振り下ろせない拳
「ま、元々無理かなあとは思ってたんだけど! 人間って本当、面倒臭くてつまんないなあ」
ぱっとその手を放すと、ゲルダは糸の切れた人形のようにその場に膝をついた。
「おっと、まだ倒れちゃだめだよ~。言ったでしょ? ボクは君を殺さないって。勝手に死なないでよね、ボクを『堕神』にするつもり?」
少女、ピアンタが右手の平を点に向け、その指先をくいと持ち上げる。するとその動きに対応するように、ゲルダの上半身もまた、グイと天に向けて引き上げられた。
彼女の体を支えているのは、彼女の両足などではない。不可解な姿勢を保ちながら、ゲルダはただ苦痛に顔を歪めている。血色を失った頬を、頭部から流れる血液が彩っていた。
「誰だ、お前!」
腹部の痛みなど一瞬で忘れてしまったかのように、エリィはゆらりと立ち上がった。
「え~? 内緒!」
悪ふざけをたくらむ子供のように、ピアンタは口角を上げる。
次の瞬間、これまでの幼稚な子供のような気配を消し去り、射るような鋭い眼光をエリィに向けた。
「ねえ、『アレクシス』を止める方法、ペルドゥから聞いたんじゃない?」
エリィは息を呑んだ。この少女についても、『ペルドゥ』についても、エリィが知ることは何もない。それでも、彼女の言葉にエリィの体は拒絶を示した。
理由は分からない。それでも、駄目だ、と思った。
「…………」
否定しなければ。そう思考を巡らせていたほんの少しの無言を、ピアンタは肯定と受け取ってしまう。
「ふーん、やっぱりね」
心底つまらなそうに、ピアンタは呟いた。
「だったら、やっぱり君は殺しておかなくちゃ!」
「?!」
ピアンタの細い手の動きに答え、ボロボロのゲルダの体が動いた。
瞬発力こそないが、ドラグニア族の彼女の脚力に、傷を負ったエリィがかなうはずも無い。
「ぐあッ」
どうにか身をよじったものの、今度はエリィの肩から血飛沫が舞った。衝撃による鈍痛と、肉を裂く感覚。その痛みに体を固くして、耐える余裕はない。
「まだまだ!」
コロコロと表情を変える幼子のように、ピアンタはにっこりと目を細める。
「っ、くそ!」
全力で地面を蹴り、続くゲルダの攻撃から逃げる。ゲルダがピアンタに操られていることは、まず間違いない。ゲルダには最早、意識を保つことの出来るギリギリの体力しか残っていないはずだ。少しでもエリィが反撃しようものならば、今の彼女であれば簡単に退けることが出来るだろう。
しかしそれは、彼女に残された最後の体力を削り取ることになりかねない。
特に戦闘に関しては新兵以下のエリィにとって、一撃の加減など出来るはずも無い。下手に反撃が出来ないのだ。
「アハハハハ! これ、案外楽しいかも!」
観戦に徹底したピアンタの無邪気な笑い声が、この状況を更に混沌へと追いやっていく。
ただ避け続けていれば、いつかこの行為に対してピアンタの飽きが来るかもしれない。そんな悠長な考えは、すぐさまエリィの脳裏に浮かんで消えた。
「ゲルダ……っ!」
ゲルダの顔面が時間を追うごとに白んでいく様子が、目に見えて分かった。このまま時間を稼いでいても、助けが来るとは限らない。たとえ来たとしても、いつになるかわからない。
その間にも、ゲルダの限界は近づいて来る――。
(俺が、どうにかするしかない……!)
エリィは視界の隅にピアンタの姿を捉えた。ゲルダを止めるには、その傀儡主であるあの少女を止めればいい。そう結論付けたエリィは、闇雲にピアンタへ向かって駆けだした。
「ゲルダを止めろ!」
慣れない手つきで握りしめた拳を掲げ、エリィはピアンタへと殴り掛かる。
「へえ」
しかしピアンタは動揺した様子もなく、ゲルダを操る右手の人差し指をくるりと回した。
瞬間、エリィの背後に居たはずのゲルダが、その移動速度を速めた。即座にエリィとピアンタの間に割って入り、ただその両腕を広げる。
「――ッ」
エリィは全身全霊で振り降ろしかけた拳を、どうにか空中で静止させた。
彼の拳とゲルダの鼻先までの距離はほんのわずかだった。例えそこまで威力のない一撃でも、ゲルダにとっては致命傷だったはずだ。エリィは戦慄した。
「惜しかったね!」
ぴたりと止まっていた空間は、ピアンタの一言で動き出す。
空中の虫を払いのける様に動いたピアンタの手に倣って、ゲルダの両腕が動く。彼女の鉤爪が、エリィの胸部を切り裂いた。
言葉にならない苦痛だった。目の前がチカチカと閃光を放ち、両足から力が抜けていく。
背中を地面に打ち付け、衝撃で一瞬目を閉ざした。
「が……ッ!」
その一瞬の間に、ゲルダがエリィの腹部に跨った。エリィの首を絞めつける圧迫感の正体は、ゲルダの左手だ。
最早ゲルダに意識はないのか、その首は力なく項垂れている。血液で汚れた短い髪が、彼女の表情を隠していた。
「素人が、のこのこ戦場に来ちゃ駄目だよ~」
エリィの指先が冷えていく。場の空気に似合わないピアンタの声が、エリィの姿を嘲笑う。なにかを言い返したくても、圧迫されたこの喉では大きな声など出せるはずも無い。
これまでに感じたことのない痛みで意識が飛びそうだった。
それでもエリィは必死にその目を開き続け、冷え切った両手で、自身の首を絞めつけるゲルダの左手首を掴んだ。
「……ダ。ゲル、ダ……!」
空気が喉を通るたび、ヒュウヒュウと不快な音が鳴る。
例え意識がないとしても、彼女は生きているはずだ。そうに決まっている。
なのに、なぜ、首を絞めつける彼女の手は。
こんなにも、冷たいのだ――。