禁足地の謎(4)ー1
時間は午後の3時を少し過ぎた頃だった。柿谷屋敷の瓦屋根が、夏の日差しを照り返して、さながら銀鱗で輝く海のようだった。敷地内の林や裏山からは蝉の大合唱が絶え間なく聴こえてくる。
トリミングサロン『JUB』から戻って来た沙奈と利都は、敷地の風通しを良くするために開けっ放しにされている長屋門の門を潜って、直接晴久の部屋を訪ねた。
しかし、襖の向こうには人がいるような気配は感じられなかった。
台所ではすでに夕飯の下拵えが始まっていて、柿谷担当のハウスキーパー2人と大屋トウコのほかに、親戚筋の年配女性1人が談笑しながら作業していた。
トウコの住まいはこの地区にはない。近々、夫の転勤に合わせて県外へ引っ越す為、新興住宅地内のアパートを仮住まいしているのだ。2人のハウスキーパーはトウコの仕事を引き継ぐ為に今日から柿谷入りしていた。
沙奈と利都に「こんにちは」と挨拶すると、少女2人もこの新しいハウスキーパーに笑顔で応じていた。
街で育った沙奈の反応は予想できたが、少し高飛車な面のあった利都までが笑顔を返すとは思わなかったトウコは、驚きの表情を見せた。年配女性に窘められたが、それだけ利都が変化したということだ。
「トウコさん、晴久おじさんはまだお仕事ですか」
本家に到着してすぐにトウコを困らせたことをすっかり忘れた沙奈が、廊下から台所に顔を出して訊ねた。
「今日一日仕事だぁいうて聞いとりますけぇ、帰られるんは夕方だぁ思いますよ」
「そっかぁ。りっちゃん、おじさん帰ってくるの夕方だって」
すぐ後ろに立っている利都に伝えると、
「どうせ、帰ってきてからも仕事の残りを片づけるとか言ってなかなか会えないのよね」
肩を落として呟く利都に、
「じゃあ突撃しちゃお」
沙奈は親指を立ててニヤリと笑った。
台所では遠慮のない沙奈をトウコがなんとも言えない表情でみつめていて、利都は半ば諦めたように、
「それしかないかなぁ」
と腕を組んで呟いた。
「りっちゃん。砂輝さんのスタイリングを受けるには晴久おじさんの許可がいるんだよ」
「そうだったわね。頑張んなきゃ」
「おじさんが帰ってくるまで離れ家であそぶ?」
「いやよ。エアコンのない部屋なんか行きたくない。……まぁ、アキくんが来るっていうなら行かなくもない、かな」
「アキは来ないよ」
「じゃあ行かない!」
きっぱりと言いきって自分の部屋へ戻っていく利都を、
(アキが来たら涼しくなるってこと? りっちゃんにはアキの隠れた能力がわかるのかな、さすが本家だ)
的外れの羨望を向けて見送った沙奈は、近道にもなる台所の勝手口から庭の離れ家へ戻った。
その頃、同じ敷地内に建つ老松御殿では、アキが老松に洗濯狐との一件を伝えているところだった。
老松は自身が守る土地での出来事に関しては、その場にいなくともおおよそ感知することができた。だが詳細までは把握しきれないため、ときにはそこで暮らす妖怪やアヤカシなどに報告させることもあった。
今回はその役目をアキが担ったというわけだ。
「さっき廊下ですれ違ったのって、だれ?」
いつものように東玄関から戻ったアキは、見慣れないアヤカシとすれ違っていた。
「アヤカシなのかな、あれ」
菅笠に紋付羽織、野袴と草鞋という時代がかった衣装に身を包んだ連中だった。藍染の羽織に染め抜かれた松の紋は確かに老松のもので、そんな彼らを自分が知らないというのがアキには訝しいのだ。
「いずれアキには話しておかねばならないことだが、今はまだ早かろう。気にしなくてもいい」
老松は上段の間で脇息に身体を預けて寛いでいた。すべての腰高障子を開け放しているためか、林を抜けて吹く風が心地よく屋敷の中を通り過ぎていく。
「砂輝は他所から移ってきた際に酷いケガを負っておってな。それが獣によるものなのか、人間によるものなのか、口にすることはなかった。人間との境界辺りで生きる妖怪にも関わらず、砂輝は山に籠りっきりになってしまったが、そうか。砂輝の倅は人間との関りを求めているのか、面白いものだ」
「それで沙奈の提案で人間の最初の客として利都が髪を切ってもらうことになったんだけど、一応当主の許しをもらえって言われて、今もらいに行ってるところです」
「砂輝としては柿谷の当主につっぱねてもらおうという魂胆なんだろうが、晴久はこれまでの当主とはいささか違うからな。砂輝の思惑通りには運ぶまい」
ゆったりとした口調でふふっと目を細めて笑う老松に、
「最近の老松さまはなんだか楽しそうですね」
「そうか、そう見えるか」
「それなら昔みたいに山や川を見回ったりできますね」
「……それは無理だろうな」
老松の表情に翳りが滲み始めた。脇息に預けていた身体を起こすと、視線を庭へ向けた。
「前の当主は儀式以外で御殿に足を運ぶことなんてなかったけど、今の当主はよく廊下を渡ってくるのを俺は知ってます。夕べだって2人で酒盛りしてたの、気づいてるんですからね」
「晴久が持ってくる酒が美味いのだから仕方なかろう。わざわざ廊下を渡ってくるんだ、無下に追い返すわけにもいくまい」
「ちぇ、なんで老松さまは引き篭もりになっちまったんだろうなぁ」
「御殿から出ずとも土地のことはわかるからいいのだよ。それよりアキよ」
「はい、老松さま」
「倅が言うことももっともだが、必要以上にアヤカシと人間が関わることもあるまい。人には人の領分、アヤカシにはアヤカシの領分がある。そこを間違えぬように人間との関わりは柿谷の者だけにせよと伝えておけ。この土地を不用意に荒らされたくはない」
ぽつりと最後に漏らした言葉の意味が、アキにはわからなかった。
「わかったな、アキ」
念を押されたアキは、姿勢を正して「今から山へ走ってきます」と応じると、子狐の姿に戻って部屋を辞去した。
「アキの足でも戻って来れるのは夕刻か」
老松は上段の間をすっと立ち上がり、縁側へと向かった。鬱蒼と茂る林の中は暗く見通せない。それでも賑やかな蝉の鳴き声が生命の力強さを詠っている。
御殿から出ようとしない老松を不思議がるアキの顔を思い浮かべながら、ほんの少し傾き始めた日差しが見せる陰の揺らぎを眺めていた老松の背後に、音もなく何者かが現れた。
室内だというのに被った菅笠を脱ぎもせず、ただ静かにこうべを垂れた。
「ご報告申し上げます。アヤカシの類いが侵入した形跡はございませんでしたが、どうやら山菜取りに山へ入った街の者が誤って迷い込んだようにございます」
「土地の者ならば近づかぬ場所だからな。結界が破られたわけではないようで安堵した」
「ただこちらは土地神の禁足地『記憶の書庫』に限ったことにございます。僭越ながらもうひとつの禁足地は老松様のみが承知の場所でございますので、そちらの様子ばかりはわかり兼ねます」
菅笠の応答に老松が大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。顔をわずかに後ろへ向けて菅笠をちらりと見やり、
「影よ、あれには特別な結界を施している。心配には及ばん」
「分を弁えず申し訳ございませんでした」
影と呼ばれた菅笠は平伏して謝った。
「おお、そうだ」
思い出したように老松が声を上げた。
「アキがお前たちを見かけたようだぞ。ワシの後継の前に姿を曝してよいとは言っておらなんだが、何故だろうな」
空気をびりびりと震わせるような怒気を含んだ声音だ。影と呼ばれた菅笠のアヤカシは畳に額を擦りつけるようにして、申し訳ございませんと声を絞り出した。
あれに近づいた者の記憶は結界を抜け出た瞬間に消えてしまう。ほんの些細な託宣だが享受するといい。
気配の消えた御殿の縁に立つ老松は、なにごとかを祈るような顔で、木々の合間に見える暮れかけた茜と群青の空を見上げた。




