06.記憶
私は幼い頃から、ずっと祖母と暮らしてきた。両親のことは顔も知らない。
祖母以外に親戚を見かけたこともなければ、祖母の口から親族の話を聞いたということもない。
祖母の名前は奈良原紗世。
杏ちゃんが持ってきた本の著者と一文字違いということから推測できるのは、この本の著者が私の親戚筋の人なのではないかということ。可能性は高いと思う。
本の刊行は今から四十年ほど前となっていた。
私の知らない、奈良原家のことがわかるかもしれない。
でもそれって、鬼姫と龍神の伝説と何か関係があるのだろうか?
私の名前と同じ赤鬼の一族の姫。そんな私をどういうわけか嫌っている様子の石神神社の一人娘。
鬼姫伝説についての資料を書き残した奈良原姓の人間。
偶然にしてはどこか奇妙な、点と点。線に出来てしまいそうな気がする。
奈良原家については、私は祖母に昔から言い聞かせられていた。話を振ると優しく笑って、
「良いんだよ。おばあちゃんは、あなたを守るために生まれてきたんだからね」
そう言っていた。単純にはぐらかされたようにも感じるし、この言葉の意味が何か特別重いような気がして、小学生になった頃には祖母に対して親族の話を聞くことはなくなった。
だから、きっと祖母は私に何かを隠している。それだけはわかるのだけれど、それが祖母の優しさからくるものだと肌で感じてしまっているから、深く聞くことはもう何年も躊躇っていた。
そういえば、センさんも同時期に知り合った不思議な人である。
何でこの場に一緒にいるのかは詳しいところまで知らないけれど、どこかの一族の資料を探していると言っていた。
繋がる話ではないだろうが、彼に二回目会ったとき、私に対して記憶がどうということを言っていた。
私の忘れている何かがあって、それを彼は知っているというのだろうか。
いくつもの交差してがんじがらめになった私の知らない話。きっと、そう遠くないうちに私はこの全てにおいて答えを知らなくてはいけなくなる。そんな予感があった。
杏ちゃんが本を開きながら言う。
「ほら、うちの班ひかりちゃんいるじゃん?だからどうしても龍神寄りの話に偏ってしまうと思ってね。比較するために鬼の姫様の記録もまとめておいた方が学習としては成り立つかなと思ったわけよ」
それで選んできたのが、この本。奈良原紗枝が執筆した、「姫の守り手」というタイトルの、古そうなハードカバーの分厚い本だった。
「失礼。僕が探していたのはその本です。良かったら一緒に本の内容を拝聴してもよろしいですか?」
背後からヌッと影がさしたかと思えば、センさんが興味深そうに話しかけてきた。
「あ、良いですよー。私たちのペースで読んじゃうんで、もし聞きとれなかったり詳細を知りたいとかあったらこのあとご自分で借りて読んでくださいね」
杏ちゃんは人見知りというものとは無縁の性格のようで、センさんに普通に承諾の意を告げていた。
すごいな。男の人と関わることが今まで少なかったから、私はセンさんに話しかけられるととても緊張するのだけれど。
杏ちゃんが表紙を開く。薄く黄ばんだページをいくつか捲っていくと、杏ちゃんの手が止まった。
「この書籍を読んでいる、未来の人たちへ。まずは私という奈良原家の生き残りの話から始めることにしましょう」
杏ちゃんの声で読み上げられるそれに、私もセンさんも静かに耳を傾ける。
──奈良原家というのは、この周辺では名家として、石神神社の石神家と肩を並べる存在でした。石神神社には龍神様を、そして奈良原家では、滝壺に落ちて亡くなったと思われていた鬼姫様を、お守りしてきたのです。
「え、鬼の姫様って民話の中では滝壺で死んだことになってたよね」
杏ちゃんの疑問に対してセンさんが口を開く。
「いや、民話の中では滝壺に落ちた後の姫の記述はなかったはずです。おそらく意図的に、みんなに死んだと思い込ませるために、滝壺に落ちたところで姫のその後を書かなかったのでしょう」
腑に落ちたようで、杏ちゃんは続きを読む。
──姫様は、赤鬼の一族でありながら、この集落の人間に対してとても優しく接しておられました。人の命は儚く尊いものと知り、人間たちを大事にしてこられたと、奈良原家に伝わる書物にはそう記録が残っておりました。
龍神様も同じように、集落の人間に崇められる大切な神様でございました。石神家の者は龍神様のお姿を拝見できた者もいたと記録されており、それが見目麗しい深く青い水底のような色の髪と瞳をお持ちの男の姿をしていたと伝え聞いております。
深く、青い水底のような瞳。
髪は黒いけれど、まるでセンさんのような──そう思って横目でセンさんを見やれば、カチリと視線がぶつかった。
──滝壺に落ちた姫様を最初に掬い上げたのは、龍神様でございました。しかし掬い上げたその時にはもう、姫様はその身体を保っておりませんでした。
手のひらより少しばかり大きい、卵の形となって、水底で光り輝いていたのを龍神様が見つけたのです。姫様は、以前より生まれ変わったら人間になりたいとおっしゃっていたようです。
だから、卵の形となって、またいくつかの年月を経て、人として生まれ変わろうとしているのだろうと、龍神様はそうおっしゃったそうです。
果たしていつお生まれになるのか、誰にもわかりませんでした。
龍神様は、姫様が以前懇意にしてくださっていた、我ら奈良原家の者に卵を守る役目をお与えになりました。卵は、かつての赤鬼の一族の長に狙われていたからです。
長は、怨霊となって、滅んだ鬼の一族の集落の地に今もなお縛られております。
現代では一族の集落跡には強力な結界で封印された長の祠と、そしてとある施設が作られたようです。
土地の持ち主に再三その建造物について、建てることを辞めるよう言及しましたが、断固として聞く耳を持ちませんでした。
奈良原家が、卵の守り手。つまり、本のタイトルにある姫の守り手ということになる。
ここでなぜか、祖母の言葉が頭を過ぎる。
「私はあなたを守るために生まれてきたのだから」
あの言葉の真意が、もし姫の守り手の言葉だったとしたらどうだ。
朗読は続く。
──龍神様は、自らの持てる限りのチカラを使って、鬼の長の封印を試みました。しかしチカラにも限界がありました。龍神様は、五百年の猶予を作って下さいました。その間龍神様は滝壺近くの祠から出られません。姫様のことを想いながら、ずっと石神神社に祀られてきました。
そして奈良原家は龍神様の言いつけ通り、この集落で卵を守って参りました。村の者でこの守り手のことを知るのは、石神家と奈良原家のみです。他の誰にも知られることなく、ずっと孤独に姫様が生まれ変わるのを信じて、守って参りました。
しかし。私の代になり、日本は戦時下となり、集落から街という規模になったこの辺りでも、空襲の被害にあいました。奈良原家も運悪く、屋敷は全て焼けてしまったのです。
私は燃え盛る中、卵と出来る限りの書物を持ち出し、隣街へと居を移したのです。
その空襲で、姫様を守ることは出来ましたが、残念なことに私の両親を始めとする多くの親族を失うことになりました。
私は、息を飲んだ。もしかして、と自分の頭の中で立てている仮説が現実味を帯びてきた。
──隣街に移り住んでから、私は一人の男性と出会い、結婚し、子を成しました。子に、私は自らの守り手の運命を託しました。この本を書いている現在、私はもう余命幾ばくかというところにあります。
私の一人娘の代で、恐らく龍神様の封印が解けるのではという計算になります。
姫様がどうか、その時までに、お生まれになっていることをお祈りしております。
その一人娘というのが、まさか。まさか祖母だったとしたら。
祖母だったとしたなら、私は──私は、誰から生まれた?何から生まれたというのだ?
思い出してはいけない禁忌の扉に手をかけている。もうすぐそこに、私という人間の──あるいは人ならざる者の、記憶があるような気がしている。
思い出すのがとても怖い。私は自分が何者なのかを、知りたくないのだ。