後悔と未練を超えて
「また一人で泣いていたのか、ニーナ」
「…………」
「辛いことがあれば、私の元へ来るようにと伝えていたはずだ」
「……申し訳、ありませんでした」
震えた声を隠そうと、両手を握りしめる。先ほどまで、中庭で剣の素振りを続けていたところ、自分を良く知る兵士に見つかった。彼は目くじらを立てて怒鳴った。誰かに見られたらどうするつもりだ、と。
当然人通りの少ない場所を選んだ。樹木の影になる場所を選んだ。
昨日の稽古で、怒鳴られたばかりだったから。
「謝る事ではない」
もう怒鳴られるのが嫌で剣を持ったのに、どうしてこうなってしまったのだろうと泣いていた。それを、兄に見破られてしまった。
冷ややかな声が、今は逆につらかった。
「申し訳ありません」
ああ、また謝ってしまった――。
「いや、すまない。責めるつもりはないんだ」
そう言葉を悔いた時、十は離れた兄の手が、頭に触れたのがわかった。
「意思疎通というものには、どうも不慣れでならない。……つまり私は、お前の味方なのだよ」
「味方……、ですか?」
「そうだ。この城の全ての人間が、お前を非難し罵倒しようとも。私だけは、お前をそんな刃から守ろう」
頭から離れていく温もりにもの寂しさを感じていた。その瞬間、温もりは体全てを包み込んだ。
「お前が私を求める限り、私がお前を見限ることは無い。だから」
背中に回った大きな両手が、力んでいた。
「どうか、私の一番の理解者であってくれ」
* * *
当時は理解できなかった言葉が、今は痛いほどニーナの心へ突き刺さる。
人ならざる者として使命を背負っていたダリアラは、当時からこの未来を見据えていたのだろう。計画はじわじわと王国内を侵食し、先代国王の死をきっかけに大きく目標達成へと動き出した。
思い返された記憶の中のダリアラは、その計画の一端として、ニーナを「使える駒」として育成していた最中だったのだろう。
彼の思惑通り、ニーナはダリアラの命令でしか動くことの出来ない傀儡人形に堕ちていた。
そんな過去の自分と、ベッドの上でもの寂しそうに窓の外を眺めていたダリアラの姿が、炎の中に消えていく。
ちりちりと、ニーナの眼前を煤が飛び交った。
炎の中で燃える記憶の中のダリアラが、今のニーナに重なっていく。
あの時ダリアラに隠れて泣いていたのは、彼に要らぬ心配をさせたくなかったからだ。
必要以上に、彼に頼りたくなかったからだ。
あなたまで、私を裏切るのね。
炎の中から、蘇ってくる。数時間前の、自分の言葉。
裏切ったはずがない。あの、まっすぐで素直で、自分を信じると言ったあの少年が。
(どうして、あんなことを言ってしまったのだろう)
違うと叫んだ彼の悲痛の表情が、胸に刺さる。かっとなってしまった、では済まされない。
彼を傷つけてしまった。彼を、裏切ってしまった。
今戻れば、間に合うだろうか。彼の手をとり、共に立ち上がることが出来るだろうか。
ニーナは一度瞳を閉ざし、先へと走り出した。
それは甘えだ。どれ程ダリアラとエリィの中に因果があろうとも、この戦いの中に最初に彼を巻き込んだのは、自分なのだ。
今更、彼に頼るわけにはいかない。そう後悔を拭い去って。
* * *
謁見の間にダリアラの姿はなかった。さらに階段を駆け上がり続け、ふとニーナは足を遅くした。
そこにあったはずの廊下が、消え失せている。
天井が崩れ落ち、存在しないはずの屋上とも呼べる空間が出来上がっていた。足場は相当悪いが、ここまでひらけた空間はこの城でもそう無い。
昔から設備の整った屋上が存在していたならば、何度か夜空を見に来たものを。ニーナはそんなことを考えながら、ゆっくりと足を進めていく。
足を止め睨みつけた先に、身の毛がよだつ程に美しい漆黒の翼。金色に輝く双眼。赤黒く、淡く発光を続ける幾何学模様が浮き出た肌。
親の顔より見たその顔でさえ、記憶の中の存在とは全くの別人のようだ。
「ニーナ」
変わらないのは、その声だけ。
「ダリアラ様」
「何しに来たのか――などとは、甚だ愚問だな」
彼を取り巻く淀んだ空気の渦が、ニーナの体を逆撫でる。
世界の終わり。そんな単語が、この小さな場所に集結していた。
ここは、人が生きてゆく空間ではない。
「ダリアラ様。あなたの命令を、私は今も覚えています」
五臓六腑が拒絶反応を示している。肌のいたるところに鳥肌が立つ。呼吸が浅くなる。視界が狭まる。気を抜いた瞬間足が勝手に動いて、この場から逃げ出してしまいそうだった。
「『アレクシス』の発見と、その破壊」
その中心に立つ存在は、まさに人ならざる者。
「私はまだ、その使命を果たしていません」
「それについては、もう忘れろと伝えたはずだが」
優し気な兄の姿は、もう見えない。
「私が、選んだのです。『アレクシス』を、破壊すると」
遠くへ置いてきてしまった少年の影が、ニーナの背中を押していた。
ダリアラは彼女を鼻で笑う。
「お前が選んだ? ……違うな」
手を腰に当て、ダリアラの体が少しずつ宙へと浮いていく。
「自身を正当化するために、私の言葉を利用しているだけだ。お前は、私の言葉でしか動けない駒。そうなるように、私が育てたのだから」
わかっていたことでも、こうして本人の口からは聞きたくなかった言葉だった。しかしニーナにとっては、最後の踏ん切りをつけられる良い機会だったのかもしれない。――良いかどうかは、彼女自身にもわからないが。
「今お前は、周囲の影響を受けているだけに過ぎん。それはお前の意思ではない」
ニーナの肩から、力が抜けた。
「――いいえ」
ここへ来て尚、ダリアラはニーナの意思を揺さぶろうとしている。そう気づいた。
「何度も悩んで、私自身が決めたことです。あなたが間違っていると思うから、私はあなたを止めるのです」
震えていた指先に力を込めて、ニーナは腰から下げていた剣の柄を握る。すらりと鞘からその身を抜き出すと、鞘は遠くへ投げ捨てた。
「だから剣を持ち、あなたの御前に来た。……なにを言われても、私の意思は変わりません」
戦いが終わるまで、どちらかが倒れるまで。再び鞘を手にすることは無い。そんな意思表示だった。
「そうか」
ニーナの意思をくみ取ったのかはわからない。しかしダリアラはニーナへの期待を全て捨て去ったかのように、その手を動かす。舞台に立つ俳優のように、大げさに。
「私は伝えたはずだ。お前がどんなに奮闘したとして、『運命』には抗えない、と」
一方的な言葉だった。そこに、ニーナの意思などないのだとわかった。
それどころか、彼以外の全ての人類が、彼の意のままに動くほかないのだと。誰もが全てを諦めてしまいそうな程に、その言葉は冷酷だ。
それでも、ニーナが剣を下ろすことは無かった。
「もう、決めたのです」
「……残念だ」
ダリアラの関心が、一気に消え失せたのが分かった。いや、正しくはダリアラから向けられる「期待」が、消え失せたのだ。
自身に向けられる視線は、最早周囲を飛び交う害虫に対するものと同等。もしくはそれ以下に見られているのかもしれない。
ただ飛び交うだけではなく、彼の意思に反するどころか、それを邪魔しようと動く存在なのだから。
「私も、残念です」
ぴくりとダリアラの眉が動く。
「あなたが私の全てだった。――そんな過去に、未練はありません!」
腰を下げ両手で剣を構えたニーナが、ダリアラを睨みつけて叫んだ。
「私は抗う! あなたの運命に!」
ダリアラの口角がみるみると下がり、大きな手で無造作に長い髪をかき上げた。その表情と態度には、不愉快という言葉がよく似合う。
「やってみろ」
悪鬼のように低い声が、ニーナの足を動かした。