「逃げて」
足音が聞こえて、見つめていた両膝から視線を上げる。
月明かりの下に、細い足首が見えた。
エリィはその靴に見覚えがあった。
見間違えるはずがない。家族同然の、幼馴染の脚を。
「……」
その両足は、エリィから充分に離れた場所で止まった。お互いの表情はおろか、上半身さえも、周囲の建造物の影に隠れて目に移すことが出来ない。
なにも言わない少女の気配に、エリィは途方もない居心地の悪さを感じていた。
彼女と共に居る空間で、こんな感情を抱く日が来るとは思いもしなかった。
「……ごめん」
精一杯の言葉だった。
こんなにも感情がうまく制御できない経験は、初めてだ。
何を選んでも、その先に「やりたいこと」は無い。
自分が今、一体「どうしたい」のか、わからない。
膝の上で組んだ手のひらに、ぐっと力が籠る。
「俺……、俺さ」
自分でもわかる程、あまりにも頼りない声だ。
あまりの静寂に、現実を忘れてしまいそうだった。
「守りたいって、守ってやるって思ってたんだ。この世界をさ」
彼女からの言葉がないのを良いことに、エリィは次々と言葉を吐露していく。
体温すら感じられない程遠くにいるというのに。彼女の存在を知覚しているだけで、その姿に甘えてしまう。
「なんで俺がって、少しも思わないって言ったら嘘になるけど。……俺にしか出来ないことなんだって思うと、なんかカッコいいだろ?」
きっと何を選んでも、ヨルやジェシカは自分を責めたりはしないだろう。
意思はある。この世界を守りたいという意思が。『アレクシス』として、その終焉に立ち向かうこと。その行為に異論はない。その先に、自分が居なくても構わない。
「でも、それは、……お前らのさ」
目頭が熱を帯びたことに気づいて、自分の不甲斐なさに苛立った。
「皆の事だって、含まれてたんだぜ」
言葉にすると、不思議と簡単なことのように感じてしまう。
エリィが、エリィとして持った、もう一つの意思。
ジェシカや、ヨルや、ニーナや、ゲルダや、これまで知り合った全ての人々の未来を守りたい――。そんな、単純で、極めて困難なもの。
自分が犠牲になるから。だから、みんなの事は見逃してくれないか、と。
そう頼み込める相手は、どこにも居ない。
「俺だってさ、こんな所で座り込んで、何してんだろって思ってんだよ」
やりたいのに、出来ない。
動きたいのに、動けない。
そうやって、立ち上がることを拒んでいた。
「なのに、俺は……」
置いて行け。
そんな言葉を、共に進むべき人に投げかけてしまった後悔が、嫌という程エリィの両肩にのしかかっていた。
ニーナの姿を見失った後、言い訳ばかりの暗闇に逃げ込んで、重い腰を上げようとしなかった。現実から目を逸らして、なにも考えないように。
時が止まっているような、そんな感覚が心地よかった。
「俺は……」
ざり、と一歩を踏み出す音が聞こえた。
彼女が少しずつ、自分の元へと近づいている事実を感じた。
エリィの心を埋め尽くす後悔。それは彼自身に残されていたちっぽけな自尊心と、ニーナに対する罪悪感。そして何よりも、今も尚湧き上がり続ける「動きたい」という衝動から来るものだということを、頭のどこかで自覚していた。
例え自分に出来ることが何もなかったとしても、ここでただしゃがみこんだまま、世界の終わりを迎えることだけは、したくはない。
エリィの中で、とっくに答えは出ていた。
ただそれでも、エリィはほんの少しだけ、背を押してくれる力が欲しかったのだ。
逃げるな、と。
自分の不甲斐なさに、反吐が出る。
ニーナのように、自ら進む勇気を、自ら抗う意志を、持つことが出来ない自分に。
「――――ッ」
ぱちりと、エリィは両の目を開けた。
小さな空気の変化が、エリィの全身を逆撫でる。ざりざりと近寄っていた足音が、エリィの動きに答えるように、その音を止めた。
ほんの少しだけ、エリィはゆっくりと視線を上げる。
抱きかかえた両膝は、すぐ隣に立つ人の影に覆われていた。
ツンと漂う不快な香り。すぐそこに彼女は要るはずなのに、普段のような温もりが感じられない。
かといって、冷たいわけではない。冷ややかでこそあるが、不思議と燃えるような熱を感じた。
その違和感が、事の異常さをエリィに示している。
「ゲル、ダ……?」
「……――て」
掠れた声が、エリィの中の警報を叩き鳴らした。
「逃、げて……!」
自分の反射神経の無さに、エリィは今度こそ自身の不甲斐なさを心底思い知ることになった。
ゲルダの忠告も空しく、側腹部に走った鋭い痛みに、エリィは声さえ出すことが出来なかった。
咄嗟に立ち上がったエリィの体は衝撃で路上に吹き飛ばされ、地面を擦る。
世界が何度も回転し、ようやくその動きを止めた。正しくは、エリィの体の動きが止まった。
「っ、ぐぅ……」
何が起きたのか、さっぱりわからない。あまりに唐突の出来事で、思考が働かない。
それでも、エリィは必死に瞳を動かして、視界の先に少女の姿を捉え――戦慄した。
「ゲル、ダ」
先ほど感じた不快な香りは、鉄の匂いによく似ていた。
霞んだ世界の中でもわかる。ゲルダの身にまとう衣装を紅く染め上げているものは、彼女自身の、血液だ。
「逃げて、お願い……!」
暗がりでよく見えなかったが、彼女の顔色はすっかり青白く、その瞳には涙が溜まっていた。
彼女の両手は大きく変形し、その鉤爪の先からはぽたりぽたりと鮮血が滴り落ちて、彼女の足元さえも紅に染めている。
その鮮血が自分のものだと気づくまで、エリィは数秒の時間を有した。
「なんで――」
事態に、理解が追い付かない。こんな状況は、おかしい。
「あーあ、一撃で殺せって言ったじゃん。ヘタクソ」
氷のように冷え切った第三の声に、エリィが身を固くする。
「ぅ」
不意にゲルダのあごが持ち上がった。いや、何者かが彼女の前髪を掴み、無理やり顔を上げさせたのだ。
宙を浮遊し、至極つまらなそうにゲルダを見下ろす、桃色の髪をした少女が。