俺は俺だから
二つの神は姿を消した。まるでそこには初めから、何もなかったかのように。
「死んだ、のか」
か細い声だった。
残された血液だけが、鮮明に今までの記憶を呼び覚ます。
「……いや。あの程度の傷で、神は死なない」
首を振ったヨルに、エリィはその青い顔に安堵の表情を浮かべた。その姿に、ヨルは一層自責の念を感じてしまう。
実際、あの鎌で貫かれた以上、運よく生き永らえたとしても失うものは少なくないだろう。体の一部か、記憶か、感情か。それを今の彼に伝えるほど、エリィを知らないヨルではない。
彼はあまりにも、他人に対して、優しすぎる。
少女の体を抱きかかえた桃色の髪の少年は、最後にエリィへと一礼した。短い謝罪の言葉と共に。
「……エリィ」
どこか居心地の悪そうな顔で、人の形を成したままのヨルがエリィへと近づいた。
エリィは黙って、俯いたヨルのつむじを見つめる。
沈黙が続いた。ヨルは必死になって、都合の良い言葉を探しているようだった。
当然、エリィが彼に対して聞きたいことなど山の様にある。それこそ、一日や二日では足りない程に。
エリィは一度、わざとらしくため息をついた。その様子に、彼の目の前まで歩いたヨルが足を止め、びくりと肩を震わせる。
そんな姿にエリィは困ったような笑みを浮かべて、大きな一歩を踏み出し彼との距離をさらに近づけた。
「なんて顔してんだよ! 一人で良いところ持っていきやがって。遅えんだよ、ジェシカの使い魔が聞いてあきれるぜ」
「う……」
直球の悪口に、しかしヨルは言い返す言葉もない。元をただせば、ピアンタによる妨害は自分の責任だ。ゲルダの元に降りかかった危険に気づいていながら、その脅威を止められなかった不甲斐なさに、ヨルは一層視線を落とした。
しかしそこまで言わなくても、と喉まで出かけていた言葉が、ヨルの口から嗚咽となって漏れ出た。
「エ゛ぁッ」
エリィがその言葉を吐き出させるように、ヨルの猫背を思い切り叩いたからだ。
「ぶふっ、変な声」
「だ、誰のせいで……」
思わず言い返したヨルだったが、顔を上げた先で笑みを浮かべたエリィの姿に、言葉を留める。
「馬鹿、冗談だっての」
エリィにも、心当たりがないわけではない。思い起こせば、ヨルが『神』だと言ったあの『マリー』と、先の二人からは同じ匂いがした。
ピアンタのヨルに対する態度や、ヨルの物とよく似た大鎌。
詳細や事情などは知り得なくとも、少し考えれば、簡素な答えはすぐに導き出せる。
「言っとくけどな。最初から、俺はお前の正体なんてもんに興味はねーんだからな」
エリィはため息交じりにそう言うと、高い位置にあるヨルの肩をぽんと叩いた。
「お前はヨル。ジェシカの使い魔で、俺の護衛……兼、まあ、世話係。そうだろ?」
猫背の癖に肩の位置高すぎだろ、と悪態をつきながらも、エリィの瞳はまっすぐにヨルを見上げていた。
「来てくれて助かった。ありがとな、相棒」
ヨルの呼吸が浅くなる。
感謝されることなど、何もしていない。
何もしないと、決めていたから。
「エリィ、僕は」
感謝の言葉を否定するように、ヨルは力なく首を振った。しかしそんな素振りには気づかないふりをして、エリィは彼の言葉に割り込む様に、次の話題を切り出した。
「なあヨル。ゲルダを任せてもいいか?」
エリィはゆっくりとゲルダの体を動かして、ヨルへと差し出す。突然のことに思わず両手を差し出したヨルは、ゲルダの痛ましい姿に、言いかけていた言葉を飲み込むしかなかった。
「頼む。とにかく時間が無ぇんだ」
当然ヨルが断るはずも無く、傷だらけのゲルダの体をいたわる様に、ゆっくりと横抱きに持ち上げる。
「息はあるけど、見ての通りの重症だ。拠点にしてた家に連れて行ってやってくれ。手当てもしてやって欲しい」
簡単なものならば、とヨルは承諾した。万一の為にと、あの時ピアンタから相応の力は奪い取っている。その程度であれば、余裕をもって人型を維持しながら遂行できるだろう。
改めてゲルダの体を観察すると、その傷のむごさに目を背けたくなってしまう。頭部、顔、腹部、細い足や腕にまで――。
その時、ヨルは改めてその体に違和感を覚えた。
違和感の正体に気づくまでにかかった時間は、ものの数秒。しかしヨルにとって、その正体を理解する事のほうが、よっぽど困難だった。
「これ、は」
有り得ない。そんな短い一言が、ヨルの考察を妨げる。
「ヨル、俺さ」
どきりと、ヨルの心臓が鳴った。
「あれからずっと考えてたんだ。もう充分だってくらい考えて、それでもずっと……。うまく、答えは出せてなかったんだけどさ」
ついさっき、ヨルがエリィの顔を見ることが出来なかったのには、二つの理由があった。一つはピアンタとスッピナのこと。そしてもう一つは、『アレクシス』を止める方法についてだ。
正直なところ、このままエリィには、逃げて欲しいと思っていた。
こんなにも優しい少年に、生前から定められた使命を理由に苦しんで欲しくはなかった。
これ以上、彼の苦しむ姿を、見たくはなかった。
「ようやく、納得のいく答えが出せた気がするんだ」
しかしそんな淡い期待は、どうしようもないエゴだったのだと気づいた。
ピアンタやスッピナが、「自分の正義」を信じて疑わなかったことと同じように。
「せっかく教えてくれたのに、悪いな!」
くるりとヨルに背を向けて、エリィが歩き出す。
「俺は、俺だからさ。俺のやり方で、俺がしたいようにするって決めたんだ。俺に出来る全部で、みんなの事を守る」
腕の中に抱いたゲルダの存在が、ヨルに「エリィの見つけ出した答え」を告げていた。
理屈は分かる。もしかしたら――、そんな淡い期待すら抱いてしまう程の可能性が、そこにある。
それでも、ヨルは奥歯を噛みしめていた。彼を引き留めようとする本心を、必死になって押し殺す。
そっちは駄目だ。辛い現実が待っている。
『アレクシス』が、待っている。
「俺は、この世界も、あいつ等も守りたい!」
暗闇の中で、エリィの血に汚れた拳に力が籠ったのがわかった。
「だから今度こそ、立ち止まらねえ。俺が、ダリアラを止めてやる!」
止めたい。もう良いのだと、引き留めたい。
この世界から隠して、遠ざけて、終わらない終末の流転から逃がしてやりたい。
「無理だって言われてもやってやるぜ」
だがヨルは、自分にその権利がないことを知っている。
そしてそれ以上に、ヨルには彼を止められない理由があった。
「だって俺は、『魔女の使い』のエリィ! そんで、いつか――」
「――『大魔王』に、なる男」
笑顔で振り返ったエリィの背を、全力で押してやりたいと。
「その通り!」
ヨルはその時、確かにそう思ったからだ。
* * *
「確かに、お主の言う通りなのやもしれぬ」
ジェシカの紅い双眸が、闇夜の中で鈍く輝いた。
「――じゃがな、ディアナ。今の妾にとって、『アレクシス』の意思など、最早どうでも良いのよ」
予想外の回答に、ディアナの眉が動く。
「なんだと?」
くびれた腰に手を置いて、ジェシカはほんの少しだけ顎を上げた。
その動きに、大きな意味はないのだろう。しかしこの暗闇の下で見るその風貌は、彼女を良く知るディアナでさえも、息を呑む程に美しいと感じた。
「けじめは果たす。妾はそこに居る『アレクシス』の決断に一切の干渉はせぬし、この世界がどのような結末を迎えようとも、決してその在り方に文句は言わぬ」
柵に囚われ続けた五十年だった。ジェシカにとっても、ディアナにとっても。
その道中で、二人の魔女は、それぞれが再び現れた柵に出会った。
あまりにも、数奇な出来事であると言わざるを得ない。
「しかし、この五十年の――いや、たった十数年の間に、妾には何よりも大切なものに出会ってしもうた」
たなびく銀の髪を耳にかける。その動作一つ一つに、彼女の中の自信が伺えた。
「たとえ偶然が重なっただけなのだとしても。妾はその偶然を、運命と信じるぞ」
たった五十年という猶予の中で、ジェシカは確かに出会ってしまった。
『アレクシス』さえも霞む程、優先したいと思える存在に。
その意味を理解したディアナが、彼女の言葉を鼻で笑う。
「この期に及んで、まだあのガキを待つつもりか? あいつを諭して、今からでもマリーを止めようとでも?」
「解らぬ奴よのう、ディアナ」
今度はジェシカが、彼を笑う番だった。
「妾は、この世界の未来に期待などしておらぬ。それに、今の『アレクシス』の意思に興味はないと、そう言っておるじゃろう?」
あくまでも、この先の未来にジェシカの意思はないということか。
ならば、なぜ彼女はここへ来た?
答えの出ない疑問に、ディアナの苛立ちが増していく。そんな彼の不満を弄ぶように、ジェシカの真っ赤な唇が弧を描く。
「妾にとって優先すべきものは――、愛しき息子の心だけよ」
「心、だと?」
ダリアラに傷一つ付けることの出来なかったあの少年に、再びこの場へ来ることすら躊躇っている少年に。今更ジェシカは、何を求めているというのだ。
ばかばかしい。くだらない。ディアナの眉がぴくりと痙攣した。
「『アレクシス』の力を奪われたあのガキに、何が出来るってんだ!」
「あやつが動かぬことを選ぶのであれば、それに従おう。じゃがな」
淡々と、ジェシカは言葉を続ける。
「妾にはわかる。そう、母たる妾には」
紛うことなき真実だというように。
彼女は腕を組み、堂々と言い放つ。
「エリィは、再び立ち上がる」
「!!」
そんなわけがない。そんなものは、彼女の希望的観測だ。
仮にあの少年が動いたとして、出来ることなど何もない。
世界は終わる。今度こそ。
頭では結論が出ていると言うのに、ディアナは自身の胸のざわつきに、目を瞑ることが出来なかった。
突発的な衝動に、体が動く。しかし。
「通すと思うのか?」
ジェシカの脇をすり抜けようとしたその瞬間、鋭い無機物の存在を感じて足を止める。
喉元の数ミリ先に、ナイフがあった。
五十年前の記憶が、鮮明に思い起こされていく。
同時に、ディアナの苛立ちは頂点に達した。
「!」
ジェシカの手を握りつぶすように、ディアナはその手ごとナイフを掴んだ。刃に触れた彼の親指から、血液が流れ落ちていく。
「マリーにとっての障害は、全員俺が殺す」
鼻先がぶつかり合う程の距離で、ディアナの射殺すような瞳がジェシカを捉えていた。
「エリィの邪魔はさせぬ」
その手を切り裂くつもりで、ジェシカはナイフを引き抜いた。その瞬間、ディアナは察したように手を放し、ジェシカから一歩距離を取る。
ディアナの腕の中にあったくまのぬいぐるみが、徐々に表面積を広げていく。ディアナの腕を抜け、彼の背後を覆うように、その巨体を現した。
交わることのなかった過去の家族の決断に、ジェシカから投げかける言葉はこれ以上にない。
既に和解という方法は望んですらいないのだと、二人は互いに察知していた。
ジェシカが着いた血を振り払うようにナイフを振るう。強張った体から、ほんの少しでも生まれてしまいそうな迷いを払拭するように。
彼女自身でさえ恐ろしさを感じる程に、そのナイフは手になじんでいた。
アレクシスを殺した、このナイフが。
「――っ」
力ない風が、ジェシカの元を訪れた。ほのかに、甘い香りを連れ立って。
ジェシカは、その香りを知っている。
「待ちわびたぞ」
すぐ傍に彼の存在を感じて、ジェシカの口角が上がった。知らぬ間に入っていた力が、ふっと肩から抜けていく。
ジェシカがナイフを握らない手で指を鳴らすと、いつの間にか周囲に散布していたらしい種子から次々と芽が生える。目にも止まらぬ速さで成長を遂げていく植物は、やがて幾本もの蔦となってジェシカの周囲を蠢いた。その蔦の先は、鋭利な剣先によく似ている。
かつてジェシカの屋敷の中で、エリィを襲ったあの植物と同じように。
「我が小さき魔王の望みのままに」
小さなつぶやきは、誰の耳にも届かない。
それでもジェシカは言葉を続けた。
「このジェシカ、持てる全ての死力を尽そうぞ」
自分の意思を、世界へ布告するかのように。