4-7 夢の終わりと、(前編)
私には、夢というものがよく分からなかった。
母上が命と引き換えに私を産んでくれたから、その分まで生きようとは思っていた。
父上の喜ぶ顔が見たいから、血のにじむような修行にも励めた。
姫様に振り回される日々が心の底から楽しくて、それで十分満足していた。
私はいつだって目の前のことだけで精一杯だったし、そんな自分を疑問に思うことすらなかった。
だけどあるとき、そんな拙者にも夢ができた。
『こんな小さな城で政略結婚に使われて終わるなんて、まっぴらごめんよ! だから宵断流を、真の侍を大陸中に広めてこの大陸に名を遺すの! きっといつか教科書にだって私たちの名前が載るわ! それって素敵だと思わない?』
『わた……拙者は正直、よく分かりません。後の世になにかを遺したって、今の拙者たちにその価値は測れないし……』
『でも今の貴方を遺してくれたのは貴方の両親なんでしょう? 貴方のお父さんとお母さんだって、言ってみればユウヒ・ヨイダチという存在を通じて自分たちの生きた証を後の世に遺そうとしてたのよ』
『それは……』
『ねぇユウヒ。私が戦国絵巻や歌舞伎、それに侍が好きな理由は色々あるけど……結局はそういうことだと思うの。自分がいなくなってからも生きた証が、”魂”がそこに遺って、遠い未来で遠い誰かがそれに憧れて、そしてまた受け継がれていく……私はね、私の好きな物から学んだの。人の命は、それがどんなに偉大な人でもどんなに強くても結局は短くて儚いものなんだって……だけど、魂は消えない。ううん、むしろ憧れが憧れを呼んで、それが果てしなく続けば、いつかこのおーっきな大陸すら動かすかもしれないのよ! それって最高に浪漫じゃない!』
『浪漫……?』
『そう。私はね、その果てしなく大きくなっていく流れを想像すると、とってもドキドキしてくるの! だから私は絶対に後世に名を遺したいし……ユウヒ、誰よりも”受け継いできた”貴方となら、きっとそれができるはず」
『誰よりも、受け継いできた……拙者が……』
『不躾な話かもしれないけど、貴方はもう受け継ぐことの大切さを知っているんじゃないかしら?』
『……拙者はやはり学がないので、そんなに難しいことは分かりません。でも……拙者は父も母も立派な人だったと尊敬しております。この想いが、両親の歩みが、いつかの未来に遺るというなら……確かに、素敵なことかもしれませんね』
そうだ、だから拙者は。
『ならば姫様、拙者はここに誓いましょう。拙者はこの命を懸けて姫様の刃となり、貴方の夢を叶えるために戦い続けることを』
『あら。夢を見てるのは、私だけ?』
『え、いや、それは……』
『じー……』
『う……あの、ご無礼かもしれませんが……姫様の夢は、拙者の夢も当然です。だから、その、姫様が良ければ、一緒に夢を叶えたい、と……』
『もうっ。いいもなにも、最初からそのつもりだったわ! ユウヒ、貴方は真面目過ぎるし空気も読めない、そんなところがまだまだね!』
『ええっ!? いや真面目はともかく、空気読めないのはむしろ姫様の……』
『黙らっしゃい! 貴方が私の夢を叶える。その代わり、私が貴方の夢を叶える! それが1番かっこいい主従ってものでしょう! だからね――』
姫様との思い出は全部、全部覚えている。覚えているはずだった。覚えていたかったのに。
姫様が死んだあの日から、私は未だに夢の続きを思いだせない。
◇■◇
白刃が断ち斬り、黒血が噴き出した。
その胸に刻まれた傷も、噴き出した血の量も、はっきりと致命傷を示しているはずだった。それでもなお、エグニダは血飛沫の向こうから、右手を固く握りしめて折れた大剣を振るってくる。
「やはり居合か! だろうな! 護るべきものもないのに、守護剣術は使えんよなぁ!」
受けた傷ゆえにその動きは緩慢で、だからアカツキは血飛沫を浴びながらもあっさりとその場を飛び退いて一撃をかわした。
しかしエグニダは退いたアカツキに構わず、大口を開けて――空に吠える。
「うおぉぉぉぉぉ!!」
すると胸の傷……ぱっくり斬られた鎧の隙間から、赤黒い肉塊がぼこぼこと沸きだした。まるでお湯が沸騰するように膨れ上がり、弾けて、縮み、やがて肉塊は鎧の隙間をびっちりと覆った。
すでに胸の……そして先に斬られた左腕の出血もまた、完全に止まっていた。
「面妖な……」
「くくっ。少年の暴走はその身から炎を溢れさせたが……まぁこれも暴走の一種と言えよう。最も、ここまでしたからには俺の寿命はあと1時間ももたないだろう……が、ふっ……!」
止血の代償というように、エグニダの口から黒い血がどろりと零れた。
「だが……それだけあれば、十分だ……」
その言葉と共に、エグニダは右手から大剣を滑り落とした。そうして空いた右手を、今度は腰へと伸ばす。よく見れば鎧の腰部分には薄っぺらい鞄が紐で縛られ留められていた。
その鞄はまるで書類でも入れるのに使うような、黒鎧にはまったくそぐわないような代物であった。
(なにをする気だ? いや、いずれにせよ斬るだけだ)
アカツキは勘繰り、しかし迷わずに再び腰を落とす。
しかしエグニダは逃げる素振りを見せず、鞄を腰から強引に引きちぎると、鞄を閉めていたボタンを右手だけで弾いて開く。
アカツキが姿勢を整えて、駆け出す。
エグニダが開いた鞄を逆さまに掲げた。鞄からずるりとなにかが落ちてくる。
すでにアカツキはエグニダを居合の範囲内に捉えている。あとは柄を握り、剣を抜く。それだけで、
ぶわぁ! だだっ広い甲板を、一陣の風が流れていった。
続いてばさばさっ、といくつもの音を立てて、沢山の紙が空へと舞い散った。その1枚1枚に多くの文字が書かれ、あるいは写真が貼られたその紙は、しかしすぐ風に巻かれて、甲板を離れて、果てしない青空へとあっという間に散っていった。
「――女侍。お前ほどの剣士なら、今の一瞬でもおおよそ捉えられただろう?」
それらの紙は、エグニダが掲げた鞄の中から出てきたものだった。そして、その紙に書かれていたものとは。
「お前の主君の死、その真相を……な」
アカツキはエグニダの目の前で刀の柄に手を添えながら、それでも目を見開き固まっていた。
エグニダは掲げた右手から、鞄をするりと落とした。
「お前は『締め上げて情報を吐かせる』と言ったが、もうその必要はない。なぜなら俺は、今からそれを教えてやるつもりなのだからな」
しかしその語り、あるいは騙りを拒絶するように、アカツキはすぅと目を細めて吐き捨てる。
「どうせ、いつもの戯れだろう」
アカツキは今度こそ、柄に手をかけて。
「俺を斬ったら嘘か真かも分からないぞ?」
「……!」
アカツキの頭の中にぶわりと沸いた。
『家臣』『神威』『密約』『目撃』『殺害』『濡れ衣』いくつもの単語が踊り狂う。姫様の、リョウラン家の家臣の、あるいは神威の幹部の顔写真がぐるぐると回っている。
「俺だってさすがに命懸けの大勝負で嘘をつけるほどの度胸はないさ。そもそもこの手の駆け引きには本物を使わねば意味もないし、そうでなくとも……お前の目から見て、あの資料が嘘に見えたか?」
いくつもの情報がちらつき、仮定が勝手に組み上げられて、思考がろくに纏まらない。その中で、エグニダの声だけが嫌に良く通っていた。
「やはり真相は知りたいよな。それがお前の生きる意味なんだよな。なぁ、ユウヒ・ヨイダチ?」
「っ……!」
アカツキは歯を噛んで、しかしそこから動くことはなかった。その一方でエグニダは空になった右手を大きく振り、気さくな表情を浮かべて、まるで友達にでも話しかけるような調子で言う。
「まぁそれは一旦置いといて、その前にちょっと昔話でも聞いてくれないか? どうせもうすぐ死ぬのだから、思い出話のひとつでもしておきたいんだよ」
「ふざけるな……!」
アカツキは敵意を吐き捨てたが、それに反して体は固まったままであった。そしてエグニダもそれが分かっているように、すでに互いの間で合意でも成されているかのように勝手に堂々と語り始める。あまつさえ、アカツキにその背を向けて。
「これはとある男の話なんだがな……その男は騎士の家に産まれ、主従の尊さを寝物語に育てられ、主君を護るための研鑽を続けることを日常としていた。だから男は必然的に夢を見たんだ。『最高の主君に仕え、その目的遂行のために命の全てを捧げたい』と。やがて男は騎士としてとある主君に仕え――そして人を殺した」
そこでエグニダは振り返って、アカツキを見た。彼女は柄に手をかけたままだった。それでもエグニダは生きている。生きているからその口は語り続ける。
「なぜかといえば理由は単純。そいつが主君の障害になる政敵だったからだ。そして男は主君に語った。『貴方の敵を排除しました。もちろん証拠も残しておりません』と……そう。男が、そして主君が黙っていれば全ては順風満帆にいくはずだったのだ。しかしあろうことか、主君は男を公の場へとつるし上げた。『騎士として許されないことをしたこの男を、領から永久追放する』という宣告と共にな。さて……ここで問題だ! 追放された男はこのあとどうしたと思う?」
問われたアカツキは、エグニダをじっと睨みつけたまま……やがて口を開き、答える。
「復讐のために主君を殺した、か」
その瞬間、エグニダはにぃっと口を裂くように大きく笑う。ニルヴェアに潰された右目は固く閉じたまま、真っ黒な瞳を宿す左目だけが弧を描いた。
果たしてエグニダはアカツキの答えに笑ったのか。あるいは、アカツキが答えたという事実そのものに笑ったのか。いずれにせよ彼は次の瞬間、高らかに声を上げて右腕を大きく広げる。
「そんなわけないだろう! 男は最高の主に仕えることを夢見ていたというのに、復讐などしてなんになる? そんなことは時間の無駄だ! ならば男はどうしたと思う? そう、とある犯罪組織に潜りこんで待ったのさ。善悪の彼岸などというつまらない一線を踏み越えて、ただ一直線に覇道を進む力と意志を持つ。そんな真なる王に出会える日を夢見て、ね……」
「それで最後には、その覇道とやらの捨て駒として終わるわけか。ずいぶんとつまらぬ人生だな」
「なにを言う! 人間という知的生命体と、単なる獣とを分けるもの。それこそが夢だ! 本能を凌駕するほどの大きな夢! そのために生きてこそ、初めて人間となれる! 王になりたいと願ったのなら、どんな手段を使ってでも王になってこそ! 忠義を貫きたいと願ったのなら、なにがあっても忠義を貫いてこそ、初めて人生は正しく完結するのだ! 俺も……そしてお前も!」
「ふざけるなっ! 拙者はお前とは違う……」
アカツキが、表情を変えた。
「もういい、今すぐ”真相”を話せ! 『姫様を殺したのが神威ではない』というのは――『真犯人がリョウラン家に仕える家臣のひとり』だと言うのは、本当か! それとも否か!?」
アカツキが叫び、問い詰め、しかしエグニダは顔色ひとつ変えず、逆に問い返す。
「その前にひとつ聞きたい。本当の仇を知ったとして、お前はどうするつもりなんだ?」
「決まっている! そいつを捕まえ、事件の真相を公にして、姫様の無念を――」
「もうこの世にいないやつの無念を晴らしてなんになる!?」
「っ!」
「まさか勝訴でも墓前に供えたら主人が墓から蘇ってお前を褒めてくれるとでも思っているのか!? お前の主人は『私の仇を討って』などと、墓の中から手紙でも出したのか!?」
「っ……殺して、やるっ……!」
アカツキは知らない。今自分がどんな顔をしているのか。
ニルヴェアにも、レイズにも、ブロードにも、父上にも、母上にも、そして姫様にも。誰にも見せたことのない顔をしていることに、アカツキは気づいていない。
「そうだ。真相なら元より私自身の手で見つけるつもりだった! 貴様は今、ここでぇ!」
「粛清したよ」
「は……?」
「だから、お前の主人を殺したリョウランの家臣は、もう神威が粛清したんだ。おめでとう、君の仇討ちはもう成されているんだ!」
エグニダは祝福でもするように、残された右腕を高らかと空に掲げてみせた。
その目の前でアカツキは……誰にも見せたことのない顔をしていた。
姫様の用心棒も、面倒くさい師匠も、頼もしき助っ人も、堂々と生きるナガレも、そこには誰もいなかった。
「そんな、たわごと」
「ならばお前の愛すべき主人が、リョウラン家の三女が殺された理由はなんだった? たしか資料にはそのあたりも書いてあったはずだが?」
アカツキは半ば無意識のうちに思い出して、そしてうわ言のように呟く。
「家臣と神威との、密約の、現場を目撃した……」
「そう……とは言ってもね、神威だって馬鹿じゃない。一目で神威だと分かる格好はしていなかったし、話の内容だってそうだ。おそらく三女だって一目見ただけでは精々『重役同士が重要な話をしている』くらいにしか思わなかっただろうし……もしそうでなかったとしても、だったら”誰よりも頼れる用心棒”くらいにはなにか話すはずじゃないのか?」
語り続けるエグニダの眼前。そいつは使い古された剣道着を身に着けている。そいつはぼさぼさの髪をざっくばらんに後頭部で結んでいる。そいつは見るからに年季物の薄汚れた鞘を、それに納められた刀を腰から下げている……それだけだった。
「しかし現にお前はなにも知らされず、そして三女は殺された。それはなぜかといえば、密約を交わしていた家臣の方が過剰に恐れたからだ。ゆえに彼は万が一にでも密約がバレないように三女を殺し、それから三女と最も親しく密約が漏れている可能性も高い用心棒へと濡れ衣を着せた。きっと最後には用心棒を死刑に処し、全てを闇に葬るつもりだったのだろう……」
何者でもない誰かは、ただそこにつっ立ってエグニダの話を聞いていた。あるいはもう、聞こえていないのかもしれない。
「だがな。先も言ったが、たかが10歳そこらの娘に一目見られたところで神威としては問題なかったはずなんだ。むしろそれを殺して騒ぎ立てることで、そこから足が着く方を神威は恐れた。そしてその程度すら考えられない愚かな家臣を疎んだ。ならば……粛清も当然のことだろう?」
「……っ!」
アカツキの口がようやく震えて、吐息を吐き出した。エグニダはそれを左目でじろりと観察しながらも、淀みなく言葉を吐き出していく。
「ま、あれだ。真相など紐解いてしまえばいつだって取るに足らないものなのだよ……さて、それでは改めて聞こう。ユウヒ・ヨイダチ、お前は本当の仇を知ってどうするつもりだ? 仇はもはやこの世にいない。ならば理屈的にはもうあの世に逝くしか」
「貴様たちがっ!!!」
瞬間、膨れ上がったのはただ一点を貫く殺気と眼光であった。修羅の如き形相をもって、アカツキが愛刀の柄を握る。
「神威が、貴様らが存在しなければ姫様が死ななかったことに変わりはない! ならば拙者にとって貴様らは――」
「そう自分に言い聞かせるのも、いい加減飽きて来ないか?」
アカツキは、刃を抜けなかった。
「なにを言うっ……!」
「言っただろう? 俺もお前の忠義に生きているのだと。死人に口はないんだよ。命令を下されることも、お褒めの言葉を頂戴されることもない。主従関係というのはな、どちらかが死んだ時点で完結するものなんだよ……お前も本当は分かっているはずだ、ユウヒ・ヨイダチ!」
「……黙れ……」
「本当はもう存在しない空虚な忠義を護るために神威を追い、実験体の少年を助け!」
「黙れっ……」
「三流記者を助け、人造偽人を助け! それでも、本当はもうなにもかもがどうだっていいんだろう!! その全てに護るべき価値などなにひとつ感じていないのだろう!!! だからこそ、お前は宵断の守護剣術を――」
「黙れぇぇぇぇ!!!」
修羅が怒りを叫びに乗せて、殺意の刃を解き放つ。
それは宵断流唯一の居合剣にして、全てを断ち斬る裏の極義――
「まったく。剣だけで語り過ぎるのが、剣士の悪いところだな」
「そんな、馬鹿な……!」
暁を象るその一閃は、しかし夜闇のような鎧へと半端に食い込んだところで止まっていた。
「宵断流、唯一無二の居合剣……いや『殺人剣術』とでも言った方がいいかな? 俺の屋敷で1度。左手を斬られたので2度。そのあと胴を斬られて3度目……それだけ体を張って受ければ、その太刀筋の正体にも確信が持てるというもの……」
「くっ……!」
アカツキはむりやり刀を引き抜き、たたらを踏んで後退った。その顔にもう修羅は宿っていない。ただ目の前の現象を理解できないという困惑と悔しさに満ちていた。
「まさかまだ自覚がないのか? ならば教えてやらねばな! 才能のない俺でも知っているが、刀剣は使い手の心を映す鏡だ。そして俺はその心を、『暁ノ一閃』を文字通りこの身に、魂に刻みこまれた。だからこそ分かる。あれはたった一念以外を削ぎ落し、それのみを極限まで研ぎ澄してこそ放てる一撃だ! 本来は魑魅魍魎から人を護るためにあるはずの守護剣術がしかし人を斬り捨ててでも、そして己が心を捨ててでも、ただ一心に大切なものを護り続ける! そのために編み出されたはずの技なのだろう!?」
それは正しくど真ん中。見透かされた真実に、他ならぬ宵断流の継承者が戦慄する。
(馬鹿な……この男は己の体感ひとつからそこまで読んだというのか!?)
アカツキの声に動揺が、抑えきれない震えが混じる。
「だ……だったらどうした! 姫様が死んだあの日から! 拙者は貴様ら神威を、姫様の仇を許さないという一心で」
「雑念なんだよそれすらも!」
「っ!?!?!?」
アカツキの背筋に怖気が走った。それがなぜなのかは本人にさえ分からない。考えるより先に心が耳を塞ぎ、体が縮こまろうとする。気づけば口が動いていた。
「やめろ」
「ハナから仇討ちなんて興味ないんだろう! 本当はもう全てが終わったと分かっているんだろう! だったらなにがお前を動かしているというんだ!」
「やめろ……」
「そう、お前の心にはもうなにも残っていない。そしてそれこそが『暁ノ一閃』の、そしてお前の正体!」
「やめろぉぉぉ!」
アカツキは叫びと共に、再びエグニダへと居合斬りを放った。しかしそれはもはや、鎧に食い込みすらしなかった。
「――虚無だ!!」
エグニダの拳が、アカツキの顔面を捉えた。
「がふっ……!」
拳をぶちこまれた鼻っ面から血を流して、アカツキはいともあっさりと吹き飛んだ。己が刀を握りしめたまま。
「主人が死んだ事実から逃げて、一生忠義を果たせないことから逃げて!」
エグニダは床に落としていた大剣を拾い上げ、床を転がったアカツキへと歩み寄っていく。
「すでに単なる過去でしかない忠義に従い人々を助け、そもそも命令すらされていない仇討ちを正しいと言い聞かせ!」
よろよろと立ち上がったアカツキを、エグニダは折れた大剣で斬りつけた。アカツキはなんとか退いて避け、きれない。その胸から腹にかけてを、折れた刃が抉り裂いた。致命傷には至らない程度の傷だが、それでも出血は少なくない。アカツキの顔に苦悶の色がにじむ。
「それでも本心ではなにひとつ感じていない。その奈落のような虚無感こそが、あらゆる雑念を打ち消し、お前の刃を極限まで研ぎ澄ました!」
アカツキは息を荒げながらも、なんとかエグニダから離れようとした。しかしエグニダは己が胸の傷を埋めた肉塊から赤黒い触手を1本解き放って、アカツキの胸の傷へと突き刺した。触手はドリルのように回転し、血に染まる傷口をさらに抉り、押し広げていく。
「あがっ、ぐぅ……!」
アカツキは痛みに悶えながらも刀を振るい、触手を斬ろうとした。だがその前に触手が引っこんでエグニダの体へと戻った。
そしてエグニダは、展開する。
「だがなぁ、今のお前にぃ!」
がしゃんがしゃんと音が鳴り、黒鎧の一部が開いていった。その各所に仕掛けられたブースターへと『疑似遺産』が力を与え、炎を灯し、黒い巨体を一気に加速! 痛みで動けないアカツキへと!!
「俺はぁ、斬れんっ!!!」
迷いなきただの突撃が、アカツキを跳ね飛ばした。
あまりにもあっけなく、あまりにも軽々と、女侍の体はその手に握りしめた刀と共に宙を舞い……そして甲板の壁に激突した。そのままずるずると滑り落ち、壁にもたれかかって項垂れた。
一方でブーストを止めたエグニダは、改めてアカツキの下へと歩き始める。
「お前はもう逃げられない。お前はもう虚無にはなれない。俺が憎いだろう? 仇が憎いだろう? あるいは分からないのだろう? 俺の語ったことが真実か、それとも嘘か? 主君は本当にただの不幸で死んだのか?」
底なし沼のように真っ黒な瞳でアカツキの心を見透かし、呑み込む。
「仇討ちすらできないというなら、自分の生きる意味なんて本当にあるのか? そもそも仇討ちしたとして、それが一体なんになるのだ? などと、今のお前を支配しているのはそんな雑念の数々だろう。そんな定まらない心に暁ノ一閃は決して使えまいて」
1歩、また1歩とあえてゆっくり歩みを刻んで、念入りに語り聞かせていく。
「しかしその一方で、宵断流本来の守護剣術も使えまい。なぜならお前には本当に護りたいものがないからだ。剣士は剣に嘘をつけない……そう、お前が宵断流の抜刀剣術を振るうのは”自分の剣を使っていない”ときだけだ。借り物の剣なら嘘をついても許されるとでも思っていたのか? それこそがお前の欺瞞の証明だよ」
果たしてエグニダはアカツキの前に立ち、その姿を見下ろした。
「ああそうそう、最後にひとつ聞きたかったんだが……」
エグニダが大剣を振り上げた。折れた刃と減らず口。
「全てに嘘を吐いて虚しく生き永らえる。そんな人生の、なにが楽しいんだ?」
騎士の剣が振り下ろされる。
そのときアカツキは、
(ああ、そうか。私は)
自らを理解した。
(こんなにも、生に興味がなかったのか)
虚ろな瞳に映るのは、憎しみと、悲しみと、失意と、恐怖と……それすら飲み込む真っ暗闇。
それと初めて向き合って、アカツキはむしろどこか安堵していた。
(姫様。私もやっと、貴方の下へ……)
もうすぐ全てが終わる。それを理解した瞬間、しかしなぜだろう。
――あ、ありがとな……師匠
いつか照れくさそうにそう言われたのを、思い出した。




