狐狸ん堂の設立<10>
山間部の早朝は春とはいえ肌寒い。それでも竹林の中を抜ける風には春特有の丸みのある柔らかさがあり、開き始めた花々の芳香を伴って少女の髪を弄っていく。
「アキ」
沙奈は大人たちに聞かれないように小声で叫んだ。少しして老松御殿の方から草を踏みしめる足音が聞こえてきた。
(あ、この足音は男の子の姿だ)
沙奈が想像した通り、走って来たのは少年の姿をしたアキだった。薄靄がかかる竹林の中に朝陽がひと筋射し込んでいるその中を、右手を振りながら老松の後継が走ってくる。
「沙奈っ」
「おはよう、アキ」
「今日、下に帰るんだよな」
「うん、でもね。また来るよ。晴久おじさんが夏休みに遊びにおいでって言ってくれたんだ」
「へぇ、今度の当主は気の利いたことを言うんだな」
そう言ったアキは御殿の方を気にしながら、なにか話そうとしては黙り込むということを数回繰り返した。
「どうしたの?」
「うん、あのさ。老松さまが沙奈を呼んでるんだけど、もう出発するんなら無理にとは言わない」
「なんだ、そんなこと。出発するのは朝ごはんを食べてからだからだいじょうぶだよ。行こ、アキ」
「狐狸ん堂のことをなんでだか老松さまが知っててさ。たぶんそのことだと思う。守り人以外の人間に興味を示すなんてことなかったから、正直びっくりしてる」
差し出された沙奈の手を握ったアキは、首を傾げながら竹林を進んだ。
御殿に着くと、沙奈がはじめて顔を合わせた東側玄関の階段上に老松は立っていて、穏やかな笑みを湛えて2人を待っていた。
晴久と同じ着物姿だった。黒地に沙綾形文様の着流しは長身の老松に良く似合っていた。
「やっと連れてきたな、アキ」
呆れているとも安堵しているとも取れる声音で老松は言った。
「だって」
口吻を尖らせたアキはそのまま口の中でモゴモゴと何ごとか言い訳じみたことを呟いた。
「おはようございます。老松さま」
たたっと軽やかに走った沙奈は階段の下から老松を見上げて挨拶をした。
「今日、家に戻ると聞いた」
「はい、朝ごはんを食べたらうちに帰ります。あ、でも夏休みになったら遊びにくるので、また会えるといいですね」
目の前で話をしている相手が土地神であるのだから、簡単に会ったり話したりなどできないことは沙奈も理解していた。会えたらいいなあと、そんな希望を込めた言葉だった。
「そうか、夏休みにな……。アキ、夏休みとはなんだ」
「俺に聞かれても」
「1年の中で一番長い休み、っていう説明であってるのかな」
「去年、利都が夏の間に学校に行かなかったときがあったけど、それと同じか?」
「そうそう、りっちゃんはわたしよりひとつ上だから去年夏休みを経験しているんだったね」
「利都とは年が近いのか。名しか知らん娘だが、同じ柿谷の血筋だ。仲良くするといい」
ふわりと微笑んだ老松に見惚れた沙奈は返事を忘れて、ぽかんと口を開けていた。アキに肘で小突かれてようやく自分の間抜けな顔に気づくと、
「もちろんです! 今回はお葬式で来ただけでりっちゃんともあんまり遊べなかったから、夏は一日中遊びまくります!」
「狐狸ん堂も頑張るといい。困っているアヤカシや土地のケモノたちをよしなにな」
東玄関の階段をゆっくりと下りてきた老松が右手を沙奈へと伸ばし、小さな頭をやさしく撫でた。
愛情深いその仕草をアキは驚いた顔でみつめ、当の沙奈は、「えへへ」と照れくさそうに笑って応じていた。
倫久一家の見送りに、本家の人間が勢ぞろいした。長屋門の前にずらりと並び、手伝いに来ていただけの近在の親戚達でさえ腰を折ってお辞儀していた。
にこにこと終始笑顔の晴久の横には、付き合わされて不機嫌になっている利久と、
「夏休みも来るんだってね。いいわ、くわしい話はそのときにしましょ」
「りっちゃん、いっぱい、いーっぱい遊ぼうね!」
なにやら思うところがある利都と、今からもう夏休みが楽しみで仕方ない沙奈の嚙み合わないやり取りが繰り広げられていた。
駐車場まで徒歩で向かい、車に乗り込もうとしたところで沙奈の視界にアキとチカの姿が飛び込んできた。老松御殿の御城門の前で手を振っている。
2人の名前を叫びそうになったが沙奈は我慢した。
(夏休みになったら、2人に負けないように狐狸ん堂をがんばるぞ!)
両親にはわからないように胸の前で小さく手を振って応えた。
春の日差しが沙奈の顔にまばゆく光を落としていた。




