絶やさぬ希望
筋肉に覆われた体でさえ、冷ややかな空気には身を震わせていた。
口から吐き出した白い息は、ため息だったのだろうか。
巨大な流れ星と、不可解な地響き。異常現象、いや、天変地異が進行を続けている証拠なのだろうと、容易に想像することが出来た。
子供の泣き叫ぶ声。それを宥める大人の声。ただただ誰かの名を呼ぶ声。現状に打ちひしがれる声。理不尽に対する怒声。二人の指揮者と離れたベテルギウス捜索部隊は、そんな人々の声に耳を塞いでいた。
主人の安否、家族の安否を按ずる声は、全ての兵騎士から上がっていても不思議はないのだ。
中には家族を見つけ喜ぶ兵士の姿もあったが、その姿に対し「なによりだ」と肩を叩く者はいない。
吹き荒れる風に目を細めて、シンハーは暗闇の先へ視線を向ける。冷ややかな空気は、気圧や沈んだ太陽のせいだけではないのだろうと気づいた。
突然訪れた夜闇の中で、確かに感じるのは威圧だ。
目にしたこともない聖都に建っているであろう王宮の姿が、不思議と身近に感じた。
「団長! 全索敵部隊の帰還を確認致しました!」
聞きなれた部下の声に、シンハーは重い腰を上げる。
「いいタイミングだ。いや、遅ェくらいか」
何百の視線を感じながら、シンハーは人々の中を歩いていく。
「連絡の準備は?」
「滞りなく」
頷いたシンハーの向かった先では、数名のアルケイデア兵が、高台に上りなにやら作業を行っていた。正しくは、行っているのは作業ではなく点検だ。
「騎士団長殿!」
彼の姿に気づいた兵が、高台の上で敬礼する。それに気づいた他数名の兵士もまた、その姿に倣い敬礼を行った。シンハーは彼らと同じように敬礼を返すと、迷うことなくその高台へと登っていく。
「悪いっスね、任せきりで」
最初に敬礼をしたのは、ここに残ったアルケイデア兵の中で最も上官に当たる兵だ。短くそろえた青い髪が、彼がアンジエーラ族たる根拠と言えよう。
「いいえ。祖国の為なれば」
見るからに自分より若い青年には、生真面目という言葉がよく似合う。シンハーは心の中で呟いて、兵士たちがせっせと手入れを続ける小さな筒状の装置に視線を移した。
焚き火に照らされた銀の筒は煤に汚れ、その長寿を窺わせる。
「それで、騎士団長殿がこちらにいらっしゃったということは」
「帰って来たってことっスよ。この装置の出番だ」
視界の隅に立つ青年が、ほんの少し嬉々とした表情を浮かべた。
「準備は出来てるんスよね?」
「当然であります」
胸を張った青年兵の口角は、既にくっと結ばれていた。
「部隊が帰還した! これより点火を行う! 総員備えよ!」
暗闇でも通るその声に、アルケイデア兵は勿論のこと、ミエーレ騎士団員もが身を固くした。
「騎士団長殿、御下がりください」
素直にその言葉に従ったシンハーは、腕を組んで夜空を見上げた。
数分の最終点検の後、兵の一人が、なにやら重そうな玉を筒の中へと入れる。布を巻いた木の枝を焚き火にかざした別の兵は、引火した木の枝を持って筒に近づいた。その青年以外の兵が、少しずつ筒から距離をとっていく。
「これよりカウントダウンを始める!」
青年兵が声を上げると、ざわついていた国民たちの声が遠のいていった。
高台の下の兵たちが、驚かさないようにとこれから起きる出来事について伝え歩いているのだろう。
「3! 2!」
数字が小さくなっていく。
「1!」
シンハーは、ジェシカとの共同作戦を思い出していた。
「点火!!」
筒の中へと投げ入れられた火種が、先客を空へと放っていく。高く長く、細い音。
街を散策している途中、花火師とやらの家から拝借してきた道具だとシンハーは聞いている。花火という存在はミエーレには無いが、曰く国を挙げた祝い事があった日などに打ち上げられるものだという。
おそらくは、来たる新王誕生に向け、せっせと花火師が制作していたものなのだろう。
「……!」
一瞬の無音の後に、夜空には美しい色が舞い散った。頭上に咲いた火花は一瞬でその美しさを夜空へと溶かし、やがて地を揺らすような低音が聞こえた。
花を名乗るには、些か形がいびつではないのかとシンハーは思う。しかし人々の視線は、その美しい光に釘付けだった。
「……以上です」
光を失った後も空から目を離さないシンハーへ、青年兵が遠慮がちに声をかけた。
ふと我に返ったシンハーが、組んでいた腕を下ろして頷く。
「ああ、感謝します」
打ち上げの発案者は、街中で花火について説明を受けたシンハーだった。
「しかし聖都突入部隊は、これを合図だと受け取ってくださるでしょうか……」
彼らにとって、花火は合図を行うための物ではない。しかしシンハー並びにミエーレ国の者からすれば別だ。何かを祝うための物であるという先入観はない。なにせ、初めて目にするものなのだから。
それを悟ったシンハーは、残されていたアルケイデア国民たちの捜索が終了したことを、聖都突入部隊に伝えるための手段にした。この絶望の中で、彼らの不安が少しでも払拭されるように。
「安心してくださいよって。それについては何度も」
「それに」
視線を落とした青年兵が、ぐっと手のひらを握る。
「そもそも、兵団が存続している可能性だって――」
そこまで言って、青年兵は気づいたように言葉を止めた。
「……いえ、失言でした」
青年兵の奥には、彼と同じように視線を落とすアルケイデア兵の姿がある。
突入部隊からこちらに向けた合図は未だない。元よりそのようなものは用意していなかったのだから当然だが、想定よりも長い間待たされているのは事実。
突然の夜闇が世界を包んでから、既に数日が経過している。最悪の可能性を考えてしまう彼らの気持ちが、全くもってわからないわけではない。
今度は両手を腰に当て、シンハーは首を鳴らした。
「ま、そん時はそん時っスよ。王子たちだって人間だし、死ぬ時は死ぬ」
「な……!」
彼が言いかけて止めた失言以上の失言に、青年兵は言葉を失う。
「ま、俺はうちの王子を信じてるんで。そっちは違うんスか?」
結局、突入部隊が潰れてしまえば、この世界は消えてなくなるのだ。
今から彼らを追ったとして、最終決戦に間に合うかは分からない。
だとすれば今、自分たちに出来ることは、ここでアルケイデア国民を守ること。そして、彼らを信じることだけ。嘆く暇などないのだ。
そんな意図に気づいた青年兵は、改めて背筋を伸ばし力強く頷いた。
「当然です。ハイドラ様にはこれまでの無礼を謝罪しなければ、死んでも死に切れませんので!」
「俺もスよ」
若き精鋭に頷き返したシンハーは、しかし自身の中の焦燥に気づかぬふりなど出来なかった。
* * *
夜空に咲いた色鮮やかな明かりが、走る自身の足元を照らしたような気がした。
道中最大の脅威と身構えていた獣は姿を現さず、夢中で走り続けるニーナを止めたのは、その光だった。
酸欠でかすむ視界を、額から伝った汗が更に歪ませていく。自分のものとは思えない程早まった鼓動が、ニーナの焦燥をさらに加速させていた。
住み慣れたアルケイデア城の窓からは、今も白い軌跡を不規則に描き続ける夜空があった。使用人たちが丹精を込めて育てていたはずの中庭の花々は、すっかり枯れてしまっている。目の前に続く廊下はエリィと共に訪れた時の姿から一変し瓦礫や灰、血液に覆われ、中には小さな隕石が衝突したのか、天井がぽっかりと空いてしまっている場所さえある。
まるで、初めて訪れた遺跡を巡っているかのような気分だった。
「!」
再びどこかに隕石が衝突したのだろう。衝撃がびりびりとニーナの細い足を伝い、彼女の心臓を揺さぶった。
額から流れた汗が、頬を伝って落ちていく。立ち止まっている場合ではないのだ。
ニーナは竦んだ体に鞭を打ち、再び城の上へと目指して進んでいく。
ふと、上った階段の先に一つの扉が見えた。
見紛うはずも無い――。あれは、ダリアラの部屋だ。
開かれた扉の中から、炎が上っていた。出火の原因はわからない。それでも炎は、無慈悲に室内の全てを焼き尽くしていた。
「…………」
揺れる火炎の先で、過ぎ去った日々が燃えていた。