③
息ができない。俺の体から出ていた空気の泡ももう星のように小さくなってしまっている。真っ暗で何も見えないけどオレは確かに誰かの手を掴もうとしていた。守りたい。大切な人だから。掴みに行きたい。
たとえその先が死だとしても。
「明、きっちゃん、ご飯よー」
ん?もう朝か。布団から這い出て無意識にカーテンを開ける。殺風景な街並みが目の前に広がっていた。庭の木がいつもより小さい気がする。
ふと、昨日のニュースの誤植が頭をよぎる。
まさかな…。
くだらない妄想に蓋をして部屋を出た。階段を降りてダイニングに入ると朝ごはんが几帳面に並べられていた。半熟の目玉焼きにベーコンにレタス。山盛りの白米と小さなカップに移し替えられた納豆。いつも通りの平和な朝だ。他人の家にしてはあまりにも馴染みすぎていることがむしろ違和感として残った。
授業参観にもいったし、アンパンも作ってやったし、もう明も満足しただろう。そろそろ家に帰るか。そう思ってご飯を食べ終わると帰り支度までして玄関先まで行った。
ドアを開ける。もうその先にある景色には見慣れていた。左の道を真っ直ぐいって三つ目の角を曲がった坂にはクリーニング屋さんがあり、右の道を左に曲がって二つ目の交差点をまた左に曲がったところには郵便局がある。
鮮明に分かるというのに、いざ自分の家に帰ろうと思うと記憶に靄がかかって途中でわからなくなってしまう。そしてオレは気がついた。
昔のオレの夢、6年間通って体に染みついているはずの通学路、この家に来るまでの記憶がほぼ全てオレの中から抜け落ちてしまっている。
「あの、オレ…」
「ごめんね、私はあなたを家まで送ってあげられないの。」
まだオレは何も言ってないと言うのに明のお母さんはそう答えた。
「でもね、安心して。思い出せるまでは好きなだけここにいていいから。明も喜ぶし。」
そういうと普段より一人分多い洗濯籠を持ってスタスタとベランダに上がっていってしまった。
その後ろ姿が霞んで見えた気がして目をこすった。
「きっちゃーん。商店街に遊びにいこー。」
声が聞こえてきた方向を見ると昨日作ってやった(餡子抜き)アンパンの被り物をして上下真っ赤な服を着た明が背中のマントをひらひらさせながらぴょんぴょんと飛び跳ねていた。