①
光のない闇の中を漂った。ごぼごぼと喉の奥から空気の泡が抜けていき、口や鼻の中に水が流れこんでくる。水はオレの体を頭から指先まで満たしていき、重くなった体はさらに下へと沈んでいった。
ーパチパチパチパチ
拍手の音でハッとした。オレは辺りを見回す。細長い蛍光灯が青白く光り、薄黄色のカーテンから麗かな日差しが差し込む。落書きされた壁には『2012年7月14日』とゴシック体で印刷された飾り気のないカレンダー。足元にはワックスのはげかけた木のタイルが広がり、黒板の前のそこをせわしなく動きまわる子供たちがいる。ほっと息をつく。なんだ、さっきまでいた教室じゃないか。
「僕は大きくなったらお医者さんになってみんなの病気を治してあげたいです。そのためにぼくは毎日勉強をして…」
今日は知り合いの明が通う小学校の授業参観日だ。子供たちは将来の夢とそれを叶えるための人生計画を発表する。オレは明に切願されて仕方なくここにきた。両親が共働きで自分の発表を見に来てくれる人がいないのが寂しかったのかもしれない。
周りの大人たちは二回りも若い僕をみて『あら、ご兄弟さん。仲がいいのね』なんて微笑ましく声をかけてくる。仲がいい?冗談じゃない。明のやんちゃっぷりにオレは手を焼いてばかりだ。
それに明は兄弟でもない。理由はわからないが妙になつかれてしまったただの知り合いだ。まぁ、たぶん遠縁の親戚かなんかだろう。あまりにも明がなついてしまい家に帰ろうとすると怒るのでしばらく明の家に居候しているのは事実だが。
「わたしの将来の夢は小学校の先生になって子供たちの成長を見守ることです。」
「わたしは将来ネイリストになって、お客さんの指をキラキラにしたいです。」
いいな、これくらいの年齢の子たちには夢がある。小学校の先生になるには四年制大学の教育学部に入らないといけないとか、ネイルサロンの店舗を出すためのテナントにはそれなりの家賃がかかるとか、高校生のオレみたいに余計なことを考えなくていい。少し羨ましくなる。
「次、明くんだよ。」
先生に呼ばれたとたん待ってましたと言わんばかりに明が席を飛び出した。教卓の前に立った明がオレをチラッとみてにんまりと笑った気がした。こうゆうときに緊張しないところはオレと似ている。つい最近まで赤の他人だったというのに何だか本当に兄弟なんじゃないかとさえ、思ったりもする。明が元気よく叫んだ。
「おれはアンパンマンになります。」
…は?
本気で言いやがった。、こいつは頭のねじが2、3本外れている。要するにアホだ。オレは明のばかけた夢を知っていたが、まさかこんなに大勢の前では言わないだろうと内心たかを括っていた。
周りのお母さんたちが苦笑しながらあの恥ずかしい子の親は誰かしらと目で探っているのが分かる。もしあいつの親類だってバレたら…。想像しただけでも羞恥心で窒息してしまいそうだ。そっと扉の方に足を滑らせる。このまま誰にも気づかれずに帰るのが得策だ。
「アンパンマンは自分の顔を食べさせて、人を元気にしてあげます。おれもアンパンマンみたいに強くなってみんなを守って、けがをしちゃった人を元気にしてあげたいです。そのためにおいしいパンが作れるようになります。」
めちゃくちゃだ。アンパンマンみたいに強くなりたいならパン作りじゃなくて護身術を極めてほしい。そもそも人を笑顔にしたいというのが目標ならパンという物理的手段に拘る必要もないはずだ。
「明くんおもしろ〜い。」
「明〜、アンパンチして。」
完全に笑いものになっているというのに明は上機嫌だ。教室の後方のお母さん方から微妙な空気を感じる。とにかくオレはあのカオス野郎に巻き込まれたくない。早くこの場から逃げ出さないと。
「おれは夢を叶えるために今日からきっちゃんと一緒にパン作りする〜!」
そう言って無邪気に指した明の指先は紛れもなくオレをとらえていた。オレはもう十分羞恥にいたぶられている。神様、仏様、明様、これ以上オレを苦しませないでください。そんなオレの願いも虚しく子供たちはオレに興味を持ってしまった。
「きっちゃんも明みたいに変な人なのー?」
『変な』という言葉がオレのプライドというプライドをバッキバキに破壊する。逃げようとしても好奇心に満ちた子供たちがオレを取り囲んで離さない。四方八方からうじゃうじゃと細い腕が襲ってくる。
悪い夢でも見ているのではないかと思った。