2柱の土地神<2>
(2)
山深い森の奥に小さな社がぽつんと立っていた。獣道と見間違えてしまいそうな、人ひとりくらいしか進めない隘路がくねくねと社へと走っている。
一陣の風が、夜明け前の藍色の世界を駆け抜けて社の中へ飛び込んだ。
勢いよく扉が開くと同時に異空間に繋がり、つむじ風はさらにその中へと吹き抜けていく。
「……」
丸まって眠っていた白蛇の全身を、飛び込んできたつむじ風が速度を落としてそっと撫でた。
「……いちる婆ちゃん?」
眠そうに瞼を押し上げた白露が、自分を囲むように旋回する風に問いかけた。しかし風は応じることもなく、そのうち力を弱めて消えた。
「まさか、いちる婆ちゃん、そんな、だってまだ……後継を連れてきてくれていないじゃない」
がばっと飛び起きた白露は居ても立っても居られず社を飛び出すと、いちるたち家族が暮らす集落まで一気に駆け下りた。
朝露で全身がびっしょりと濡れた白露が麓の集落にたどり着いたとき、ようやく空が白み始める頃だった。
いちるの気配を頼りに道端やあぜ道を走り、田んぼを抜けた小高い場所にその家をみつけた。
積まれた薪の陰からこっそりと様子を窺うと、なにやら家の中を慌ただしく人が動き回っている音が聞こえてくる。そのうち玄関から若い女が姿を見せるとほかの家々を訪ね歩いていた。
すっかり夜は明けて、集落中の人間がいちるの家に集まり始め、昼のうちには白露が見たこともない変わった衣服の初老の男まで現れると、家の中から奇妙な歌のようなものが聞こえ始めた。
「お祭りでもしているの?」
しかし祭のような派手さやにぎやかさはない。大きな不安がずしりと白露の胸にのしかかってくる。
白露はみつからないようにいちるの家へ忍び込むと、天井の梁の上から部屋の中を見下ろした。
そこには静かに横たわるいちるの姿があった。
「やっぱり別れを告げに来てくれたんだ」
白露の赤い瞳が部屋にいる人間を見渡したが、その誰とも縁が繋がっていないことがわかった。
それでも、と一縷の望みを胸に部屋に降りて姿を見せてみた。
しかし誰もこの白蛇に気づく者はいなかった。
白露の頭上やすぐ脇をどたどたとお構いなしに歩いていく。
「あなたはわかるのね」
母親の腕に抱かれた赤子の目だけが、白露の姿をしっかりと捉えていた。
「婆ちゃんがなんか言いかけてたけど、なんのこと?」
「ほら、あれじゃない? 山腹のお社のこと」
「ああ、お社ね。なんのご利益があるのか知ってる?」
「知らない。それにあの山はこの間売れたってテルヲ伯父さんが言ってたじゃない」
「結局そのことおばあちゃんには内緒にしてたんでしょ? テルヲ伯父さんも悪どいよね」
いちるの子や孫たちが話す内容などなにひとつわからない白露は、もはや動かなくなってしまったいちる婆ちゃんに向けて頭を垂れると、煙のようにその場から消えたのだった。
一日と開けず老松のもとへ訪れていた白露が姿を見せなくなってずいぶんと日が経った。
ある日、地鳴りと轟音で目覚めた老松が社を出てみると、音は白露の土地辺りから聞こえてくるようで、訝りながら姿を狐に変えて山奥へと走った。
よく知る山道を駆け抜けて谷と丘を越えて白露の社を目指した老松の眼前に、信じられない光景が広がっていた。
すべての木々が伐採され、山肌はその赤土を太陽の下に晒していた。見たこともない大型の機械が轟音を上げながら掘削していく。土を崩し木々を切り倒すたびに轟音と地鳴りが響いた。
山々にこだまするチェーンソーの甲高いエンジン音はまるで古木の悲鳴のように聞こえる。
「これはどういうことだ」
老松は周囲を見渡したがあるはずの社はどこにもない。山の形が変わり過ぎていて白露の社がどこにあったのかも見当がつかなかった。
崖上にいる老松に気づいた人間が、なにごとか言いながらこちらを指さしてきた。あまりの忌々しさに老松は唸り声をあげたが重機の音に消されて届かない。
くるりと踵を返して白露を探すことにした老松は、とっぷりと日が暮れるまで山中を駆けずり回った。
「どこにおるのだ、露」
途方に暮れた老松が、木々の合間から覗く星空を見上げてぼそりと呟いた。
その時だった。
微かだがよく知る声が聞こえた。弱々しく老松を呼ぶ声に、
「どこだ、どこにおる。姿を見せてくれ」
老松は必死に叫んだ。
「老松、あたしはここ」
白露の声は近くの木の洞から聞こえてきた。覗くと鱗がぼろぼろと剥がれ落ちた悲惨な姿の白蛇が、少しだけ頭を持ち上げている。紅い目は虚ろに夜空を映していた。
「白露、ここだったか」
老松はひとの姿になって手を伸ばし、洞の中から白蛇を取り出した。
絹でも持ち上げているのかと思うくらいに白露は軽く、鱗の剥がれた躰は痛々しく透けていた。
「社はどうした」
「……壊された」
「いちるは」
「いちる婆ちゃんが死んだの」
「……」
いちるが死んだという言葉ですべてを理解した。あの山の惨状も、引き金はいちるの死なのだろう。
後継もなく、守り人の一族からの信仰心がなくなった土地神に姿を保つ力はない。
「ワシが土地神を務めてやろう」
「……そうね、守り人がいなくなったあたしにはもう土地神の力はないものね」
「いちるが憎いか? いちるの子らを恨めしく思うか」
「思わない。あたしを呼ぶいちる婆ちゃんの声も、あたしを撫でてくれるいちる婆ちゃんの少し冷たい手もみんな大好きだもの。きっとなにか理由があったのよ、あたしにはわからない理由が」
「それならワシがここら一帯をまとめて守ってみるか」
そっと白露を懐の中へ入れて、慈しむように抱えた。
「老松とはずっといっしょにいられると思っていたのに、寂しいね」
「ワシもだ」
「あのね、老松。あたしね、老松のこと好いていたのよ。わからなかったでしょ」
「知っておったぞ。おまえ、ワシを餌付けしようとしていたからな」
「いやだ、ばれていたの」
「白露よ、ワシもいずれ後継ができてこの世を去るときがくる。だから来世では夫婦となって添い遂げようぞ」
薄く白い靄のようになっている白露に老松は言った。
懐の中で紅い瞳がきらりと光り、そうねと応じた白露はそのまま老松の中へと吸い込まれるようにして消えた。
老松は白露を吸収することで彼女が持つ土地神の印を引き継いだのだった。
老松の脳裏には、初めて土地神になったときの光景が浮かんでいた。
灰色の狼が言っていた、
「信仰を失うとこうなるぞ」
若い頃の老松には死にぞこないの戯言程度の言葉が、白露を失って初めて信仰を失うことへの恐れを感じた。
消えるわけにはいかない。ここには白露がいるのだから、と老松は掻き毟るように胸を抑えて唸った。