役目と責任
血を流しすぎたのだろうか、意識が朦朧とする。酷く喉が渇いていた。
握りしめているはずのサーベルの感覚がない。
どうしてこの二本の脚が、今も彼の体を支え続けていられるのだろうか。最早、ハイドラ自身にもわからなかった。
嫌でも視界に映り込む幾つもの肉片が、ハイドラの活力をじわりじわりとそぎ落としていく。頭の中を巡り続ける幾つもの断末魔が、ハイドラの思考回路へと染み込む様に侵食していく。
「まだ立つか」
響く耳鳴りをかき消すかのような、兄の声。
急激に冷えていく足先が震えた。視線を下げたら終わりだと、ただそれだけを考えていた。
兄の問いかけが、ハイドラに、自身がここに立つ意味を思い出させていく。
「あたり、まえ、だ」
自分に付き従ってくれた者。不信感をぶつけて来た者。
果敢に戦い、命を落とした者。人としての死を、遂げられなかった者。
幾つもの人間の姿を、目にしてきた。
彼らは皆、平穏な明日を生きるはずだった者たちだ。
平穏な明日を生きるために、アルケイデアを選んだ者たちだ。
「俺には、責任が、ある」
少しずつ、サーベルを握る感覚が戻ってくる。
一度は羨んだ無責任を、ハイドラは自らの手でどこか遠くへと押しやった。
「俺は、アルケイデア王国、第二、王子。ハイドラ・アルケイデア・アンジエーラ」
この手に抱えた責任が、重圧が、彼の体を支えていた。
「やる気の無ェ、兄に変わって……。アルケイデアの、王に成る男だ」
この名前が嫌いだった。アンジエーラが、嫌いだった。
それが今、自分の原動力になっている事実を、いつぞやの自分に聞かせてやりたい。その様子を思い浮かべて、ハイドラは心の中で苦笑した。
「……成程」
ダリアラは納得したように腕を組むが、その動作も所詮は分かったふりでしかないのだと、ハイドラはすぐに気づいた。
「その心構えには感服しよう。天使の王に相応しいのは、やはりお前だったようだな」
含みを帯びたその言葉が、ハイドラの心を揺さぶろうとする。
「お前の言う責任とは、何だ? アルケイデアが為に散った、同志の仇を討つことか。それとも王に成る為に、己が力を示すことか?」
「違ェよ、阿呆」
しかしハイドラは、そんな兄の声に苛立つわけでもなく、むしろ憐れみさえ覚えていた。
彼の決意は、そんな言葉では揺らがない。
「言っただろ。俺は、ハイドラ・アルケイデア・アンジエーラ。アルケイデア王国の、第二王子で」
この重圧が、重い体に馴染んでいく。
「ダリアラ・アルケイデア・アンジエーラの、弟だ」
ダリアラの言う責任も、当然存在している。
仇は取る。力も示す。
しかしそれ以上に、今の彼には果たさなければならない責任がある。
「兄貴の非行の、尻ぬぐいは――」
逃げてばかりではいられない。この立場からも、兄からも。
「弟の役目、だろ」
サーベルを握る手に、力が籠った。
立ち続けなければならない。彼が、自分の兄である限り。自分が、彼の家族である限り。
「そうか」
その回答に、感情は無いように感じられた。
ダリアラは一度、一双の金色を瞼の裏にしまい込み、
「お前の雄姿に免じて、再び我が手駒として使役するのも良いかと思ったが――」
やがて無機質な輝きを携えて、開いた瞳でハイドラを捉えた。
「今の言葉で、気分を害した」
否応なく、ハイドラの肌が粟立った。
ダリアラが右手を天へと伸ばす。その腕に浮かび上がった幾何学模様が、ハイドラの煩悶を煽った。
鋭い爪が空をかき切ると、その空間の狭間から我先にと競うように、はらはらと山吹色が溢れ出す。
「無駄話は終わりにしよう」
「な……」
禍々しさの中に生まれた柔らかな花弁が、ハイドラの思考をかき乱していく。やがてその花弁は片手剣の型を形成し、ダリアラの右手に収まった。不可解にも爛々と輝いてすら見えるその剣は、漆黒の空間によく映えた。
「時は満ちた」
膝を折りそうになってしまう程の威圧感。それでもハイドラは、持てる気力を奮い立たせて、サーベルをダリアラへと向けた。
受け止めなければ、殺される。
覚悟を固める猶予など、ハイドラに与えられるはずも無い。
ハイドラの掲げた剣を中心に、空気が渦を巻く。曇天が、渦を巻いていく。
その輝きから目を離すまいと、ハイドラは焦点をダリアラの持つ剣へ注ぎ続けた。瞬き一つ、許されない。
そして――。ダリアラは、姿を消した。
「……?!」
突然の出来事に、理解が追い付かない。目を離したはずがない。意識を逸らしたはずがない。
ダリアラが消えた理由は、たった一つだ。
彼にその動きが、ただ追えなかっただけ――。
ハイドラが息を呑む間に、曇天から、何かが彼を覆い隠した。
「無力」
それは、ダリアラの翼。
見上げたハイドラの視界を、山吹色が包み込む。
(無理だ)
短い感想だった。走馬灯すら、浮かばない。
せめて、最期に、一目だけでも――。
「……!」
ハイドラの視線から、何かが山吹色を遮った。
細く、赤に染まった白い腕。
ハイドラが毛嫌いした、水色の髪。
ダリアラにはない、純白の翼。
「――ッ!」
ハイドラの体を抱きかかえるように、少女はその身を投げ出していた。
「ステラリリア……!」
二人の間に無理やりに割って入ったニーナの体が、飛び込んだ勢いのまま、ハイドラを抱えて地面を転がっていく。
ハイドラは混乱する意識のなかで咄嗟に一つの判断を下し、握っていたサーベルを遠くへと投げ捨てた。彼女を傷つけてしまう可能性を考慮したのだ。
やがてその勢いが収まると、ハイドラの上に横たわる形でニーナの動きは止まった。ハイドラが慌てて彼女の背に手を回すと、ニーナは痛みに耐えるように苦悶の声を漏らす。
「お前……っ! 何、やってんだ!」
その姿に自らの体の痛みなどすっかり忘れて、ハイドラが声を荒げた。
ダリアラは確実に、ハイドラの命を奪おうとしていた。あの勢いのまま、ダリアラの握る刃が降り下ろされていたならば。彼女の体は確実に、深々と切り裂かれていたことだろう。
彼女の乱入にいち早く気づいたダリアラが、意図的に剣を止めていなければ。
「…………」
ダリアラの冷ややかな視線が、ニーナの体を射抜いた。全力で駆けて来たのだろう。荒げた呼吸を落ち着かせながら、ニーナはゆっくりと顔を上げる。
彼女の体を支える様に、ハイドラは力の入らない両手でその肩を抱く。傷だらけの薄い肩が、小刻みに震えていた。
ニーナの視線が、ダリアラへと向けられていく。
「やめ、て」
乱れた長い髪の間から、彼女の表情を覗き見る。
ハイドラはその瞳に、憤怒を見た。
「エリィの魔法で、人を傷つけないで!」
これほどまでに、彼女が怒りを露わにしたことがあっただろうか。ハイドラは言葉を失い、ただその怒りの矛先へ目を向けることしか出来なかった。




