こんなところに?」
結月が首をかしげると、麗華は少し驚いたように眉を上げる。
「ここは私がいつも自習に使ってる空き教室なの。そしたらあなたたちが先客で。……美玲さん、随分と焦って勉強してるみたいじゃない?」
上品な笑みの裏に隠されたライバル心を感じつつ、俺は思わず肩をすくめる。正直、今は張り合うどころじゃないのだが……。しばし沈黙があったあと、麗華は視線を問題集に落とす。
「ねぇ、何をそんなに苦戦してるの? もし分からないところがあるなら……教えてあげてもいいけど?」
「え……? それって、どういう風の吹き回し?」
翔がやや驚いた表情を見せる。確かに普段の麗華なら、美玲に対しては競争意識丸出しで、わざわざ勉強を教えるなんて想像しづらい。しかし、麗華はフッと笑って言葉を続ける。
「何だかんだ言って、私もクラスメイトが点数が悪すぎると全体の評判に関わるし……。それに、ちゃんと勝負したいのよ。――試験であんまり差が開いちゃつまらないでしょ?」
変なプライドの現れだけど、助けてくれるならありがたい……と内心思う。
(それなら素直に甘えさせてもらおうかな……今の私には時間がないし……)
「じゃあ、早速なんだけど……この因数分解の応用問題、どうやって考えるの?」
結月がプリントを麗華に示すと、麗華はさらりと目を通して「ふん、こんなの基礎ができてれば簡単よ」とあっさり言い放つ。
「〇+〇+〇も分解できるでしょ?ここでは公式を少し変形して――」
と、口早に手順を説明し始める。思った以上に分かりやすい。
「へぇ、意外と上手に教えるんだな」
翔が感心しながらノートをとっている。すると麗華は得意げに鼻を鳴らす。
「意外とは失礼ね。私、普段は人に教えることなんて興味なかったけど、意外と嫌いじゃないみたいだわ。――で、あなたはどう?」
そう言って振り返った麗華の視線は俺に注がれている。今の説明をちゃんと理解できたか、ということだろう。しかし――申し訳ないけど、俺は問題集をにらんだまま、謎の式変形をまったく追いきれていない。
「あ、あれ……こう……で、こう……ん? あぁー? いや、もうわけわかんない……」
必死に食らいつこうとしているのに、どうも頭の中で情報が散らばってしまう。数式が一瞬で迷路になり、気づけば計算が破綻。結月や翔が呆気に取られるなか、麗華の表情が一瞬凍りつく。
「ちょっと……何やってるの? 今ので分からないなんて……まさかあなた、本当にここまで出来が悪いの? 勝負以前の問題じゃない……?」
麗華の声には、本気の驚きが混じっている。これまで言い合いになることはあっても、彼女は美玲の学力についてそこまで深く見ていなかったのだろう。俺は顔を真っ赤にしながらうなだれる。
「ごめん……自分でも驚くほど物覚え悪くなってて……」
前世がどうとか説明できないし、ただ「この身体になってから頭が働かないんです」と言っても信じてもらえない。麗華はしばらく絶句したのち、深いため息をつく。
「ああもう……。もしあなたが赤点だらけじゃ仕方ないじゃない。正々堂々と勝負したいのに……こんなところでダメになるなんて面白くないわ」
どこまでも独自の価値観ではあるが、要は「赤点確定の相手に勝っても嬉しくない」ということか。ライバル心で燃える麗華にとっては、こんなに物覚えが悪い俺の姿は想定外なのだろう。
勉強会がひと段落し、夕方になってみんなが下校準備に移る頃、麗華はまだ呆然としたまま机に向かっていた。ちらりとこちらを向き、例の上品な笑みを作って言う。
「……分かった。もう少し整理すれば、あなたたちにも分かるようにまとめられるはず。今夜、私が徹底的に試験範囲をまとめておくわ。あなたたちは短期合宿とやらでも、そのプリントを使いなさい」
「え、本当? そこまでしてくれるの?」
結月が驚いたように目を丸くする。麗華は小さく鼻を鳴らして立ち上がる。
「別に、あなたたちのためじゃないわよ。『正々堂々と戦う』――それが私のモットーなの」
そう言い残し、彼女は資料を手に颯爽と教室を後にした。その背中からは「こんなに穴だらけの学力じゃ、勝負にならない……私が何とか引き上げてやる」という気迫すら感じられる。
その日の夜。
それぞれの家に帰った後、俺は教科書や問題集をベッドに広げて頭を抱え、「これ、本当に間に合うのかな……」と弱音を漏らしながらも、なんとか勉強を進めていた。
一方、西園寺麗華は自室のデスクにびっしりと科目ごとのノートや資料を並べ、黙々と要点の整理をしていた。
「あの子、ここまでとは……」と唸りつつも、持ち前のプライドが彼女を奮い立たせる。「どうせなら完璧にまとめて、あいつらを感心させてやるわ」と、深夜まで筆を走らせるのだった。