誰も傷つけない魔法
思わず目を閉じ、身を固めたエリィの体を、しかし痛みが襲うことは無かった。
「な、んで」
ピアンタの動揺した声が、エリィの瞳を開かせる。
エリィの手から離れたゲルダの腕は、空中に縫い付けられたかのように、振り上げた状態でピタリと静止していた。
ピアンタがどれ程腕を動かしても、ゲルダの体がその指示に従うことは無い。
「クソ、クソ! なんで! なんでだよ! ボクの命令が、どうして通らないんだ!!」
エリィはそんなピアンタの姿に、いつかの自分の姿を重ねていた。
なんで……っ!!
何も出来ずに、誰の助けも得られずに。迫りくる危険にそう叫んで、自分の無力を呪ったあの日の記憶が、随分と遠い。崩れ行く街の中心で、意識のないゲルダを守らなければならないはずの自分は。結局自身すら守ることも出来ずに、ハイドラに救われたのだ。
「なんも出来ねぇのな」。その一言に、言い返す言葉などなかった。
彼とともに去り行くニーナに、かける言葉が見つけられなかった。
なんで、どうしてと。結局は周囲に頼り切っていたあの日の自分の姿は、ハイドラには今のピアンタのように見えていたのだろうか。
「早く、そいつを殺せよ!!」
握りしめた拳を自身の太ももにたたきつけ、ピアンタは叫んだ。エリィの膝の上に座り込んだまま、ゲルダがその手を振り下ろすことは無い。
「~~~~ッ!!」
「もう充分だろ! ゲルダを解放しろ!」
これ以上は、ゲルダの生死に関わる。彼女の体が痙攣を始めている。時間はない。
今すぐにでもしかるべき処置を済ませ、彼女の体は安静にさせなければ。
融通の利かない人形など、彼女にとっては最早荷物でしかないだろう。ゲルダが居なくても、次は彼女自身が攻撃を仕掛ければ良いはずだ。
しかしそんなエリィの思惑に気づいたらしいピアンタは、何かを思い出したかのように一度動きを止め、やがて歪に口角を吊り上げた。
「無理だよ」
「は……?」
嘲るような瞳が、暗闇の中でもはっきりと見えた。エリィの困惑した表情を、可笑しそうにピアンタが見降ろしている。
「無理なんだよ! アハハ、その子にはボクの血液を飲ませてある。ボクの残滓がある限り、その子はボクの操り人形だ!」
勝ち誇ったように胸に手を当て、小さな悪魔が叫ぶ。
「ボクにだって取り除くことは出来ない。どうしてもって言うなら、その子の腹を切り裂いて、胃の中から掬い取って見せてよ!」
ピアンタのその瞳は、エリィの反応に快感を得ていた。
「もっとも、今頃はその体中に行き渡ってるだろうけどね!」
エリィは絶句した。腹いせ。八つ当たり。そんな言葉が頭を駆け巡る。
自分だけが悔しい思いなどしたくない。そんな思いから生まれた、子供じみたはったりかとさえ思った。
「アハハハハ! そうだよ、思い通りにいかないのが、ボクばかりだなんて不公平じゃない!」
いいや、強がりなどではない。エリィは背筋を走った悪寒に身を震わせた。
「っ、頼む、ゲルダ! 目を覚ませ!」
「無駄だよ! その子が君を殺すまで、ボクはこの手を下ろさない!」
血にまみれた、薄い両肩を抱く。へばりついた血液が乾燥し、束になった彼女の髪が、エリィの動きに合わせて揺れた。
「ゲルダ!!」
「君さえ殺せれば、ボクはこの世界から立ち去っていたんだ! 君が素直に殺されていれば、その子は自由だったはずなのにね!」
焦燥感が、再びエリィの思考をかき乱す。
どうすればいい。自分には何が出来る?
「お前に出来ることなんてない! ボクに殺される前に、その子を置いてさっさと逃げなよ!」
嫌という程、ピアンタの声が耳に付いた。
本当に、そうなのだろうか。
「ゲルダ……!!」
本当に、自分にできることはないのだろうか。
このまま、彼女を失うことしかできないのだろうか。
動かなくなった彼女の体を抱き上げて、一縷の望みに頼って、ただ神を名乗る数奇な存在に背を向けることしか。
記憶の中で笑う彼女の様子が、目の前のゲルダの姿と重なることは無かった。
抱いた彼女の肩が震えていた。その震えを通じて、彼女の主張がエリィの中へと流れ込んでくるようだった。
ピアンタに抵抗しているのは、なぜだと思う?
エリィと共にこの空中都市へ来たのは、なぜだと思う?
貧血で視界が白む。彼女の声が聞こえた気がした。
ゲルダに言葉を紡ぐだけの体力が残されていたならば、悩み苦しむエリィへ一言、こんな言葉を投げかけたことだろう。
エリィだけでも逃げて、と。
「――嫌、だ」
ぽつりと、エリィの唇が薄く開き、声が零れた。ピアンタの表情から、笑みが崩れ去っていく。
逸る心を無理やりに押し込んで、エリィがゲルダの肩から手を放す。
逃げて。
ゲルダの言葉が、エリィの意思を動かしていた。
「逃げるかよ……!」
逃げるな。そんな言葉を期待して、待っていた結果がこれだ。
この期に及んで、まだ『誰かの指示』を期待していた自分に吐き気がする。
自分がここで逃げて、何になる?
この少女の思い通りに、世界が終わるだけだ。
「そんなの、俺がここに来た意味がねぇ」
自らが望んだ力ではない。それでも、自分が『アレクシス』として生まれた意味は、必ずある。ジェシカと出会い、ダリアラと出会ったこの運命に、意味は必ずあるはずだ。
そう思ったから、彼はここまで来た。
ダリアラともう一度、話をしなければならない。
この世界を、みんなを、守りたい。
そんな大層な願望に縛られて、根本的な事を忘れていたような気がする。
「確かに『アレクシス』として、俺に出来ることは限られてるのかもしれない」
ダリアラのように、自身の正体を自覚して生きてきたわけではない。
五十年前のアレクシスのように、使命を持って生まれた訳ではない。
「だったら尚更! 君が、今を生きる理由なんて無いじゃない!」
ピアンタの言葉を、肯定する自分が居るのも事実だ。
「早く逃げなよ、ボクに背を向けなよ!」
そうすれば、きっとピアンタはエリィを殺すだろう。彼の腕の中で、ゲルダもまた覚めない眠りにつくことになる。そうすれば二人は、これ以上苦しまずに、悩まずに済む。
そんな未来を、ゲルダが許すはずがない。
そしてなによりも、エリィ自身がその未来を強く否定していた。
考えろ。
出来ないならば、どうすればいい。
何なら、出来る?
「私はエリィの魔法好きだけどね。――だって、誰も傷つけないじゃない」
ゲルダの言葉が、彼を彼たらしめる。
たった一つだけ。
自分にしか、出来ないことがあるではないか。
思い出せ。自分が、何者なのかを。
「『エリィ』――……」
ゲルダの口から絞り出すように発せられたその一言が、全てだった。
「ああ――、そうだった」
両手を伸ばす。彼女の頬を撫でる。
「俺には、これしかない」
エリィの手で避けられた短い髪の間から、ゲルダの涙に濡れた瞳が見えた。
彼女に呼ばれたその名前が、自分の全てだ。
「ごめんな、ゲルダ」
こんなにも、待たせてしまった。
「今、助けるから」
頬を撫でていた両手をゆっくりと首筋へ落とし、エリィはその背中へと腕を回した。
苦しくないように、そっと優しく。それでいて、この手から逃げないように。力の限りを注いで、その体を抱きしめた。
「何、するつもり」
様子の変わった二人の姿に、ピアンタが動揺の声を上げる。
何もできないはずだ。エリィの中の『アレクシス』の力は、既に奪われているのだから。
わかっているのに、この違和感は何だ。
「ッ、放せ! ボクの人形から手を放せよ!」
ピアンタが必死に手を動かしても、ゲルダの体が動くことは無い。寧ろゲルダの体は、ゆっくりとエリィの腕の中へと沈んでいく。自身を抱きしめる少年へ、その身を任せて眠るように。
「いい加減に――!」
エリィの手のひらが、ゲルダの背を撫でた。
久方ぶりの感覚に、エリィはどこか心地よさを覚える。
手のひらだけではない。全身で感じるゲルダの冷え切った体温を、感じ取っていく。
ふと、ゲルダの中に、異物を感じた。
エリィには、この異物の正体がよくわかる。
幾度となく繰り返した、相棒の鼠との戯れが。こんなところで、役に立つとは――。
「なに、これ」
ピアンタが、不可解な感覚に眉を寄せる。感じ取っていたはずの自らの力が、ゲルダの中から消えていく。
確実に掴んでいたはずの糸が溶けて、宙へと霧散していくような。
操れるはずの人形が、手中から逃げていくような。
自分がゲルダに与えた神の力が――、『魔』の力が、昇華されていく。
「何してるんだよ、お前!」
エリィの両手の平を中心に、薄紫が溢れ出す。
やがてそれは、二人の体を抱きかかえるかのように、ゲルダの体から放たれ、散っていく。
「これは、俺の魔法だ。ダリアラなんかに奪われてたまるか」
それが無数の花弁であることに気づいて、ピアンタは言葉を失った。
「『アレクシス』である前に――、俺は、魔女の使いの『エリィ』なんだよ」




